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住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に旋風を起こしたバンドの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「『鳥の詩』(’81年)をリリースしたり、ホームドラマに出たりするような、全国の“とんがっていない人向け”女優だったので、そのイメージを壊しちゃいけないと思って、とんがっているBOOWYのライブには行くことはなかったのですが、自主製作映画(氷室京介主演で’84年に初公開された『裸の24時間』)の上映会に、ゲストとして呼ばれたときには、少しでも力になることができればと思って参加しました。BOOWYが売れて雲の上の存在になったときは、母と一緒にすごく喜んだんです」

こう語るのは、女優の杉田かおるさん(57)。

デビュー当時から応援していたBOOWYが駆け抜けた’80年代を、「レコードからCDに代わり、土地の値段はどんどん上がっていくーー。1年が10年分に感じられるほど、世の中が目まぐるしく変化していった時代。一歩間違えれば奈落の底に落ちてしまう側面もありましたよね」と振り返る。

杉田さんも、危ういバブル経済の渦中にいたとか。

「じつは二十歳のころに買った2,000万円のマンションが、バブルの初めに倍以上の値段で売れ、次に4,000万円のマンションを購入していたんです。それをいつ売るか、冷静に見極めなくてはならなくて、女優の仕事どころじゃなかったことも……」

購入したマンションを1,000万円かけてリフォームし、ここが多くの出会いを招く“開運部屋”となったという。

「母が近所の人や私の仕事仲間を呼んでご馳走するのが好きで、ドラマ(西武スペシャルドラマ『友よ』’84年・日本テレビ)で共演したチャゲ&飛鳥の飛鳥(涼)さんが、遊びに来たことがあるんです。当時はVHSが普及してきたころで『ちょっとボクってすごい天才なんですけど、聞いてもらえますか』って、ミュージックビデオを何本も見せてもらいました。そのあと『モーニングムーン』(’86年)や『ガラスの十代』(光GENJI・’87年)が大ヒットしたんです」

■たまたま終電を逃したBOOWYを泊めることに!

さらにこのリビングが“開運部屋”であることを確信させたのがBOOWYだったという。

「私の不良仲間にBOOWYのマネージャーをやっていた人がいて、ずっと『才能がある』と聞かされていたんです。たぶん彼らのメジャーデビュー前後だったと思うんですが、その人から『目黒駅近くで練習していたんだけど、終電を逃してしまって。みんなお金がないから、始発まで家に置かせてもらえない?』と、夜中に電話があったんです」

しばらくすると、黒い服を着た男たちが、30畳のリビングを見て「うわー、広いなー」と言いながら、ぞろぞろ入ってきたという。

「そのときは誰が氷室(京介)さんで、誰が布袋(寅泰)さんかわかりません。ウチには布団がなかったんですが、彼らは『雑魚寝でいいです』って。帰りの交通費もないくらいだから、おなかも減っているだろうと、次の日の朝は、母がごはんを作って食べさせてあげたんです」

帰り際、メンバーの一人が「ボクたち、お礼も朝ごはん代もなくて」と、なぜか靴下を置いていったという。

「母も『気持ちはわかるんだけど』と言いつつ、その律義さに笑っていました。いろんな人がウチに遊びに来ましたが、こんな生真面目にお礼をしていったのはBOOWYだけ(笑)」

その後、瞬く間に’80年代を代表するバンドに成長。

「誰よりも早く宝物を見つけたような、得した気分でいます」

この開運部屋もBOOWY人気でさらにパワーアップしたのだろう。バブルがはじける前に売ることができたとか。

80年代の荒波を無事に乗り越えられたのは、BOOWYのおかげだった!?