(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

JBpressですべての写真や図表を見る

 防衛省は11日、北朝鮮弾道ミサイルの可能性がある飛翔体を少なくとも一発、同国内陸部から東方面に発射したと発表した。岸信夫防衛相は「約700キロ飛行し、落下したのは日本の排他的経済水域(EEZ)外と推定される」と述べたが、さらに翌12日には、通常より低い最高高度約50キロ程度を最大速度約マッハ10の変則軌道で飛んだ可能性がある、との分析を発表した。

 一般的にマッハ数が1.3~5.0程度のものを「超音速」、5.0を超えるものを「極超音速」と呼ぶが、北朝鮮のミサイルの速度がマッハ10程度だったというのが事実であれば、金正恩キム・ジョンウン朝鮮労働党総書記は極超音速兵器を手にしたということになる。

「わが道」を行く北朝鮮

 北朝鮮は5日にも極超音速ミサイルを発射しており、10日(現地時間)には国連安保理が開かれたばかり。外務省幹部は「わざとこのタイミングを狙ったのではないか」と指摘していた。

 ただこの5日のミサイルについて、韓国軍当局は「北朝鮮が発表したような極超音速ミサイルではなく一般の弾道ミサイルだ」と反論していた。

 このときの韓国軍の見解によれば、北朝鮮が発射したミサイルは「機動型の翼をつけた弾道ミサイルであり、北朝鮮が主張した極超音速ミサイルではない」「極超音速ミサイルは全体飛行中の3分の2の区間で速度がマッハ5を超えるが、今回のミサイルは、最高速度がマッハ6だったものの、その後は速度がはるかに落ちた」ということである。

 しかしそれからわずか6日後の11日に再度発射されたミサイルはマッハ10近く出ていた。北朝鮮がこのミサイルを発射したのは、韓国軍北朝鮮の極超音速ミサイル発射を否定した分析に反論するためではないかとの見方さえ出ている。

 こうした北朝鮮の行動を総合して考えると、北朝鮮は今回のミサイル発射によって、今後は国際社会の批判を受け付けず、ミサイルの性能向上を断固として進めていく意思を示したと見てよいのではないか。

大統領選挙まであと2カ月、理解しがたい北朝鮮の行動

 韓国では、3月9日大統領選挙が行われるが、過去の大統領選挙で北朝鮮問題は「北風」と呼ばれ、大統領選挙の構図の中で大きな“変数”として作用してきた。北朝鮮による軍事的挑発など、韓国にとって否定的性格を帯びる場合には保守陣営に有利に作用することもあったし、南北和解など肯定的シグナルを送るときには進歩陣営にプラスとなってきた。

 1980-90年代の大統領選挙を振り返っても、例えば1987年大韓航空爆破事件は同年12月の大統領選挙の前月に起きている。これは、北朝鮮大統領選挙を前に韓国の与党に打撃を与えることが目的の一つだったと分析されている。

 もっとも現実には逆の作用を果たした。後に明らかになったことだが、当時の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領は、事件直後から、バーレーンにて拘束されていた実行犯「蜂谷真由美」こと金賢姫(キム・ヒョンヒ)の身柄を、遅くとも大統領選前日までに韓国に移送することを関係当局に命じていた。実際、金賢姫の移送は大統領選挙前日に実現、これは与党の大統領候補・盧泰愚(ノ・テウ)にとって明らかに追い風となった。

 2000年代には南北離散家族再会と南北首脳会談など肯定的要素で、韓国の有権者の心を惹いた。これは金大中(キム・デジュン大統領(在任期間:1998年2月~2003年2月)やその後任の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(在任期間:03年2月~08年2月)の支持率や大統領選に有利に働いた。

 そして今回、大統領選挙まで2カ月弱残すのみとなり、選挙戦も終盤にかかろうとするこの時点での「極超音速ミサイル」の発射である。この北朝鮮の行動を、大統領選との関係から分析すると、不可解と言える。

 極超音速ミサイル発射という軍事的挑発行為を起こし、核ミサイル開発へのゆるぎない姿勢を示したことは、むしろ保守陣営を支援しかねない行動である。これは北朝鮮に融和的な進歩・革新系の候補にはマイナスの要素として働きかねない。

 進歩・革新系にとって有利となる状況を作るのならば、文在寅ムン・ジェイン大統領が進めている終戦宣言に前向きな姿勢を示し、平和攻勢をかけるだろう。しかし、北朝鮮はこの点については沈黙を維持している。共に民主党候補の李在明(イ・ジェミョン)氏としては気になるところであろう。

