
(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
まずは、日本維新の会に関する「ヒトラー」発言だ。1月21日に自身のツイッターにこう書き込んでいる。
〈橋下氏をはじめ弁舌は極めて歯切れが良く、直接話を聞くと非常に魅力的。しかし、「維新」という政党が新自由主義的政党なのか、それとも福祉国家的政党なのか、基本的政治スタンスは曖昧。主張は別として弁舌の巧みさでは第一次大戦後の混乱するドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす〉
これに維新は猛反発。菅氏は立憲民主党の最高顧問であることから、1月26日に維新の藤田文武幹事長が、同党の泉健太代表あてに撤回と謝罪を求める抗議文を提出。しかし、泉代表が「菅氏の個人的発言」とつっぱねると、こんどは維新の馬場伸幸共同代表が、2月1日に衆院議員会館で隣の菅氏の事務所にメディアを引き連れて乗り込んで、抗議文を手渡している。その模様はネット上でも公開されているが、ここまでくるともはや抗議を利用した互いの宣伝活動だ。
「新たな暴走老人」の声も
菅氏の言動は、政府、自民党も反発している。
欧州連合(EU)欧州委員会が、二酸化炭素を出さない原発を地球温暖化対策に資する“グリーン”な投資先として認定する方針を示したことに、首相経験者として小泉純一郎、細川護煕、鳩山由紀夫、村山富市の4氏と連名で、方針撤回を求める原発反対の書簡を1月29日までに送っていた。
この中に、東京電力福島第1原発事故で「多くの子どもたちが甲状腺がんに苦しんでいる」との記載があったことに、岸田文雄首相は2月2日の衆院予算委員会で「誤った情報を広め、いわれのない差別や偏見を助長することが懸念される。適切でない」と発言。名を連ねた元首相5人に宛て、山口壯環境大臣が注意を求める書簡を送ったことを明らかにした。自民党の高市早苗政調会長も同日の会見で、強く抗議している。
こうした菅氏の言動に立憲民主党内から「新たな暴走老人」と呼ぶ声があることを伝えるメディアまで出てきた。
48年前に有吉佐和子が見抜いた人間性
しかし、菅氏の「暴走」については、いまにはじまったことではない。いまから48年前に、当時の菅直人青年の「暴走」ぶりを指摘し、命を奪われる危険性すら懸念していた著名な作家がいる。
“才女”とも称された有吉佐和子だ。彼女が著して話題となった『複合汚染』の中に、若かりし日の菅直人の描写がある。
『複合汚染』は、1974年10月14日から8カ月半にわたって、「朝日新聞」朝刊の小説欄に連載され、単行本化されるとベストセラーとなった。
小説というよりはノンフィクションで、もともとは米国の生物学者レイチェル・カーソンが1960年代に、農薬汚染など現代に通じる環境問題をはじめて指摘して世界中に衝撃を与えた『沈黙の春』が基調となっている。
当時の日本でも、農薬や化学肥料による土壌汚染にはじまり、食品添加物を交えた食品汚染、化学洗剤による河川、海洋汚染の実態、さらには自動車排気ガスによる大気汚染などが、相乗的に絡み合い、環境を破壊し、健康被害をもたらす実情を、総合的に描いたものだった。
この作品の冒頭は、1974年夏の参院選に立候補する市川房枝の選挙活動の裏話からはじまる。著者は市川の選挙応援演説のため、数寄屋橋を訪れたところで、石原慎太郎とすれ違う。――そう、この2月1日に亡くなった作家で元東京都知事の石原慎太郎だ。そこで著者は石原に当時、噂されていた都知事選の出馬の意向について話を向けるのだが、煙に巻かれて終わる。実際に、石原は翌年の都知事選に立候補するのだが、現職の美濃部亮吉に敗れている。都知事になるのはそれから25年後のことだ。
「殺す気か」
そして、石原慎太郎と別れ、数寄屋橋で市川房枝と合流したところで、青年グループのリーダーが演説をしている。それが菅直人だった。以下に本文を引用する。
【市川房枝を無理矢理ひっぱり出した青年グループというのは当時マスコミに喧伝されていた。数寄屋橋の袂に仮設した演壇の上で、彼らのリーダーが演説している。
「僕らがですね、再三再四、市川さんの出馬を要望しても、市川さんは紀平悌子という後つぎもできたことであるし、自分も歳だからといって頑として辞退し続けたんです。ところが今年の正月に僕たち市民運動の会で餅つきをしたんです。市川さんも杵を振り上げてペッタンコペッタンコと餅つきをしたんです。それで僕たちは先生があんまり上手に餅をついたんで驚いて、こんなに元気なら引退することはないじゃないかって考えたんです。そして僕たちは市川房枝を勝手に推薦する会というのを作りました。ハンコは僕たちで勝手に作って届けようって相談していました」】
これが1974年の菅直人青年だった。一言一句が克明に記録されていて、いまの菅氏にも通じる口調の特徴がよく捉えられている。
ところが、著者はこの演説を聞いている最中に、支持者のひとりから、こう打ち明けられる。
【「いま喋ってる男の子は菅さんっていうんだけど、市川房枝がどうしても駄目だったら有吉佐和子を勝手に立候補させようって言ってたのよ」】
それを聞いた有吉は、作中でこう語る。
【私は背筋がぞうっとした。それが本当なら危ないところだった。それまで私は新聞で青年グループの存在を知り、親愛の情を寄せていたが、これは気をつけなくてはいけない。彼らに好かれたら私の作家生命が危なくなる。(中略)私は彼らから嫌われる存在にならなければいけない。そう思い決めた。】
また、当時81歳だった市川房枝を担ぎ、九州、沖縄、名古屋、大阪、東京、そして長野・・・と、日替わりで日本各地を遊説して回らせる青年グループのスケジューリングを知って、
【殺す気かという言葉が喉まで出て来たのを私は呑み下した。青年グループ。彼らは若さにまかせて、市川房枝の年齢を忘れ、候補者の健康保持を忘れて、暴走している。】
そう酷評している。はっきり「暴走」と書いている。だが、「暴走」していたのは、若さだけが理由だったのだろうか。
【この若者にはどうしても嫌われたいのだ、私は。】
再三に亘って、有吉佐和子からそう毛嫌いされていた青年は、それから30余年が経ち、日本の首相になった。
暴走による候補者担ぎ出しを「政治活動の原点」と胸張る元首相
その首相在任中に東日本大震災の発生と、福島第1原子力発電所の事故を招く「複合被災」の対応に迫られた。その発生直後の混乱の最中に、官邸を離れて制御不能になった原発に向かったことは、現場の首相対応に労力を割かれて事故処理への支障となったこととあわせて、のちに批判の的となっている。
菅氏が首相の座について最初に行った2010年6月11日の所信表明演説の冒頭で、自らの政治家としての出所をこう語っている。
「私の政治活動は、今を遡ること三十年余り、参議院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年が、ジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました」
その時にはすでに、自己満足が優先して他者の事情や健康、さらには自身の置かれた立場や責任に思いが至らない稚拙な青年の姿に、「殺す気か」と心の中で叫ぶ慧眼の大人が、すぐ脇に立っていた。そのことを、当人が知らないとしたら、これほど不幸なことはない。
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