■自分たちが今歌いたいものを歌えば、 結果がついてくる

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第23回目は来年で結成50周年を迎えるTHE ALFEEが登場! やりたいことをやるスタンスを貫き続ける3人にとってのキーパーソンとなる人物や、第一弾のヒット曲「メリーアン」が生まれるまでの話、音楽性の変化など、THE ALFEE節の効いたトークでお届けする。

THE ALFEE

THE ALFEE のまとめはこちら
ジ・アルフィー1973年明治学院大学キャンパスにて出会いグループを結成。翌74年8月にシングル「夏しぐれ」でデビューを果たし、83年発表のシングル「メリーアン」がデビュー9年目にして大ヒットを記録。以降、日本の音楽シーンを代表するバンドとして活躍している。87年から2018 年まで関西テレビ『大阪国際女子マラソン』のテーマソングを 32 年間(阪神淡路大震災で休止)31 曲、担当したことを“同一国際スポーツ大会のテレビ放送における同一アーティストによる最多テーマソング数”として、18 年12月24 日に行なわれた日本武道館公演でギネス世界記録に認定された。また、コンサートツアー・イベントと精力的な活動を続けており、日本のアーティストの中でもコンサート動員数が多いグループのひとつに挙げられている。コンサート通算本数は20年8月25日に行なわれた自身初の配信ライヴTHE ALFEE 46th Birthday 夏の夢』がコンサート通算本数2776本となり、日本のバンドでコンサート実施通算本数の最多記録を更新中!

■ロックに変わったのではなく、 もともと好きだったというだけ

──1974年にシングル「夏しぐれ」でデビューしたあと、約5年後の1979年にシングル「ラブレター」で再デビューされましたが、この期間はTHE ALFEEにとってどんな時間でしたか?

高見沢
デビューするってことは自分たちのひとつの始まりなんですが、個人的にはそんなに始まっていなかったんですよね。学生だったっていうのもあるかもしれないけど、プロとしての意識が足りなくて、エンタテインメントの荒波を直撃で受けました。

坂崎
ですから、79年にキャニオンと契約するまでの期間はアマチュア時代にやるべきことをやった感じですね。

高見沢
そうだね。74年でデビューした時には他にもたくさんのバンドがいて、オーディションで合格しないと歌番組に出られない時代で、僕らもオーディションを受けたけど、他のバンドを見ながら“うまいいなぁ!”って素人感覚で観ちゃっていましたからね。今考えると、それってダメだよなと(笑)。それに、地方から出てきたグループは強いんですよ!

坂崎
みんな“ここで勝ち上がらなければテレビに出られない!”という気合いがあるのに、俺らはそれをライバルだとも思わずに“うめぇなぁ”って感心してたわけだからね。

高見沢
でも、僕はこのバンドにギターで入って、桜井がヴォーカルだったのに、デビューの時にはギターを弾かないでいいからハンドマイクヴォーカルをやれって言われて。で、桜井は逆に弾けないのにギターを持てって言われ、それはやっぱりおかしいよな(笑)。当時も“うん?”と思ったけど、抵抗する力もなく、流されるままやっちゃったから、不本意なスタートではありました。「夏しぐれ」は作詞が松本 隆さん、作曲は筒美京平さんで、すごくいい曲だったんですが、それをうまく表現できない自分たちの実力のなさも感じました。

坂崎
そこで一回挫折したから、これからは自分たちで曲を作っていかないといけないと気がついて、その流れでライヴハウスでライヴをするようになったんです。研ナオコさんやかまやつひろしさんが出演しているステージに立たせてもらって、良く言えば音楽にちゃんと向き合うことができるようになった数年間でしたね。ボツになった曲も多いけど、オリジナル曲も相当作っていましたし、再スタートに向けての悪い期間ではなかったんじゃないかな? まぁ、生活は貧乏でしたけどね。3人とも東京近郊に住んでいたし、みんな次男坊だからのんびりしていて(笑)、その性格が幸いしたんでしょうね。誰かが家業を継がないといけないとか、実家に帰らないといけないってことがあったらそこで終わっていたと思いますよ。僕らはちょっと実家に行っては、親の脛をかじっていたから(笑)。

──オリジナル曲の制作をはじめ、ライヴハウスではMCでも場を盛り上げたり、コミカルな演出を披露していたそうで、今のTHE ALFEEにつながるものを多く作った期間だったのではないでしょうか?

