1942年の今日、旧日本海軍局地戦闘機「雷電」が初飛行しました。敵機を迎撃するべく開発され、高速かつ優れた上昇能力を追求しました。試行錯誤を経て、戦争末期には本土に襲来するB-29とも格闘し、撃墜の戦果もあげています。

とにかく早く上がる機体を

1942(昭和17)年の3月20日は、旧日本海軍局地戦闘機「雷電」が初飛行した日です。局地戦闘機とは、言葉のとおり「局地」すなわち限定されたエリアで用いる戦闘機という意味で、いわゆる要撃機のことです。陸上の飛行場や基地、人口密集地、工業地帯などに襲来する敵軍用機を迎撃するための任務に特化した戦闘機として開発されました。

初飛行こそ1942年ですが、量産体制に移行するのはそれから約1年半後のことです。高高度への上昇能力と最大速力が重視されるものの、試験飛行するたびに不具合が見つかったためでした。高出力に寄与するも小型化できないエンジン、それゆえに胴体の形状を錘型にしたり、プロペラの枚数を変更したりするなど、試行錯誤が続きます。

とはいえ、いくつかのモデルが製造されたなか、後期型では電気溶接やプラスネジが採用されたほか、機体の生残性を高めるべく、防弾ガラスの本格装備や主翼内の燃料タンクに自動消火装置を備えるなど、当時の最新技術が盛り込まれています。

1944(昭和19)年に製造された機体になると、最高速度614km/h、上昇能力は高度8000mまで10分を切るようになりました。

しかし徐々に戦局が悪化していくにつれ、物資や燃料の不足から量産数は徐々に低下、また不良率も高まり、出撃できない機体が多くなっていきました。とはいえ、本土にはアメリカ軍の大型爆撃機が姿を見せるようになり、時代が下るにつれ武装が強化されています。

「雷電」は南方戦線にも投入されましたが、主な戦闘相手はB-29でした。「超空の要塞」とも称され、重武装したアメリカ軍B-29に対しては、両翼の機銃や被弾しても持ちこたえる太い胴体などが功を奏し、撃墜の戦果も複数あげています。

「雷電」は終戦までに、470機あまりが製造されたにとどまりました。なお製造は、現在の神奈川県中部にあった海軍工廠でも行われたことから、その縁で2020年に部品の一部が座間市へ寄贈されています。また、この工廠では台湾から来た少年工も製造に携わったといわれています。

旧日本海軍の局地戦闘機「雷電」。写真は三三型(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。