 一般論でいえば、北朝鮮は挑発的行動を非難せず、融和的な政策を続ける政権が今後も持続することを望むはずである。しかし、現実にはそうなっていない。

 北朝鮮は韓国大統領選挙に介入する気はあるのか、いかなる形で介入しようとしているのか。直感的には理解し難い状況である。

北朝鮮の最優先事項は軍事・外交よりも内政課題の克服

 金正恩総書記は昨年12月27~31日に開いた朝鮮労働党中央委員会の第8期第4回総会で、軍事力の強化や農業生産の拡大を目指す22年の活動方針を報告した。メディアは対外政策については詳しく報じておらず、南北関係についても「堅持すべき原則と戦術的方向を提示した」と伝えるのみである。

 国防政策については、「日ごとに不安定になっている朝鮮半島の軍事的環境と国際情勢の流れは、国家防衛力の強化を片時も緩めることなくいっそう力強く推し進める」「現代戦に相応した威力ある戦闘技術機材の開発、生産を力強く推し進め、国家防衛力の質的変化を強力に促す」と訓示した。

 総会では厳しい食糧事情の改善が重点課題に挙げられていた。農業政策、経済の立て直しが最優先で取り組む課題ということであろう。

 こうした総会での議論を見ていると、金正恩総書記は南北関係について、韓国の大統領がどのような対北姿勢を取るかという点よりも、韓国に有無を言わせない軍事力を手に入れることを重視していると考えざるを得ない。

 韓国に北朝鮮を敵視しない大統領が誕生することは望ましいが、そのために北朝鮮の原則と戦術的方向を変える意図はないだろう。文在寅政権の対北融和政策は優柔不断であり、米国を動かして北朝鮮が求める行動を取っていない。北朝鮮は、強力な軍事力を誇示することで、経済制裁を解除させようとしているのであろう。

「終戦宣言」は文在寅大統領の独り相撲

 一方、間もなく任期を終える韓国の文在寅大統領にとって、最後まで望みをつなぎたいのは北朝鮮との「終戦宣言」の実現だ。

 文在寅大統領は3日の新年の辞で「未完の状態である平和を持続可能な平和へ制度化する努力を任期最後まで辞めない」と終戦宣言に対する強い意思を改めて表明した。同大統領は昨年12月13日、韓豪首脳会談の際「終戦宣言に関して米・中・北朝鮮共に基本的、原則的な賛成がある」と述べているが、この発言内容には根拠が見当たらない。北朝鮮に関しては、昨年9月金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党副部長や金正恩総書記が終戦宣言に言及したことを指しているつもりなのかも知れないが、北朝鮮はそれ以降3カ月にわたり沈黙を守っている。要するに、終戦宣言に関しては文在寅大統領の「独り相撲」状態なのである。

 だから、文政権は北朝鮮の挑発行動に対しても非難らしい非難はしてこなかった。

 5日、北朝鮮が「極超音速ミサイル」を発射した時、文大統領は南北関係改善のため、韓国最北端の南北鉄道協力事業の現場を訪れるところであった。文大統領はミサイルの発射を知った後も、ヘリコプターに乗り込み、予定通り行事に出席した。文在寅氏は「われわれはこのような状況を根源的に克服するために対話の糸口を手放してはならない」と述べ、挑発に対する批判・糾弾は行わなかったのだ。

 文政権はできる限り北朝鮮の武力示威を問題視せず、国民が騒ぎ立てないようにしてきたと言える。

 しかし11日になり、北朝鮮が新たに発射したのが実際にマッハ10ほどの極超音速ミサイルであることが判明すると、さすがに「懸念」程度は表明しないわけにはいかなくなった。この日、国家安全保障会議(NSC)常任委員会の緊急会議の結果報告を受ける席上、「大統領選挙を控えた時期に北が連続してミサイル試験発射をしたことを懸念する」とし、「これ以上南北関係の緊張が高まらず、国民が不安を感じないよう、各部処が必要な措置を講じてほしい」と指示したという。要するに、北朝鮮の行動が保守系の大統領候補にとって有利となることを懸念したということになる。

 その一方で青瓦台関係者は記者に対して、「政治的な転換の時期には南北関係の緊張が高まらないことが必要だ」と述べ、「困難に直面した面もなくはないが、終戦宣言の必要性は高まった」と強調したのだという。この期に及んでも「終戦宣言の必要性は高まった」という認識をあえて示すというのは、文在寅政権の対北融和路線もまた変わらないのだろう。

