(乃至 政彦:歴史家)

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歴史の尻尾をつかめ

 歴史には尻尾がある。尻尾というのは、隠された真実である。ただし中には偽物も多い。ファンタジーを信じるのは悪いことではないが、歴史に学んで思考を進める際の妨げとなりうる。ゆえにここでは歴史の尻尾について、その真偽を検証していくことにしたい。その前に、日本史の尻尾とは何かを少し説明したい。

三島由紀夫の尻尾

 昭和の作家・三島由紀夫1925〜70)の著作に、『不道徳教育講座』(中央公論社・1959)というエッセイ集がある。そこには「大いにウソをつくべし」「人の失敗を笑うべし」「恋人を交換すべし」などと、三島独自の毒と洒落の利いた処世術が披露されている。そのうちのひとつに「人に尻尾をつかませるべし」という記事がある。

 尻尾をつかませるとはどういうことか?

 簡単に説明すると、相手が納得するおのれの“真実”を偽造してチラつかせ、相手に握らせてしまおうという話で、人にはニセモノの尻尾をつかませてしまえというのだ。

 私は、これはもともと山本常朝の『葉隠聞書』(1716年頃成立)に着想を得た思考法ではないかと考えている。三島は若い頃から同書を愛読していたが、そこには常朝の父の発言として「嘘を使え。2時間に7回、嘘を言わないと男は立たないぞ(虚言をいへ、一時の内に七度、虚言いはねば、男は立ぬぞ)」という一文が紹介されている。三島の「人に尻尾をつかませるべし」という思考法には、これに通底するところがあるように思えるのである。

 人間は、自ら探し出した真実を信じやすい。ロシアプーチン大統領も歴史を独自に修学して、危うい知識に偏ってしまったと見られている。紛いものの真実には、好奇心を満たす効果がある。そして人は尻尾をつかむと、それ以上の真実を追求しなくなる。そうして偏った信念を抱いてしまったら、もう立ち戻ることなどできない。

 だが、我々はプーチンを笑えるだろうか。

 例えば、「三島は同性愛だった」という有名な話がある。本人が嬉々として広めた巷説なのだが、本人が「わたしは同性愛者です」と述べたことは一度もない。「右翼」なら何度も自称していたが、同性愛者だとは公言していないのだ。

 それなのに多くの人が、「三島は同性愛者だ」という認識を持っている。もしかすると我々は三島の術中に嵌められているのではないだろうか。

 そもそも三島の同性愛は、歴史研究の場であれば、信頼に値しない証言と附会めいたテキスト以外に根拠がない(友人や外国人の証言も要検証テキストである)。我々は三島に尻尾をつかまされて、出世作『仮面の告白』(本人は真実をそのまま書いていると述べているが、そうした証言に文学的ミスリードがある)や平岡公威(三島の実名)という人物の別の側面を見過ごしている恐れがある。

 三島のことはここまでとするが(編集部に要望があれば、別の機会にやらせてもらうかも)、歴史にはこうした「尻尾」が無数にある。

神聖部隊の真実

 今回のテーマは、前近代の軍隊と男色(少年愛)である。

 前近代には、男性同士の恋愛が強い軍隊を作ることが可能だったとする認識は根強く、本当に強いのかどうか私には判断できないが、いくつかの有名な事例を検証していくので、同性愛と軍隊を再考するための材料としてもらいたい。

 古代ギリシャの軍隊に「神聖団」(神聖部隊。ヒエロス・ロコス)という部隊があったことは、歴史好きやミリタリー好きの間で有名である。

 神聖団がどういう部隊だったかと言うと、次のような解釈が通説とされている。簡単に説明しよう。

 今から2400年前の紀元前378年、ギリシアで「神聖団」という300名の選鋭からなる精鋭部隊が創立された。これは同性の恋人同士で組織された歩兵部隊で、男性の恋人同士で編成して、互いが互いを裏切らず、また見苦しい様子を見せないことから、とても精強であったという。

