日本海軍巡洋艦「北上」が1921年の今日、竣工しました。太平洋戦争開戦にあわせて「北上」は、片舷から計20本もの酸素魚雷を発射できる重雷装艦へ改装。しかし真価を発揮する機会ないまま、最後は特攻兵器「回天」の母艦となります。

高性能な酸素魚雷

1921(大正10)年の4月15日は、旧日本海軍巡洋艦「北上」が竣工した日です。「北上」を語るうえでは、高度な技術を駆使して完成させた「酸素魚雷」を忘れるわけにはいきません。

「北上」は球磨型軽巡洋艦の3番艦です。球磨型は、主に水雷戦隊の旗艦として用いられるために設計・建造された艦でしたが、就役からしばらく経った1930年代中ごろ、上述の酸素魚雷を大量に発射できる艦へ改装されることが決まります。この改装は同型艦「大井」とともに行われました。

そもそも酸素魚雷とは、魚雷のエンジンを回すための燃料の酸化剤に、従来の圧縮空気ではなく純酸素を用いたもの。こうすることで燃焼効率が上がり速力や射程が向上するほか、気泡がほとんど出ず、雷跡が消せるというメリットがありました。製造は困難を極めましたが、第2次世界大戦直前に日本のみが実用化します。なお最初に実用化された酸素魚雷は「九三式魚雷」というものでした。

「北上」が重雷装艦となったのは、太平洋戦争の火ぶたが切られた真珠湾攻撃と同じころの1941年12月でした。3基の14cm主砲を下ろし、代わりに4連装魚雷発射管を両舷に5基ずつ計10基装備。片舷から計20本もの魚雷を発射できるようになりました。重雷装を施したのも、いつか訪れるであろうアメリカ軍との艦対艦の戦闘に備えてのことでした。

真価を発揮する機会は来ず…

しかし当時、すでに海戦の在り方は航空機を主体としたものに移行しつつあり、「北上」には想定したような、魚雷を敵艦隊へ向け一斉発射する機会は訪れません。そして勝敗の転換点ともされるミッドウェー海戦1942年6月)で、日本は主力の航空母艦を4隻失い大敗を喫すと、以降の敗色は濃くなっていきました。こうして、「北上」が前線に出ることはますますなくなっていきます。

同1942(昭和17)年9月、ついに“切り札的装備”だった4連装魚雷発射管4基を撤去し、輸送艦に再改造されます。ただ、これにより身軽になった「北上」は軽巡洋艦として生まれ持った高速性を活かし、輸送のほか船団護衛など、後方支援任務に重用されました。

1944(昭和19)年1月、シンガポールへ向け航行していた「北上」は、マレー半島とスマトラ島のあいだに位置するマラッカ海峡において、イギリス海軍潜水艦による雷撃を受け航行不能に陥ります。応急処置が施され、しばらく南方に待機するも、本格的な修理を受けるために味方の駆逐艦に曳航され、8月、佐世保に帰還します。

この時、再び改装が行われます。それは特攻兵器「回天」の搭載母艦としてでした。「回天」とは九三式魚雷を改造し、人間が操縦できるようにしたものです。

「北上」は魚雷発射管や主砲をすべて撤去し、武装を対空用の高角砲(高射砲)のみとすることで、計8基の「回天」を搭載可能な姿に様変わりしました。なおこの時、後甲板は「回天」を海中へ射出できるようスロープ状に変更されます。以降は訓練などに従事しました。

しかし終戦間際の1945(昭和20)年7月末、広島県の呉軍港にいた「北上」は、アメリカ軍の空襲にあい大破。結局、「回天」搭載艦としては実戦に参加しないまま終戦を迎えます。

老齢艦でありながら、太平洋戦争を生き延びた「北上」は戦後、艦船を修理する工作艦として使われました。その後1947(昭和22)年3月に解体されています。

旧日本海軍の巡洋艦「北上」。1946年7月、長崎港にて(画像:アメリカ海軍)。