北朝鮮にとって有効な韓国大統領選へ介入の方策はない

 北朝鮮に対し終始融和的な姿勢を取り続けてきた文在寅大統領も、3月にはその後任が決まる。ただ、誰が選挙で勝っても、文在寅氏のように北朝鮮の立場を擁護し、あくまでも北朝鮮に対する支援を行おうとする大統領にはなりそうもない。

 そうした中で韓国に対して挑発的行動に出る北朝鮮の意図については、精緻に分析してみる必要があるだろう。

 韓国の主要紙「中央日報」はナム・ソンウク高麗大学教授による以下のような分析を伝えている。

労働党全員会議で議論された戦術的方向は当分南北または米朝関係で先制的歩みに出る代わりに韓米の今後の行動を見守った後対応するという意味と読み取れる。そのため北朝鮮の立場でも韓国の大統領選挙は重要な関心事にならざるをえないだろう」

 では北朝鮮は、韓国大統領選に影響を及ぼすようなメッセージを出す可能性があるのだろうか。

 それがあるとすれば、大きなタイミングは北京オリンピックの場と考えられていた。文在寅大統領は「外交的ボイコットを検討しない」と表明している。もしも北京で北朝鮮の幹部と会談することが出来れば、そこで北から何らかのメッセージを受け取れる可能性はあった。しかし北朝鮮は「敵対勢力の策動」と「新型コロナの感染拡大」を口実に北京オリンピック大会に参加できないことを関係者に通知する手紙を送ったと表明。北京での北朝鮮との政府ベースの会談の望みは完全に断たれたと言っていい。

 それでも北がメッセージを出す可能性が皆無ということもない。大統領選挙前にメッセージを出すもう一つのタイミングとしては「2月」になるとの見方がある。2月16日金正日キム・ジョンイル)国防委員長の80回目の誕生日(光明星節)で、それに先立ち6日には最高人民会議が開かれる。そこが大きな山場になる。ただ、その時を逃せば、北朝鮮の融和的な反応は期待できないだろう。

韓国大統領選の主要候補全員を酷評

 そもそも北朝鮮は、韓国の大統領選挙について厳しい見方を続けている。

 北朝鮮の宣伝メディア「わが民族同士」は先月末、「選挙の構図が1日後も見通すのが難しいめちゃくちゃな大統領選挙になっている」「大統領選候補の家族の議論をめぐる与野党間の非難攻勢がさらに激しくなっている」と皮肉った。

 また、各候補について北朝鮮の宣伝メディア「統一のこだま」は李在明氏を「腐った酒」、尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏を「あまり成熟していない酒」、安哲秀(アン・チョルス)氏を「混ぜこぜにした酒」とこき下ろした。

 北朝鮮の非難に対しまともに反論できないのが悲しい現実である。

 中央日報によれば、こうした酷評がなされることに対して韓国の北朝鮮専門家は「大統領選候補に対する非難を通じ次期執権勢力との関係で主導権を握ろうとの意図が隠れている。大統領選挙が迫るほど北朝鮮の介入の試みがさらに頻繁になる可能性がある」と分析しているという。

 ただし大統領選の主要候補全員に対して酷評しているので、特定の候補に有利・不利になるようなものでもない。この宣伝メディアを通じてのメッセージは、誰が大統領になっても主導権を北が握るという意思表示なのかもしれない。

 先ほど紹介したナム・ソンウク高麗大学教授による「北朝鮮の立場でも韓国の大統領選挙は重要な関心事にならざるをえないだろう」との分析も、1月11日の「極超音速ミサイル」発射前に報じられたものだけに、すでに前提が変わってきていると見ることもできる。つまり、大統領選に影響を及ぼすかもしれない時期に立て続けに弾道ミサイルを発射してみせたということは、もはや金正恩総書記にとって韓国の次期大統領に誰が選ばれようが眼中にない、ということなのかもしれない。

文在寅氏の無条件での北朝鮮傾斜を非難する李在明氏

 もちろん韓国としては、本来このような状況を座視しているわけにはいかない。

 では、韓国の大統領選の候補者は、それぞれ北朝鮮にどのようなスタンスを示しているのだろうか。

 李在明氏は先月30日、韓国新聞放送編集者協会の討論会で、北朝鮮問題に関し、「守れないことは合意してはならず、合意すれば守らなければならないが(南北)合意を守れなかった側面があるようだ」と述べた。さらに「開城の南北連絡事務所爆破の口実となった」「(自分が大統領になれば)こういう点では違うやり方をする。北に対して言うべきことは言う。屈辱的だという非難を受けないようにしっかりとやる」と述べ、文在寅政権の北朝鮮従属姿勢を批判した。

