文=三村 大介

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「Ecce Mono(このサルを見よ)」

 みなさんは「史上最悪の修復」と呼ばれ、世界中で話題になった壁画のことを覚えているだろうか。「毛むくじゃらのサルのよう」と酷評されたキリスト像のことを。

 この「事件」は、2012年、スペイン北東部のボルハ市という田舎町で起きた。

 この町の教会の柱には19世紀の画家、エリアス・ガルシアマルティネスによる『Ecce Homo(この人を見よ)』というフレスコ画が描かれていたのだが、その壁画は湿気で劣化がかなり進み、痛ましい姿になっていた。すぐにでも誰かが修復しなければならないほどの状態、そんな危機的状況を嘆き「では私が!」と、その作業に着手する人が現れた。それがなんと、地元のアマチュア風景画家、しかも絵画修復については全くの素人である80歳の女性だったのだ。

 果たして、彼女がこの修復を許可なく勝手に始めたのか、それとも正式にオファーを受けたのかは、今となっては無意味な議論となってしまうが、いずれにせよ、彼女がその純粋な道義心や信仰心から修復に挑んだというのは確かなようだ。

 しかしである。残念ながらというか、やはりというか、修復の知識や技術も全くない彼女が仕上げた壁画のキリスト像は、原型を留めない無残なものになってしまったのだ。結果、「似合っていない外衣を着た毛むくじゃらの猿のスケッチに変わってしまった」と嘆き、批判されるわ、『Ecce Mono(このサルを見よ)』と嘲笑、揶揄されるわの大騒ぎに。他にも多くの苦情が教会に殺到してしまい、ついにはボルハ市当局が原状回復へと動き出すほどの大混乱に陥ってしまう。

 ところが、事態は思わぬ方向に進展する。

 この「惨状」が国内外で報道され大きな話題になると、ネット上では

「彼女が元の壁画に与えたダメージは大きい。でも彼女の無償の愛に感動した」

「誰もキリストが人間でなければならないとは言っていない

「この“善意の修復”は既にこの壁画の歴史の一部だ」

 といった肯定的な意見にあふれ、「壁画を元に戻さないで!」と署名活動が始まり、あっという間に2万人近くの嘆願書が集まったのだ。

 また、普段は静かな教会には「芸術的災難」に見舞われた作品を一目見ようと、大勢の見物客が押し寄せた。教会を運営する慈善財団によると、その年1年で57000人がこの教会を訪れたそうだ。通常は6,000人程度だったというから約10倍である。

 その後、同財団は、訪問者1人につき1ユーロの入場料の徴収を始め、その入場料収入はフレスコ画の保存や慈善活動の費用に充てている。さらには、ワインボトルのラベルからマグカップ、Tシャツまで、ありとあらゆる商品を対象にした『Ecce Mono(このサルを見よ)』の著作権料もかなりのものとなり、教会や地元に思わぬ経済効果をもたらしているようだ。

 誰も予想できなかった、なんともハートウォーミングな展開。「おばあさんピュアなハートが招いた奇跡」とサブタイトルが付きそうな物語である。

 とはいえ、やはりこれはケガの功名、ヒョウタンから駒といったかなり珍しいケース。現実はというと、この件以降も、素人による「事件」は世界各国、あとを絶たないようで、アニメの主人公のようになってしまった聖ジョージ像や、ただのおばさんのようになってしまった聖母マリア像など、修復に失敗した芸術作品の事例が多数発生している。

 そして、それらはいずれも、プロによる再修復がなされたり、全く手の施しようがないくらいの悲惨な状況になってしまったため訴訟になったりと、本当の「悲劇」になっているようだ。故意にボルハ市の二番煎じを狙ったのではないだろうし、どれも善意のもとになされたことではあろうが、やはり『この人を見よ』のようなドラマはそう簡単に起こらないということである。

 これらの例を見るまでもなく、保存そして修復をどのように考え、どのように施すべきかということは、あらゆる分野・領域で非常に重要な課題であり、芸術作品と同じ、いやもしかするとそれ以上に、現在の建築や街、とりわけ新陳代謝の激しい街・東京においては否応なく直面しうるシビアで重大な問題である。

 さて、その実情はいかに?それを知るには、「保存建築の展示場」と言っても過言ではない丸の内界隈は打って付けのエリアであり、中でも今回採り上げる《東京駅丸の内駅舎》はそのシンボル的な存在である。

「復原」された赤レンガ

 初代《東京駅丸の内駅舎》は、明治以降の建築の礎を築き、「明治建築界の法王」という異名を持つ辰野金吾による設計である。当初、平屋建て、一部2階建てという構成だったのだが、日本が日露戦争に勝利することで国威発揚ムードが高まり、東京駅の予算も拡大。結果、総3階建てに変更され、鉄骨レンガ造の《東京駅丸の内駅舎》が1914年(大正3)に完成する。

