(岩田太郎:在米ジャーナリスト)

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 米国のデジタルドルは、誕生する前に死んでいるのかもしれない。

 バイデン大統領3月9日に、米国における中央銀行デジタル通貨CBDC)発行のメリットとデメリットの研究を加速させるよう命ずる大統領令を発出した。だがこの命令は、米国によるデジタルドル発行の是非には触れておらず、その裏にある政治的な対立の根深さをかえって際立たせるものとなった。

 これに先立つ1月20日、米連邦準備制度理事会(FRB)が2021年7月に発表される予定であった、米国におけるCBDC発行の利点と欠点をまとめた報告書を公表している。

 発表が半年も遅れたのは、FRB内部の意見の対立が解消できなかったこと、さらに金融業界や米議会における民主党共和党のデジタルドルや経済にまつわる考え方の根本的な違いに由来する議論の紛糾があったからだ。しかも報告は賛否の両論併記で、結論が出せないためにパブリックコメントの公募を呼びかけるという、玉虫色の内容になっている。

 最終的には米議会の立法判断を仰ぐことになりそうだが、今年11月の中間選挙では上下院で民主党の大敗が予想され、リベラル派が強く推すデジタルドルの早期発行の見通しが怪しくなってきた。バイデン大統領の命令は、研究を加速させることでCBDC法案策定を後押ししようとするものだが、道のりは困難なものとなろう。

 本稿では、CBDCをめぐる米国内の議論の本質を読み解くことで、民間の暗号資産(通貨)普及の動きと併せて、米デジタル経済の将来像を占う。

デジタルドルとデジタル人民元の共通性

 そもそもの疑問として、現金・小切手やクレジットカード、アプリ送金など決済手段が豊富な米社会において、なぜCBDCであるデジタルドルが必要なのだろうか。

 FRBの報告書は、(1)安全な支払い手段の提供、(2)国際間の支払いの利便性、(3)米ドルの国際的地位の維持、(4)社会的弱者の金融包摂、そして(5)安全な法定貨幣へのアクセスを主な理由として挙げる。

 最も重要視されているのが、銀行口座の維持に必要な毎月の残高レベルも保てず、金融サービスを受けられない社会的弱者の救済と、世界の基軸通貨であるドルの地位の保持、および金融犯罪の防止であることがわかる。

 一方、北京冬季五輪におけるデジタル人民元(e-CNY)の試験運用などを通し、CBDCのノウハウ獲得で先行する中国人民銀行(中国の中央銀行)が列挙する必要性の理由は、(1)現金形態の多様化、(2)金融包摂の支援、(3)決済サービスの公正な競争・効率性・安全性の確保、(4)国境を越えた決済の改善である。米国のデジタルドル同様、弱者の金融包摂や金融犯罪の防止を大きな目的として掲げている。

 ただし、デジタルドルと同じ「国境をまたぐ決済の改善」を謳っていても、中国側は米ドルの基軸通貨としての地位を突き崩したい思惑があり、米国側はドルの金融覇権的地位を死守したい意図があるため、それぞれの国のCBDCの政治的な役割は違う。

 CBDCの方法論の面について、FRBの報告書は「家計や事業所、そして米経済全体に、そのコストやリスクを上回る恩恵をより効果的にもたらすものでなければならない」との大前提を示した上で、「現行の貨幣や金融サービスに取って代わるのではなく、補完するもの」と明言する。

 この面でも、中国人民銀行が「デジタル人民元は、ウィーチャットペイ(微信支付)やアリペイ(支付宝)などの決済プラットフォームに取って代わるものではなく、補完するもの」と述べていることと共通している。

弱いデジタルドルの存在理由は何か?

 金融包摂や金融犯罪防止の切り札と見られているCBDCは、中国だけでなく欧州、日本、インドなど各国で研究や発行準備が進められている。米国がその潮流に後れをとり続けることは適切ではないとの世論もあり、FRBは報告書をとりまとめる段階に漕ぎ着けた。バイデン大統領大統領令もその一部世論に沿った形となっている。

 背景の一つとして、ラエル・ブレイナード理事のFRB副議長への昇進が米議会で承認されることが、ほぼ確実であることが挙げられる。ブレイナード理事はCBDC推進に前のめりなハト派で、民主党中央の覚えもよい。

 さらに、CBDC発行をめぐりブレイナード理事と対立してきたタカ派のランダル・クオールズ前副議長やリチャード・クラリダ前副議長が相次いで退任し、バイデン大統領が指名するハト派の理事候補や副議長候補たちが、FRBの多数派となることが確定している「天祐」もある。

 だが同時に、民主党を中心とするデジタルドル推進派は、米国におけるCBDCの決定的なレーゾンデートル(存在理由)を示すことに失敗している。両論併記の玉虫色報告書という形となっているのはその証左だろう、発行にまつわる最終的な議論や決断も、米議会に丸投げされることとなった。

 デジタルドルを発行する理由として、FRBは聞こえのよい「金融包摂」を挙げている。ただ、FRBがその100年以上の歴史の中で金融弱者の救済に真剣に取り組んだことはなく、一貫して低所得層や貧困層を放置してきた。それどころか、近年における経済危機対応としてのFRBの一連の金融緩和は、富裕層の持つ資産の価値を大いに高め、既存の経済格差をさらに悪化させる結果を生んでいる。

 パウエルFRB議長は、2021年4月に講演した首都ワシントン経済クラブにおいて、「経済回復の力強さを見定めるには、ホームレスも考慮に入れられるべきだ」と発言。「金融政策が決定される際に、彼らもわれわれと同じ部屋にいるべきだ」と踏み込んだ。