高見沢
今のTHE ALFEEにつながったというより、初めからそういう人間だったんですよ。何をしようとしていたわけでもなく、しゃべっていたらこうなっていました。それが熟成されてMCになったり、坂崎もずっとモノマネをやっていたしね。僕がこのグループに入ったきっかけは、人形町の交差点で坂崎がピグモンモノマネをして横断歩道を渡ったの見て、このバンドに入ろうと決心したぐらいですからね。

全員
あははは。

高見沢
まぁ、そういうことを日常茶飯事でやっていたわけですよ。だから、面白いことをやろうと意識したことは一度もないんです。

坂崎
とにかく3人ともお笑い好きだったしね。自然の流れでしたね。

高見沢
そうだな。

坂崎
ステージに立っても僕らの曲をお客さんは知らない分けだから、その場で何か印象をつけなければいけない。だから、2曲歌わせてもらう合間にモノマネとかコントまがいなことをやってたら、そっちのほうが印象が強くなったみたいだね。まだレコードを出していないのに公開録音のラジオ番組に、場をあたためる役でよく呼ばれましたよ。

──ステージに持ち前のものを披露したら、その場が盛り上げるだけでなく活動の幅も広がっていったんですね。再デビュー後は初の野外イベントの開催や、5thアルバム『doubt,』からロック系のアレンジが増えたりと、“フォークグループ”という括りから音楽性が広がっていったと思いますが、ロックを取り入れた背景には何か想いがあったんですか?

坂崎
それも何か狙いがあったわけじゃなくて、もともと高見沢はロックバンドをやっていて、ハードなものが得意ってことはあったね。

桜井
デビューしたての頃のフォークグループっていうスタイルも、当時はテクノが流行っていた時代だったから、それに逆行してアコースティックがいいんじゃないかって発想でしたからね。

坂崎
それが裏目に出た(笑)。

桜井
波に乗れなかったんだよね。それがまただんだん自分たちの得意なほうになっていっただけのことかもしれないね。

坂崎
最初はフォークスタイルでやっていたけど、そのうちライヴでお客さんが熱狂してくれるようになって、アンコールでお客さんが前に来て盛り上がった時に、高見沢が生ギターなのに前のほうに行っちゃってさ、当時はエレアコなんてないから誰も音が聴こえなかったこともあったな。

高見沢
自分だけで盛り上がってましたね。音が出ていないのに(笑)。

坂崎
それからだよな。熱狂するお客さんに合う曲を高見沢が作るようになって、その流れでサウンドもロック寄りになっていった。もともとレコードではドラムキーボートも入れていたし、無理矢理ロックにした感じではなく、自分たちにとっては自然な流れでしたね。

高見沢
あと、よく3人でメタルのライヴに行ったよな。Judas Priestとか、IRON MAIDENとか、Rainbowをね。

桜井
それはお前が強引に連れて行ったからだろ(笑)。

高見沢
まぁ、IRON MAIDENの時は俺もブルース・スプリングスティーンのほうが良かったかなってちょっと思ったけどさ(笑)。

坂崎
ちょうど同じ日に別の会場でブルース・スプリングスティーンがやっていたんですよ(笑)。よく僕らのサウンドがロックに変わったってよく言われますけど、もともと好きだったというだけなんです。だって、エレキ世代ですから。グループサウンズとかThe Beatlesとか、エレキが流行った時代に音楽に目覚めて、バンドを組みたいっていう気持ちがあったから、ライヴにもドラムキーボートが入ってバンド形態になった時はやりやすかったです。

桜井
本当にそうだよ。それまではアコースティックにベースでチョッパーやっていたんだから(笑)。

次ページ【“気がついたらこうだった” っていうのが重なって今がある】
L→R 桜井 賢(Vo&Ba)、坂崎幸之助(AG&Par)、高見沢俊彦(EG)(okmusic UP's)