 2代目は戦後、短期的な「つなぎ」として復旧された。空襲によって炎上した3階は修復せず、2階建ての建物に変更。ドーム型の屋根も木造の天然スレート葺きの寄棟の八角屋根とし、とりあえずの復興を急ぎ再建される。しかし、実際は約60年間もそのまま使われ続けることになり、むしろこの姿の方が馴染み深いという人も多いかもしれない。

 この2代目駅舎については、取り壊し・建替えの計画が1970年代からたびたび持ち上がるのだが、1986年(昭和61)、丸の内口の再開発構想が発表され、既存の駅舎をどうするのかということが本格的な最重要課題となった。

 これに対し「このままでは赤レンガ駅舎が取り壊され、高層ビルに建て替えられかねない」として、計画変更の賛同者を募る大規模な署名運動が起こったり、日本建築学会により丸の内駅舎保存の要望書がJR東日本に提出されたりするなど、保存を求める気運が大きく高まっていくことになる。

 結果、1999年(平成11)、丸の内駅舎を創建時の姿に戻す計画が、当時の都知事とJR東日本の社長により発表され、ようやく実現に向けて動き出すことになり、そして2012年(平成24)、今私たちが目にしている3代目《東京駅丸の内駅舎》がついに完成することとなる。

  今回の3代目《東京駅丸の内駅舎》の保存・復原工事では、さまざまな部位で既存部分と新規の部分の融合そして共存について、多種多様な創意工夫が施されている。今回はそれらを具体的に見ていこうと思うが、まずはその前に1つ、注目しておきたいポイントがある。

 それはこの3代目の工事が「復原工事」と謳われていることである。「復元」ではなく「復原」。一般的な辞書では、それらは「元の位置や形態に戻す」という意味で同一の語として用いられており、雑誌やテレビなどのマスメディアでは「復元」を使うようだ。しかし、それらは実は本質的に大きな違いがある。

「復元」は失われて消えてしまったものを、かつての姿どおりに”新たに作る”ことを意味する。遺跡に復活した竪穴式住居や、解体されて無くなってしまった建築がレプリカとして蘇るのがこちら。

 一方「復原」は、元々の姿が改造されてしまったり、変化してしまったりしたものを”元通りの姿に戻す”ことを指し、修理、修復というニュアンスを含んでいる。なので3代目はこちら、「復原」が相応しいというわけ。些細なことかもしれないが、私はこのような言葉のチョイスからも、この工事が単なる再建工事ではなく、《東京駅丸の内駅舎》という歴史や文化の継承を担っている重大な工事であったということ、そしてそれに関わった人々がいかに実直に、そして真摯にそれに向き合ったのかという心意気や誇りを感じる。

 さてそれでは、3代目はどのように「復原」されているのか見てみよう。

 まずは外観。

 なんと言ってもこの駅舎を特徴付けている外壁の赤いレンガ。実はこのレンガ、既存のタイルの色味が中央部、北側、南側とでそれぞれ微妙に異なっていたのだ。そのため、修復に用いたものは、既存のタイルに馴染むよう、焼く条件を変えるなどして、あえて色ムラを作り出している。

 また、外壁の白い柱の一番上の部分にあるイオニア式の装飾。これは、仮復旧時に2階に下げられて付けられていたのだが、元の高さである3階に戻された。

 さらに、窓の白いサッシは、初代の木製のものが空襲で焼失したためスチール製になっていたが、今回はアルミ製に換えられた。加えて、割付も変更されていたのでオリジナルの割り付けに戻された。

 他にも、初代の最大の特徴だったドーム状の銅板葺きの屋根は、寺社建築の屋根工事に長く携わってきた熟練技術者を招き、板金加工の実物モデルをまず作成して、職人たちが現場でそれを複製するという方法を取ったそうだ。いかに復原が難しく大変だったかが伺える話である。

2代目への敬意

 さて、このように書くと、3代目は2代目の再建の際に改造された部分を単に初代の姿に戻しただけのように思えるが、決してそうではない。これはドーム内に入り、天井を見上げ、周囲を見渡すと一層よくわかるのだが、実は「復原」されたのは焼失した3階の床より上の部分だけで、それより下は全くのオリジナルのデザインなのである。

 ドーム内の天井には秀吉のカブトキーストーン(アーチの最上部に嵌め込み、アーチを構造的に固める石)、干支のレリーフ、テラスのブラケットなど、辰野金吾がデザインした創建当時の意匠がとても美しく再現されている。これらのデザインに関するエピソードだけでも、もう1編書けそうだが、それはまた別の機会に譲るとして、今回注目するのは3階より下の意匠。