 だが、パウエル氏の講演中に、多くのホームレスたちがテントを張るFRB本部近くの一帯で雨が降っており、「ホームレスたちは政策決定に関与するどころか、ぬかるみとなった公園の地面の上で雨露を防ぐだけで精一杯であった」と、『ワシントン・ポスト』紙のルポは伝えた。

「デジタルドルで弱者の金融包摂が進む論」の違和感

 そのように偽善的なFRB首脳部やハト派が突然、金融包摂を叫び始めたのだから、動機が真に純粋なものか検証が必要であろう。

 金融リテラシーも十分でなく、インターネットへのアクセスを持たない者が多数の低所得層や貧困層を、スマートフォンが現金代わりとなるデジタルドルが包括的に引き上げるとの主張は説得力がない。FRBハト派の貧困層に対する歴史的な無関心を考えても、本気で弱者の金融包摂を推し進めようとしているのかは疑問だ。今後、FRBのデジタルドル政策が本当に弱者を救済する実績を挙げていくのかに、注目が集まろう。

 さらに重要なのは、ブレイナード理事が「民間企業によるデジタル決済の選択肢が増えることで、決済システムが分断化され、摩擦が生じて一部の消費者が閉め出される恐れがある」と主張したことだ。ビットコインなど民間の暗号資産が、弱者の金融包摂を妨げると示唆している。

 だが、ヒスパニック系移民やセックスワーカーなど、一部の金融弱者グループにとり、そのように分断された決済システム、すなわち匿名性の高い民間暗号資産こそが、逆に当局の不法入国や売春絡みのマネーロンダリングのチェックを回避するのに都合がよく、FRBが提供しない真の意味での「救済」をもたらしていると報告される。

 ブレイナード理事が関心を持つのは、FRBによる金融秩序の維持と取引監視の徹底であり、弱者の生活の救済ではないように見える。国家によるお金のやり取りの監視に都合のよいCBDCは、逆に彼らを追い詰めてゆくだろう。だから、リベラル派による「デジタルドルは弱者の金融包摂を大目的としている」との主張は弱い。

「ドルは人民元に脅かされる」という煽り説は本当か?

 FRBがCBDCを発行すれば、中国共産党の法定貨幣である人民元が米ドルの基軸通貨としての地位を脅かすことを防げるとの言説も、根拠が薄いものだ。

 これは例えば、上海復旦大学の宋思斉教授などが主張する、「売り手と買い手が直接CBDCで決済ができるようになれば基軸通貨が不要となり、ドルが使われる機会は減る」との煽り説に基づいている。だが、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執る金融理論の大家、バリー・アイケングリーン教授は、以下のように反駁する。

「例えば、韓国がCBDCを発行し、デジタルウォンを使ってコロンビアから購入したコーヒー豆の支払いに充てたとしよう。コロンビアはいずれ、その支払代金の韓国ウォンをより汎用性の高い米ドルに替えようとするだろう。だから、ドルの地位は不変だ」

 歴史的に見て、いつ価値が暴落するかわからないリスクのある韓国ウォンを持つよりは、いつでも何にでも交換してもらえる米ドルを持ちたいと願うのは、どの国の人でも同じであろう。アイケングリーン教授は、さらに続ける。

CBDCに互換性を持たせればドルを介さない中央銀行間の取引は理論上可能だが、200近い世界の国々が互いにそれぞれCBDCの為替管理や担保条件、貿易規制を世界貿易機関WTO)や国際通貨基金(IMF)のルールと整合させるのは不可能だ。そのため、やはり基軸通貨としてのインフラが整ったドルを使わざるを得ない」

 また、米ゴールドマンサックス・アセットマネジメントの元会長であるジム・オニール氏は、「中国の人民元にはマネーの流れを制限する資本規制がかかっており、国外の人民元の安全と流動性も保証されていない」と指摘している。現時点でドルに代わる基軸通貨は存在しないわけだ。

 さらに、ロシアプーチン大統領によるウクライナ侵攻への金融制裁が実行された際に、多くのロシア国民が銀行のATMに殺到して米ドルを引き出そうとしている「取り付け騒ぎ」を想起すればよい。ドルは、「敵国」の市民からも一番信頼され、渇望される存在なのだ。これは、北朝鮮イラン、中国でも同じである。

デジタルドルの本当のメリットは何?

 米ドルの汎用性や支配的地位は、人民元やその他のCBDC発行・流通によって簡単には揺らがない。日常だけでなく、有事の貨幣価値の保持を考えるならば、国際決済においてドルの代わりにデジタル人民元を使う理由は強くない。

 加えて、ドル建ての決済はCBDCでデジタル化しなくても、すでに十分な実用性と実績がある。手数料が高い、即時性に欠けるなどの不便な点は、既存のシステムにイノベーションによる改良を加えるだけでよい。つまり、デジタルドル推進派の「デジタル人民元脅威論」の論拠はそれほど強いものではない。

 このように論理面でCBDCの決定的な存在理由を説明できないデジタルドル推進派は、「CBDCでどのような問題が解決できるのか。それは、コストに見合ったものか」との問いの答えに常に窮する羽目に陥ることになるのである。(続く)

【後編】「リベラルが進めるデジタルドルの導入は中国共産党型監視社会の足がかりか」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69224)

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中央銀行デジタル通貨発行のメリット・デメリットの研究を加速するよう命ずる大統領令を出したバイデン大統領(写真:ロイター/アフロ)