
ジャッキ事業家とは、北朝鮮に帰国した在日同胞の事業家のことだ。「在日同胞の子」の略語である「ジャッキ」に由来している。1960年代、母親の背中に負われて北朝鮮に帰国したシン氏は、北朝鮮で最も成功を収めたジャッキ事業家と言われている。
高麗ホテルの向かいにある昌光外国人宿舎に設けた日系企業の支社を運営しており、対北朝鮮制裁で海外取引が途絶えている中、現状を維持しながら再開の時期を待っている。シン氏がこれまで稼いだ財産はかなりの規模だ。シン氏は、どのような事業で成功したのだろうか。
(過去分は以下をご覧ください)
◎「北朝鮮25時」(https://jbpress.ismedia.jp/search?fulltext=%E9%83%AD+%E6%96%87%E5%AE%8C%EF%BC%9A)
(郭 文完:大韓フィルム映画製作社代表)
シン氏は母親の背に負われて北朝鮮に帰国し、黄海南道載寧郡(ファンヘナムド・チェリョングン)に定住した。両親は貧しい帰国者で、北朝鮮政府に寄付する余裕はなかった。
金を持っていた帰国者は北朝鮮政府に寄付し、平壌や地方の大都市に定住したが、何もなく帰国した人たちは、無作為に指定された場所で帰国の第一歩を踏み出さなければならなかった。シン氏の家族も北朝鮮政府が指定した黄海南道載寧郡で生活を始めた。
シン氏が事業家としてデビューしたきっかけは妻だった。シン氏の妻も帰国者だったが、日本にいる親戚が裕福だった。畳を作る中小企業を経営していた叔父もおり、その叔父とは北朝鮮で開催された二人の結婚式で知り合った。
妻の叔父は姪婿の事業手腕に関心を持った。他の親戚たちが北朝鮮を訪問した叔父から一銭でも多く取ろうとする中、姪婿のシン氏は叔父にある事業を提案したからだ。
それは、稲わらを日本に輸出する事業である。
北朝鮮の稲わらに目をつけた慧眼
シン氏が住んでいた黄海南道載寧郡は稲作が盛んで稲わらが多い。そこで、畳の原料である稲わらを叔父が求める規格で束ね、日本に送る事業を提案したのだ。興味を示した妻の叔父は、試験的に畳用の稲わらを束ねる自動化機械を3台、北朝鮮に持ち込んだ。
シン氏が黄海南道載寧郡の稲わらを束ねて作った半製品を日本に送ると、妻の叔父は稲わらの質の面でも、価格の面でも満足した。黄海南道地域でも騒ぎとなった。俵を作るだけだった稲わらが外貨を稼ぐ手段になったのだから。
結果、稲わらの輸出は黄海南道地域の重点事業になり、シン氏は妻の叔父に連絡して包装用の自動化機械をさらに20台、持ち込んだ。シン氏は、黄海南道地域の質の良い稲わらを独占することになった。
1980年代半ばから2000年代半ばまでの約20年間、シン氏は束ねた稲わらを日本に送る事業で大金を稼いだ。ところが、日本で畳文化が衰退するとシン氏の事業も縮小を余儀なくされた。ただ、シン氏が賢明だったのは、稲わら事業に固執しなかったことだ。
次に目を向けたのは、自動車整備だった。朝鮮労働党(中央党)の車修理工場で必要な修理部品を調達する代わりに、平壌や地方の大都市に修理工場を設置する権利を北朝鮮政府から獲得した。
自動車修理工場も独占したシン氏
中央党の自動車修理工場は、北朝鮮権力の最高機関である労働党幹部の車両修理を担当していた。当初は国家資金で運営されていたが、2000年代半ばから予算不足のため、自ら修理部品を調達しなければならない状況に陥っていた。シン氏はこの機会を捉えたのだ。
そして、シン氏は整備技師が多い中央党の車修理工場と組み、中古部品を安値で持ち込み、故障車を修理する修理工場を全国で展開した。
約20年間畳事業で協業した妻の叔父は亡くなっていたため、シン氏は日本にいる妻の従兄弟と一緒に事業を手がけた。妻の従兄弟が日本の廃車から回収される部品を北朝鮮に持ち込む一方、中国や欧州などの支社からも中古部品を回収した。
適当に持ち込んだわけではない。中央党の車両修理所や平壌をはじめとする北朝鮮全土の車両整備所から要望を受けた部品を、妻の従兄弟が購入して持ち込むのだ。
シン氏は10年にわたって莫大な金を稼いだ。 北朝鮮のほぼすべての車の修理や整備をシン氏の修理工場が独占していたのだから当然だ。妻の従兄弟もかなり儲けたという。シン氏は現在、妻の従兄弟名義の会社の北朝鮮支社長として事業を展開している。
中央党の車修理工場と事業を展開するシン氏の北朝鮮内で地位や力は相当なものだ。日本からの帰国者で、シン氏ほど自分の力で成功した人はいないと北朝鮮で貿易に従事している人々は評価する。
そして、シン氏が始めた新しい事業とは
度重なる北朝鮮の核実験と大陸間弾道ミサイルの発射によって、国連による制裁が始まり、シン氏の中古部品の輸入事業はストップしている。自動車の中古部品が全面輸入禁止になったからだ。
ただ、目端の利くシン氏は対北朝鮮制裁の解除を待ちながら、金融調達業務を手がけているという。
シン氏が北朝鮮に持っている会社は、日本法人の北朝鮮支社のため、北朝鮮への送金が比較的容易だ。そこで、シン氏は北朝鮮に帰国した人々への日本からの送金の代行業務も始めた。
日本から北朝鮮への送金は、対北朝鮮制裁のため1人当たり数万円に抑えられている。北朝鮮当局の検閲や面倒な手続きもある。しかし、シン氏の会社を通せば、日本の本社から北朝鮮の支社に送る名目で送金できる。シン氏が受け取る手数料は10%だ。
もちろん、このビジネスは違法だが、北朝鮮にいる親戚の生計を維持するために、日本の親戚が金を送る窓口はシン氏の会社しかない。
閉鎖国家、北朝鮮で唯一成功したジャッキ事業家。北朝鮮と日本の文化を誰よりも知り、隙間に入り込んだシン氏の成功は、資本主義の萌芽が見られる北朝鮮の変化の一端を見せている。
[もっと知りたい!続けてお読みください →] 金正恩の秘密地下通路を管理する責任者が公開処刑された理由
[関連記事]
脱北者の私が北朝鮮による核・ミサイル実験の再開を切望する理由

コメント