 ちなみに、古代ギリシアの文献である『饗宴』に、パイドロスが「人は恋をしている時には、自分が戦闘部署を放棄したり、武器を投げ出したりする様を恋する少年に見られることは、まったくのところ、ほかの誰に見られるよりもたまらないことであろう」「城塞や軍隊を運用するにあたって、愛し合う恋人同士で組織すれば、寡兵でも大軍に勝利するだろう」(鈴木照夫訳「饗宴」『プラトン全集〈五〉』岩波書店)と語るテキストがあり、戦場に男性の恋人同士を送れば、どんな卑怯者たちでも勇者になれると唱えられている。

 もし事実その通りなら、別に男性同士でなくてもいい気がするが、男女の恋人同士が平等に混淆する軍隊は、リアリティがないらしく、ファンタジー作品ですら見覚えがない。ところが、男性同士の恋人部隊となると、これに比べて現実味が増しているように思う人は多いようで、その特殊事例に注目して、我が国にもそうした部隊があるのでは──文献に検索する研究が盛んとなった時期がある。昭和平成の頃である。

戦国時代の男色と軍隊に関する俗説

 そこで持ち出されたのが次の事件である。

 天正15年(1587)、天下統一をはかる豊臣軍が、九州の島津軍を攻めた。もちろん結果は島津軍の降参に終わった。当主の島津義久が頭を丸めたのだ。

 戦国軍記の『陰徳太平記』は、降伏前の戦いにおける島津勢の凄絶な玉砕を、次のように伝えている。

 この時、島津軍の先陣のうち、島津歳久の子である忠親ら500人以上が戦死したが、みんな上腕に氏名と年齢と戦没する日を入れ墨していたという(【原文】この時、島津勢先陣の内、島津歳久(しまづとしひさ)の子・三郎兵衞忠親(ただちか)をはじめとして、五百あまりばかり討たれけるに、皆二の腕に何氏何某、行年(ぎょうねん)何十歳、何月何日討死と黥(いれずみ)して在りけるとかや)。

 これを男色の研究者は、江戸時代の遊女が「××さま命」といれずみしていた例や、幕末明治の薩摩で男色が隆盛した例と結びつけ、恋人同士である青年と少年たちが同部隊に編成され、腕をとりあい、互いの命と愛とを彫りこむという薩摩らしい現象であると解釈した。

 だが、これはそうではない。彼らはただ自らの没日を見定めて、おのが死を美しく飾ろうとしただけのことで、男色や同性愛とは無関係であろう。公的な大義に殉ずる若者の最期を私的な色恋と結びつけて、読み替えるのはいささか飛躍が過ぎる。

 もちろん玉砕した島津勢に悲壮の覚悟があったのは事実である。だが男色の関係にある若者同士を500人も組織する余裕が、滅亡の危機に直面する戦国大名にありえるだろうか。

 史料に書かれていないことを読み取ろうとする意欲には共感する。だが、このようにありもしない「尻尾」をつかんで、満足するわけにはいかない。

 ところで、先に引用した古代ギリシアの『饗宴』の文章にも気をつけておきたい。ここにある恋人同士の組織化などは、あくまで論者の空想であって、現実にあった出来事ではないのである。タイトル通り、昔の人は酒の席でこのような放談をしたという程度のテキストなのだ。このくだりは、酒の勢いで楽しい妄想を語らっているだけなのである。

 また、先述した「神聖団」についても、その日本語訳を見てもらえば、とても重要な点が現在一般的に知られている通説と異なっていることに気がつく。

神聖団の真偽

 古代ギリシャの「神聖団」の実在を伝えるのは、プルタルコスによる「ペロピダス伝」である。ここにその内容を書き写そう(『プルターク英雄伝』第2巻)。ネットでも読める大正時代の翻訳を使うが、読みにくいと思うのですぐに解説を施す。

