(田丸 昇:棋士)

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祖母から将棋を教わった藤井

 藤井聡太四冠(竜王・王位・叡王・棋聖=19)は5歳のとき、祖母から将棋のルールを教わった。祖母は駒の動かし方しか知らず、指してみたらすぐに勝てるようになった。少しは強い祖父にも勝ってしまった。藤井は勝つことのうれしさで将棋に熱中した。同じ頃に祖母から囲碁も教わって打ってみた。祖母は将棋と同じく初心者だったが、藤井はなぜか勝てなかった。

 藤井が祖母に将棋で負けていたら、果たして将棋の道に進んだであろうか・・・。または祖母に囲碁で勝っていたら、囲碁に熱中したであろうか・・・。

 藤井が将棋の道に進んだきっかけは、このように偶然の成り行きによるものだった。ほかの一流棋士たちの例も挙げてみる。

母親の買物時に羽生は将棋クラブ

 羽生善治九段(51)は小学1年のとき、近所に住む同級生のTくんに将棋を教わった。最初はなかなか勝てなかった。七夕の短冊には「Tくんに将棋で勝てますように・・・。彦星さま、将棋盤をください」と願い事を書いた。父親は将棋を指さなかったので、家には将棋盤がなかった。

 やがて羽生はTくんに勝てるようになったが、Tくんは東北に転校してしまった。将棋の相手を失ったので、仕方なく母親や妹と指したが、まったく勝負にならなかった。

 羽生の実家は東京・八王子の郊外にあった。母親は週末に車で八王子駅近辺に買物で出かけた。羽生は妹と一緒に連れられたが、とても退屈だった。その車中で「八王子将棋クラブ」という看板が見えた。母親は買物をしている2時間ほど、児童館の代わりに将棋クラブに預けることにした。

 羽生は毎週、夢中になって将棋を指した。そして、ぐんぐんと強くなり、将棋への道に進んでいった。

谷川の最初の師匠は百科事典、二番目は?

 谷川浩司九段(59)は幼年時代、家の中で遊ぶのが好きだった。遊び相手は5歳年長の兄で、ダイヤモンドゲームなどに興じた。その兄弟は何かにつけて喧嘩した。それを見兼ねた父親は喧嘩を止めさせるために、文房具店で将棋の盤駒を買って兄弟に与えた。ただ父親は将棋をまったく知らなかった。百科事典を見ながら、将棋のルールを兄弟に教えた。谷川が5歳のときだった。

 谷川兄弟はたちまち将棋に熱中した。弟は先に強くなった兄に負けて悔しがり、またも喧嘩した。それでも毎日のように指し、ともに強くなっていった。

 谷川は「最初の将棋の師匠は百科事典で、二番目の師匠は常に目標とした兄でした」と、後年に語った。幼年時代の兄弟喧嘩が、将棋への道に進むきっかけとなった。

棋士だった祖父の存在を意識した森内

 森内俊之九段(51)は幼年時代、鉄道に興味を持っていた。近所の踏切で通過する電車をずっと眺め、まったく飽きなかった。電車に乗ると先頭車両の前に立ち、窓越しに運転士と運転計器を見て楽しんだ。

 森内は好きなことに熱中したが、ほかのことは興味がなかった。親に勧められてピアノ、お絵描き、水泳、習字を習い、ボーイスカウトの活動に参加した。しかし、いずれも長続きしなかった。

 将棋を9歳で覚えたとき、祖母に日本将棋連盟から送られてきた『将棋世界』誌を渡され、将棋の棋士という職業があるのを初めて知った。実は、祖父の京須行男(享年46)は八段の棋士だった。

 森内は将棋に熱中すると、祖父の存在を意識するようになった。そして、将棋への道に進んでいった。

将棋を指すと熱が下がった大山

 大山康晴十五世名人(享年69)は昭和時代初期、6歳で将棋を覚えた。その年に病気になり、岡山県の実家で療養していたとき、近所の人がお見舞いに来て将棋を指してくれた。すると熱が下がって楽になったが、後で熱が上がった。翌日にその人と将棋を指すと、また熱が下がった。そんな不思議なことがきっかけとなり、将棋を本格的に習って上達した。

 大山は小学4年のとき、学校の成績が落ちたことで、担任の教師に「将棋を止めろ」と命令された。仕方なく従ったが、将棋を指せない辛さで沈んだ表情を浮かべる日々を送った。父親は息子の様子を心配して小学校に相談に行くと、新任の教師は「どんな道でもいいから、日本一になりなさい」と激励してくれた。

 大山はそんな理解者のおかげで、将棋への道に進んでいった。後年には日本一となる名人に就いた。

「ケガの功名」で棋士を志した升田

 升田幸三実力制第四代名人(享年73)は昭和時代初期、10歳で将棋を覚えた。地元の広島県で将棋の腕は無敵だった兄に厳しく指導された。広島県は昔から武芸が盛んだった。升田は「剣聖」と謳われた宮本武蔵に憧れ、剣術家になりたいと思っていた。しかし12歳のとき、自転車に乗って坂を下る途中で横転し、岩にぶつかって左足を大ケガした。実際には骨折しなかったが、「剣術家にはもうなれない」と思い込んだ。

 升田は、左足が不自由ながらも一流棋士になった土居市太郎八段(後年に名誉名人=享年85)のことを知ると、自分も同じ身の上なので、日本一の棋士になろうと心に決めた。まさに「ケガの功名」によって、将棋の道に進んでいった。後年には「新手一生」を唱えて創造的な戦法を開拓し、「鬼才」と呼ばれた。

「神武以来の天才」と呼ばれた加藤

 加藤一二三・九段(82)は小学1年の頃、福岡県の地元で近所の子どもたちや次兄と将棋を指して、ほとんど負けなかった。やがて勝ってばかりでつまらなくなり、3年ほど指さなかった。小学4年のとき、新聞の将棋欄の観戦記をたまたま読むと、「将棋というゲームは、正しい手を積み重ねていけば勝てる、理詰めの世界なんだ」と思うようになり、将棋への興味を再び持った。

 母親はそんな息子を見て、将棋好きの人たちが集まる将棋クラブを教え、「行ってみたら」と勧めた。その一言がきっかけとなり、加藤は将棋の世界に進んでいった。後年には「神武以来の天才」と呼ばれた。

「かりん糖」を目当てに指した米長

 米長邦雄永世棋聖(享年69)の山梨県の実家は、戦前は有数の資産家だった。しかし、戦後の農地改革などで没落し、食うや食わずの貧乏暮らしを送っていた。5歳で将棋を覚えると、3人の兄たちと指して遊んだ。将棋好きの人たちが集まる近所の理髪店にも通った。そこで出されるお菓子の「かりん糖」を食べるのが目当てだった。時には「カツ丼」をご馳走になった。

 米長は、実家では出てこない食べ物に引かれ、その理髪店で将棋を指し続けた。やがて棋士を目指すほど強くなった。

 私こと田丸昇九段(71)は12歳で将棋を覚えた。そのきっかけは、「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に・・・」の歌詞で始まる、村田英雄が歌った『王将』をラジオで聴いたことだった。そのエピソードは、次回のテーマにする。

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藤井聡太 写真/Rodrigo Reyes Marin/アフロ