 また、1月10日に行われた中央日報とのインタビューでは「(金委員長の非核化意思を)信じることもなく、信じないこともない」「重要なのは非核化をすべきということであり、どのような過程でするかが悩みの種」「彼(金委員長)がどんな考えをしようと、非核化をすることが重要だ」とのべ、非核化の意図より成果を生み出すことが重要だと強調した。

 李在明氏の対北政策は簡略化すれば「北朝鮮にも言うべきことは言う」という立場であり、ミサイル発射についても「極めて遺憾だ」ということになる。

 李在明氏が文在寅氏の北朝鮮政策を批判する背景には、北朝鮮の挑発行動によって大統領選挙で悪影響を受けたくないという考えが背景にあるのだろう。李在明氏は、文在寅氏の終戦宣言構想から距離を置き始めている。ただ、李在明氏はポピュリストであり、もしも大統領になれば、その後どのような政策を打ち出すかは未知数と言える。

次期大統領が李在明氏以外ならば北朝鮮政策は変わるか

 最大野党「国民の力」の大統領候補・尹錫悦氏も、文在寅氏の対北朝鮮政策を強烈に批判している。尹氏は「振り返れば文在寅政権はどれほど韓米同盟を弱化させたか、北朝鮮第一主義の外交政策はどれほど安保体制を揺るがしたか」と主張している。さらに「私が大統領になれば、自国の力を高め、同時に韓米同盟を強固にしてしっかりと安全保障環境を構築する」と公約した。

 基本的には米韓同盟を強化する意向で、北朝鮮に融和的な態度をとることはなさそうだ。

 中道系の野党「国民の党」の大統領候補・安哲秀氏は、11月14日に発表した国防・安保公約の中で、「北朝鮮は核を放棄し、早期に6カ国協議に復帰して核問題の解決に取り組むべき」「北朝鮮の軍事的挑発はいかなる場合でも許されず、韓国軍は徹底した防衛体制で国民を守る責務がある」と強調した。

 そして自身が大統領に就いた場合には「朝鮮半島非核化の原則を遵守するため外交努力を傾けるとともに、韓米共同の核抑止戦略を継続的に発展させ、北朝鮮の核脅威に対する軍事対応能力を確保する」と約束した。

 今さら6カ国協議というのは時代遅れな気もするが、やはり「米韓同盟重視、北朝鮮の核放棄に妥協せず」というスタンスは確固としているようだ。

 文在寅政権の対北政策に比べれば、尹錫悦氏、安哲秀氏ばかりでなく、李在明氏さえ一応現実的な北朝鮮政策を考えていると言える。ただそれぞれの「対北朝鮮スタンスには、これから投票日までの間の北朝鮮の行動によって差が生じてくる可能性もあり、ポピュリストが争う大統領選挙であるので当選後、どうなるかはその時まで分からないだろう。

 韓国国民は、文在寅氏の対北朝鮮政策を信奉しているわけではないだろう。また、北朝鮮が非核化するとも考えていないだろう。その意味では、間もなく大統領が交代するというのは北朝鮮政策も転換点を迎える可能性が高いということで、韓国国民にとってもポジティブなことだと言える。

 ただ、国民の目下の関心は、新型コロナ対策や不動産問題、雇用問題に向いており、南北問題のウエイトはそれほど大きくないようだ。しかし、いかに文在寅大統領が矮小化して見せようとしても、北朝鮮の軍事的技術が発展し、韓国にとってもますます脅威となっている現実は直視してほしい。そのうえで、各大統領候補の対北スタンスを見極めたうえ、信じる候補に一票を投じてもらいたいと思う。

 文政権の対北朝鮮傾斜、安保思想の欠如については拙書『さまよえる韓国人』(WAC)をご参照願いたい。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  朝日の記者まで、韓国捜査機関が野党や記者の通信記録を大量照会

[関連記事]

韓国大統領選で主要2候補にアンチ急増、第三の男・安哲秀が浮上

レールガンに「オワコン」の声、それでも開発する真の狙いとは?

1月3日、大統領府で新年の辞を述べる文在寅大統領(写真:YONHAP NEWS/アフロ)