三百名の選鋭を以て『神聖団』を組織した。而して国家は之に──开が城塞(カドメア)の衛兵たるを以て──糧食を給し、其職務に必要なる道具を悉く供給した。或る他の人々は云ふ、此隊は断金の親交ある人々を以て、組織せられたのであると。

 ここでは、300人の精鋭による神聖団の組織化があったと説かれており、国家は彼らに食糧と物資を提供したとある。そして、ある無関係な人々は、彼らを「断金の親交」すなわち男色の関係にある恋人同士で組織したものだと評したという。

 この一文を見直すと、「神聖団」の様相が、今日の通説的解釈と違っていることに気がつかれよう。

 まず、「神聖団」は「糧食を給し、其職務に必要なる道具」を支給された。現代人の感覚では、当然のことに受け止められるかもしれないが、わざわざこのように語られているからには、彼らは自弁で自由参加する私兵や傭兵と異なり、国家直属の官軍的部隊として編成され、優遇されたと解釈できる。そして特別に訓練された彼らの結束ぶりは当時とても珍しいものであったらしく、よく理解できない人々(「或る他の人々」)は「あいつらは男色の関係にある者たちで作られたのでは」と噂した。なんと、男色関係の説明は、なんとこの一文だけなのだ。

 つまり「神聖団」のベースに男色があったとする根拠は、当時の噂話に過ぎず、事実として確認できるものではない。

 これを事実として歴史を見ようとするなら、それは龍や麒麟といった神話上の動物に基づいて、生物の進化を論ずるようなものである。

軍隊の玉砕

 過去の戦士たちが人命を賭しても守ろうとしたものが何かを見定めるのは、後世を生きる我々が担うべき責務であり、礼儀であろう。当人たちにとって不本意な解釈は慎むべきように思う。ある兵士が戦友の亡骸を救い出しに行き、かなわずに戦没したという逸話があるとして、そこに男色の愛着があったからだと類推するならば、その戦没兵士にあったかもしれない公共心と連帯感、そして責任感と友情を切り捨てることになる。

 軍隊の編成において、男色が特別な役割を果たしたとする史料や伝承は検出できておらず、これと無関係な歴史を後世の解釈によって強引に結びつけたものしか存在しない。

 このほか、根強い俗説に「武士の男色は戦場から生じた。なぜなら戦場に女は禁忌とされたからだ」というものがあるが、これもまともな根拠が探し出されていない。

 中世の史料には、女だけで組織された「女騎」の部隊を散見する。沼津市千本浜には戦国時代後期の首塚があり、発掘調査の結果では約3割の遺骨が成人女性の戦死者とされている。子供の遺体は見られないので、彼ら彼女らは避難民ではなく従軍者と考えられる。

 また、木曾義仲が巴御前を、長尾為景が松江なる愛妾を戦場に連れていたという女武者の伝説や、河越夜戦上杉憲政が陣中に遊女を集めて遊び呆けていた記録、小田原合戦の豊臣秀吉が諸陣に男女の芸人を呼び寄せ、さらには妻をも呼ぼうと考えていたという逸話がある。もし戦場に女を連れてはいけないというのなら、このような事実や物語はなんなのであろうか。

 歴史にはこのように、手放すべき「尻尾」がたくさんある。今回は、古代ギリシャの男色部隊に始まり、戦場と男色、女性不在の戦場という「尻尾」について見直しを進めてみた。ニセモノの尻尾には気をつけたいものだ。

 

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

【歴史ノ部屋】
https://www.synchronous.jp/ud/content/613ae89077656127a1000000

【乃至政彦「歴史ノ部屋」/4月26日 19時〜 Live配信!】
「歴史ノ部屋」メルマガにて配信中の『謙信と信長』のこれまでを解説。また、今後、中心となる織田信長について、歴史研究家で『新・信長公記』の著者である高澤等氏と、新たな「信長」像について、お話しします。質問コーナーもありますので、ぜひご参加ください。

※会員でない方もご参加いただけます。詳細→https://www.synchronous.jp/articles/-/480

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