 まずは柱。現在、銀色の仕上げになっているが、実際のところ、元の柱が何色だったか正確には分からなかったそうだ。しかも構造上、当初より太くせざるを得なかったこともあり、この柱のデザインは全くのオリジナル。しかも、明らかに後からデザインしたものと分かるように、あえてちょっと未来的なデザインにしたそうだ。柱の上部には改修した年「AD MMXII」(西暦2012年)が刻印されているのも気が利いている。

 そして床。4種類の大理石によって美しい幾何学模様が描かれているが、これも単なるパターンではない。何を隠そうこれ、2代目のジェラルミン製のドーム天井の姿を床の上に転写したものなのである。

 つまり、2代目の天井を見上げた時の風景が、3代目の床として生きているということだ。初代の復原をしつつも、ちゃんと2代目のデザインへの敬意が感じられる、なんとも粋な計らいではないか。

 私はこの3代目《東京駅丸の内駅舎》の保存・復原における最も大切なポイントがこれらに現れていると思っている。それは、2代目の再建の際に改造された部分を、ただ単に“初代の姿に戻す”という「復原」に留まらず、新しいデザイン(しかも2代目への敬意も払いつつ)が施されているということ。これは“元通りの姿以上”に「進化」したと言っていいかもしれない。

 もし初代の歴史的価値のみを継承していくということであれば、オリジナルの姿を完全再現するように改修しただろうし、いざとなれば、明治村の帝国ホテルのように、移築、保全するという手もなくはなかっただろう(実際には不可能だったであろうが)。

 しかし、この《東京駅丸の内駅舎》では、その「駅舎」としての機能も継承しながら、丸の内そして東京の顔であり続けることを選択した。そして、そのためには時代のニーズに応えたアップデートも必要だと考えたのだ。実際、今回の「復原」では、国内最大規模の免震化工事が施されたことや耐火性の強化、バリアフリー化の促進など、未来を見据えた大切な改善がいろいろと見受けられる。

 歴史的価値の継承と新しい機能やデザインへの進化、このバランスをどう取るかということが非常に重要であることは間違いないが、それには確固たる信念や美学、哲学が不可欠であり、さらにはオリジナルの建築、そしてそれが存在する街に対する敬意と誠実さが何よりも大切なのではないかと私は思う。そういう意味では3代目《東京駅丸の内駅舎》は今後の建築や街の保存・復原に対し、偉大なメルクマーク(指標)になっているのではないだろうか。

 先にも書いたが、この《東京駅丸の内駅舎》が建つ丸の内界隈では、《東京中央郵便局》《日本工業倶楽部会館》《明治生命館》《第一生命館》などなど、明治・大正期に建てられた建築における、さまざまなタイプの「保存」「復原」そして「復元」方法を見ることができる。また、《東京銀行集会所》や《東京會舘》など、今は亡き名建築たちの跡地が、現在どのように変貌しているかも見どころとなっている。

 果たして、それらがどのような意図(もしくは思惑)によって現在の姿に至っているのか、これらについても、1つ1つ解説したいところだが、これもまた別の機会に・・・。

 いずれにせよ、今や多くの観光客を呼ぶ原動力にもなっているこれらの建築の美しさや価値に、より一層人々の注目が集まることで、東京そして日本の激動の歴史の証人とも言うべき素晴らしい建築たちが、いとも簡単に消えていく現代の動きに少しでも歯止めがかかることを願うばかりである。

 さて、スペイン・ボルハ市の修復事件。先にハートウォーミングな物語と書いたものの、実際はというと、実は今なお、オリジナルのフレスコ画を描いた画家の子孫は、キリストの画が台無しにされたまま復原されないことに大きな不満を持っているようだ。また、修復を手がけた女性自身も、大切な絵を台無しにしてしまって本当に申し訳ないことしてしまったと今でも思っているとのこと。確かに、いくら善意だったとはいえ、文化財を傷つけたことには変わりない。

 一体どのような状況になればハッピーエンドを迎えられるのか、もちろん今は断言はできないが、今後何十年か先、この壁画が今回同様、修復さざるを得ない状況に陥った時、果たして初代の『Ecce Homo(この人を見よ)』を蘇らせるのか、それとも今の2代目『Ecce Mono(このサルを見よ)』に戻されるのか、はたまた、全く別の新たな3代目キリスト像が描かれるのか、その時初めて、今の壁画の真価が問われ、本当の結末を知ることができるのかもしれない。

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 東京駅丸の内駅舎 前田明彦, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons