(舛添 要一:国際政治学者)

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 2月28日ウクライナ国境に近いベラルーシロシアウクライナの会談が行われたが、停戦合意には至らなかった。ロシア軍の即時撤兵を要求するウクライナ側とウクライナの非武装化・中立化を求めるロシア側の主張が大きくかけ離れており、話し合いがまとまるのは難しい状況である。ただ、会談を継続することでは双方が同意した。

 ゼレンスキー大統領は、「空爆が続いているかぎり会談を再開できない」と述べていたが、2回目の会談は3月3日に行われた。その結果、民間人避難のためのルート、「人道回廊」を設定することで同意した。今後も協議は続けられるという。

 この間も、ロシア軍の軍事攻勢は続いており、首都キエフに向かって進軍している。これに対して、ウクライナ軍が激しい抵抗を続けており、予定した通りのスピードでは前進できていないようだ。ただ、現地からの情報が錯綜しており、どれが正しい話かは判断がつかない状況である。

いまこそ冷静な分析を

 国際社会はロシアに対する非難を強め、様々な経済制裁手段を講じて、その暴挙を止めようとしている。しかし、事態が明るい方向に転換するかどうかは不明である。

 今は早期の停戦実現に努力すべきだが、プーチン大統領ウクライナ侵攻を決断したのはなぜか、それまでのウクライナやアメリカをはじめとする世界の対応に問題はなかったのか、冷静に振り返って分析することが必要である。そのような知的努力を放棄し、平和を唱えるだけでは戦争は終わらない。これからも同じ愚を繰り返すだけである。

 ロシアウクライナの停戦交渉は簡単にはまとまらない。要は、双方がどれだけ妥協できるかにかかっている。プーチンウクライナを降伏させたい。核兵器の使用という脅しもかけてきており、戦闘が長引いた場合には、核兵器使用の可能性もある。強硬で非妥協のロシアに対し、軍事力で追い詰められたときに、ゼレンスキーは何か妥協ができるのであろうか。

 先週の本コラムに、<周辺国への軍事介入で「常勝」のプーチン、西側は勝てないのか 「軍事的反攻」は第三次大戦を招く、「外交と制裁」でどう抑え込むか>というタイトルで、プーチンがこれまでチェチェングルジアジョージア)、クリミアシリアと軍事介入して成功してきた「戦歴」を紹介した。

(参考)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69017

 この成功体験の延長線上に今回のウクライナ侵攻があるのであるが、プーチンの発想の根幹にあるものを説明したい。

レーニン、スターリンの系譜に連なる独裁者

 プーチンの政治手法は、レーニンスターリンの独裁を継承したものである。ロマノフ王朝の「封建的な」支配に対して、労働者や兵士が立ち上がったロシア革命(1917年)は、穏健な革命(2月革命)を経て、最終的にはボルシェヴィキによる過激な革命(10月革命)へと発展した。この間、革命軍(赤軍)と旧体制派(白軍)の戦いなどの内戦がつづき、また革命政権内部の権力争いが続いた。

 その間、反対派を排除するための暗殺は日常茶飯事となった。スターリン時代には、「大テロル」と呼ばれる粛清が各地で続き、何百万人もの人が殺害されている。かつての盟友たちもほぼ全員が処刑されている。

 暗殺は政治の手法として当たり前になっていった。そして、内戦においては、敵を殲滅するまで戦ったのである。スターリンは、「これからも政敵を殺し続けるのか」と問われて、「そうだ何人でも」と答えている。流石に今のロシアでは、それほど酷いことはなかろうが、基本的な発想は、内外の敵の殲滅である。

 日本人特有の「お涙ちょうだい」式の人情論が通るような世界ではない。プーチンエリツィンに抜擢されたのも、元KGB職員として情報操作に長け、政敵を排除するのに辣腕を振るったからである。

 野党指導者ナワリヌイをはじめ、政権に刃向かう者に対しては毒殺をはじめ、あらゆる手段で抹殺しようとするのは、ロマノフ朝以来のロシアの伝統でもある。暗殺、虐殺が頂点に達したのがスターリン時代で、秘密警察を管轄するベリアは、「誰であれ、どのような罪でも見つけ出せるし、作ることができる」と豪語し、次々とスターリンの政敵を逮捕し、処刑していった。

 自分に反対する者は、仮借なく弾圧する手法をプーチンもまた採用しているのである。

 プーチンは民主主義とは異なる発想の政治家である。力を信奉し、核兵器使用という脅しもかけてくる(実際に使う可能性もある)。それだけに慎重な対応が必要で、挑発的な行動はリスクを伴う。今は、英仏が独に軍事力で対決した1939年の状況と大きく異なることを忘れてはならない。

プーチンのルサンチマン――冷戦の終焉、ドイツ統一、NATOの東方拡大

 15の共和国からなる巨大な帝国、ソ連邦は、米ソ冷戦に敗れ、1991年には解体してしまった。それから30年、屈辱の歴史を歩んできた。強い帝国の下でKGB職員として勤務したプーチンの「ルサンチマン」の原点がここにある。

 宗主国の監視役として東ドイツに駐在したプーチンは、ベルリンの壁の崩壊を目の当たりにした。壁の東側(敗者側)からである。私も、当時、ベルリンの壁の前に立ち、西側(勝者側)から壁をハンマーで壊し、いまでも大切に壁の欠片を保管してある。プーチンは、祖国に戻り、糊口を凌ぐために、白タクの運転手の手伝いすらしたのである。

 そのベルリンを首都とするドイツの歴史を振り返ると、第一次世界大戦では敗者となり、領土を削減され、再軍備を禁止され、苛酷な賠償を強いられた。それに対するドイツ国民の不満がナチスの台頭を招いたのである。このときの教訓を活かして、第二次大戦の勝者のアメリカは、敗者であるドイツイタリア、日本に対して寛大な占領政策を展開し、マーシャル・プランなど援助に尽力した。その結果、日独伊はアメリカの忠実な同盟国となったのである。

 ところが、東西冷戦終了後のアメリカは、第一次世界大戦後と同じ対応に先祖返りしてしまった。それがNATOの東方拡大であり、クリントン大統領1994年後半の政策変更である。

 ベルリンの壁が崩壊した後、西ドイツのコール首相は東西ドイツの統一を実現するために、ソ連の理解を得るべく努力したが、その際にゴルバチョフ書記長の懸念を払拭させるためにNATO不拡大を約束したとされる。私は、友人でコール首相の側近であった補佐官のホルスト・テルチクから、モスクワ通いをして苦労した話をよく聞いていた。また、当時の外交に携わった英独露の関係者も、その「約束」があったように言及している。「約束はなかった」という関係者もいる。

 いずれが正しいか、それを証明する文書は残っていないが、そのような暗黙の了解はあったようであり、その和解ムードに乗って、1990年10月3日ドイツ統一が実現したのである。1年後の1991年12月にはソ連邦が崩壊したが、NATO不拡大の「約束」は守られてきた。

 その後、NATOは、1994年1月に拡大の代替案として「平和のためのパートナーシップ」(PfP)を創設した。ここでは東欧諸国は加盟しないまでもパートナーとして扱うとし、ロシアもこれを了解した。ベルリンの壁崩壊以降のNATOと東欧諸国、ロシアとの間にはこのような経緯があった。

クリントンの方針転換に激怒したエリツィン

 ところが、1994年後半になって、アメリカのクリントン政権は、大統領選で東欧系移民の票を得るために、「NATOにはどの国も加盟できる」と表明して政策変更をしたのである。選挙ですべてが決まる民主主義、そしてポピュリズムアキレス腱である。

 このアメリカの豹変にエリツィン大統領は激怒し、アメリカに裏切られたと悔やんだのである。

 1999年3月にチェコハンガリーポーランドがNATOに加盟し、エリツィンも、その後継者とされたプーチンも猛反発したのである。2000年にエリツィンの後を継いで大統領となったプーチンは、その怒りをルサンチマンと共に爆発させたのである。

 しかし、NATOの東方拡大はプーチンを嘲笑うかのように進んでいく。

 2004年3月にエストニアラトビアリトアニアスロバキアスロベニアブルガリアルーマニアが、2009年4月にアルバニアクロアチアが、2017年6月にモンテネグロが、2020年3月に北マケドニアがNATOに加盟している。

ウクライナ東部への触手、ミンスク合意の破綻

 ロシア共和国の一員であるチェチェンで独立を目指す動きが出たとき、ロシア軍は武力で鎮圧し、2000年6月に傀儡政権を樹立した。チェチェン強硬派は世界各地でテロを繰り返しているが、これは「内政問題」なので、世界が関与できなかった。

 2008年にグルジアで起こった南オセチア紛争では、ロシア軍が介入して、親露派が支配する南オセチアとアブハジアを独立させ国家承認した。このときも、欧米諸国はほとんど動かなかった。

 ウクライナでは、2014年2月、親露派のヤヌコーヴィチ大統領が、親欧米派や右翼勢力の反政府デモの圧力で逃亡し、政権が瓦解した。これを理由に、3月になると、プーチンロシア系住民を保護するという名目でクリミア半島への軍事介入を始めた。そして、住民投票の結果を基にして、3月18日クリミアを併合したのである。

 3月27日、国連総会は、この住民投票・併合を認めない決議を、賛成100、反対11、棄権58(欠席24)で採択した。また、西側諸国ロシアに経済制裁を課したが、比較的緩やかなものであり、ロシアを追い詰めるところまで行かなかった。

 そして、2014年からの8年間に、ロシアは次なる制裁を念頭に置いて、制裁の苦痛を緩和する手を打ってきた。外貨準備を積み増したり、中国を利用しての金融取引システムを構築したりしてきている。SWIFTからの除外も当然予想していたのである。

 一方アメリカは、この間、ウクライナに軍事支援を行い、兵器のレベルアップを急がせた。今回、ロシア軍に対してウクライナ軍が抵抗できているのは、このおかげである。しかし、別の観点から考えると、アメリカは自らの国益、つまりロシアを封じ込めるためにウクライナを利用しているとも言えるのである。

 プーチンの野望の次の行き着く先は、クリミアの次はウクライナ東部ドンバス州のロシア系住民居住地区であった。この地域では親露派の武装勢力とウクライナ政府軍との戦闘が続いていたが、2014年9月5日にOSCE(欧州安全保障協力機構)の支援によって、ロシアウクライナ、ドンバス州にあるルガンスク人民共和国ドネツク人民共和国は、ベラルーシのミンスクで停戦を合意した(ミンスク議定書)。

 しかし、戦闘が続いたため、2015年2月11日に、フランスドイツが仲介してウクライナロシアの間で、ミンスク合意(ミンスク2)が成立した。内容は、無条件の停戦、捕虜の解放、最前線からの重火器の撤退、東部2州に自治権を与えるための憲法改正などである。

 アメリカは一方的にウクライナに武器援助をしようとしたが、それでは問題は解決しないとして、陸続きで繋がる欧州大陸の大国、ドイツフランスが調停に乗り出したのである。若い頃、ヨーロッパで勉強し、生活感覚も土地勘もある私は、独仏と同じ考えである。

 ミンスク2の後も、戦闘は止むことはなく、親露派勢力とウクライナ政府の双方がお互いを合意違反だとして攻撃し、事態の抜本的改善は見られないまま2022年を迎えたのである。そして、2月21日ロシアは、ルガンスク人民共和国ドネツク人民共和国の独立を承認し、翌22日には、プーチン大統領は、「ミンスク合意はもはや存在しない」と述べ、24日にはウクライナに攻め込んだのである。

プーチンの次の手は

 ロシアの侵略行為に対して、2日には国連総会でロシア非難決議が141カ国の賛成という圧倒的過半数で可決されるなど、国際社会の批判は強まっている。また強力な経済制裁もロシア経済や国民生活を直撃している。しかし、そのようなことは、プーチンの計画には織り込み済みである。

 経済制裁は打撃だが、短期的には即効性はなく、先述したようにプーチンは様々な抜け道も考えている。また、ロシア国民も、制裁による不便を耐えるのには慣れている。

 ただ、ロシア国内でも各地で反戦運動が起こっている。これはプーチンも計算外のことだろうが、厳しい取り締まり、弾圧によって対応しようとしている。

 さらにロシアの外に目を向ければ、旧ソ連の構成共和国だったジョージアモルドバもEU加盟の希望を表明した。ロシアに配慮してきたフィンランドや中立国のスウェーデンもNATO加盟をちらつかせている。プーチンの強硬策は意図した結果とは逆の効果を生みつつある。

 今後、プーチンはどのような手を打ってくるのであろうか。

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ウラジーミル・プーチン大統領(写真:代表撮影/AP/アフロ)