文=鷹橋 忍

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侍所別当を梶原景時に貸した?

 最近の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、魅力的な登場人物が次々と非業の死を遂げている。純朴だった主人公・北条義時も、ダークサイドに足を踏み入れた。

 SNSでは「救いがない展開」との感想が呟かれるなか、「唯一の癒やし」と人気急上昇中なのが、横田栄司演じる和田義盛だ。

 ドラマでは戦場で小鳥を捕まえてはしゃいだり、書状に愛らしいイラストを添えたりと、いかつい外見に似合わぬ可愛さで視聴者の心をつかんでいる義盛だが、どのような人生を送ったのだろうか。

 和田義盛は、三浦氏の一族に属する。三浦郡和田(神奈川県三浦市)を本拠とし、和田を称した。

 義盛は三浦氏の族長・三浦義明の長子・杉本義宗の子として、久安3年(1147)に誕生した。源頼朝と同じ年の生まれで、北条義時よりは16歳年長だ。

 佐藤B作演じる三浦義澄は叔父、山本耕史演じる三浦義村従兄弟にあたる。

 義盛の父親の義宗は、長寛元年(1163)に安房国の長狭城(千葉県鴨川小湊)を攻めた際に大怪我を負い、39歳で死去した。義盛、17歳(数え年)の時のことである。

 父親の死後、義盛は祖父・三浦義明の庇護を受けたものと考えられている(高橋秀樹『三浦一族の研究』)。

 治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に際しては、挙兵直後から叔父の三浦義澄らとともに参じ、頼朝をおおいに助け、信頼を得た。

 鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』の同年11月17日条には、義盛が御家人を統括する侍所別当(別当は長官。この時点では「侍別当」とする説あり)に補任されたと記されている。この職は、頼朝が大敗した石橋山合戦後、安房国へ逃亡する際に、義盛が望み、許諾されたという。

 侍所の次官である所司には、中村獅童演じる梶原景時が任じられた。

 ところが、建久3年(1192)に、侍所別当は義盛から梶原景時に交替している。

吾妻鏡』正治2年(1200)2月5日条によれば、建久3年に還補景時が「侍所別当職を少しの間、借りたい」と懇望したため、義盛が服暇の際に、仮に補任された。しかし、景時は奸謀を用い、そのまま侍所別当に留まったという。

 侍所別当は幕府の重職である。当人たちが勝手に賃借できるとは考えにくい。真相は定かでないが、梶原景時が正治2年正月に一族もろとも滅ぼされると、重盛は侍所別当に還補され、強固な地位を築いていく。

【ネタバレあり】和田義盛vs.北条義時の対決の行方は?

 頼朝が没し、二代将軍・源頼家の時代となると、義盛は十三人の合議制の一人に選ばれた。

 三代将軍・源実朝とも良好な関係だったという。

 一方、北条氏は元久2年(1205)の「牧氏の変」により、北条時政が失脚した。『吾妻鏡』同年閨7月20条によれば、時政は伊豆国に下り、義時は「執権」を承ったという。

 北条義時は、財政および訴訟を管轄した「政所」の別当にも就任し、御家人筆頭として幕政を運営していたが、義盛は北条氏に並ぶ有力御家人であった。

 だが、建暦3年(1213)5月の和田合戦で、義盛は和田一族とともに滅亡する。

 和田合戦とは、和田義盛らと、北条義時らの幕府軍が、鎌倉を舞台に全面衝突した合戦だ。鎌倉初の本格的な市街戦としても知られる。

 和田合戦の発端は、同年2月15日に発覚した「泉親衡(親平)の乱」である。

 泉親衡という信濃の武士が、二代将軍・源頼家の遺児を擁して、北条義時を討つという謀反計画を建てた。それは主要参加者130人余、協力者200人にもおよぶ、大規模なものであった。捕らえられた者の中には、義盛の子・和田義直と義重、甥の和田胤長もいた。

 重盛は将軍・実朝に、二人の息子と甥の赦免を求めた。実朝は、これまでの重盛の功績に免じて、息子二人を釈放したが、胤長の赦免は拒否した。

 これに乗じて、北条義時は重盛を挑発した。後ろ手に縛った胤長を、列座する和田一族の前を歩かせたうえで、流罪としたのだ。『吾妻鏡』は、義盛が逆心を抱いた動機は、これにあるとしている。

 和田と北条の確執は進み、同年5月2日、義盛は150騎で兵を挙げた。和田合戦の始まりである。侍所別当・和田義盛67歳、執権・北条義時51歳のときのことである。

 義盛ら和田方は、御所を包囲して将軍・実朝の身柄を確保し、実朝を擁立して戦う計画であったようだが、失敗する。義盛の従兄弟三浦義村寝返り北条義時に義盛の攻撃を知らせたからだ。

 義盛の計画は完全に狂った。それでも、和田方の軍勢は御所に攻め入り、焼き尽くすとなど奮戦した。特に、義盛の三男・朝比奈(朝夷名)義秀は、彼と戦って死を免れた者はいないと言われるほどの剛勇無双ぶりを発揮した。

 2日間にわたって、激しい戦闘が繰り返された。和田勢は援軍を得て盛り返すも、義盛をはじめ主だった武将たちはことごとく討死し——和田合戦は幕を下ろした。

 翌5月4日に、晒された和田勢の首は234にもおよび、幕府軍の主だった死者は50人、負傷者は千人にものぼったという。

 和田義盛の死により、北条義時が侍所別当に就任し、政所別当と兼ねることになった。これをもって、「執権」職が確立したともいわれる。

巴御前と本当に結婚した?

 最後に、義盛と秋元才加演じる巴御前にまつわる逸話を、ご紹介しよう。

 巴御前は、木曽義仲の愛妾といわれる女武者だ。その実在は必ずしも明らかでなく、『吾妻鏡』にもその名はみられない。

 軍記物である『平家物語』や平家物語の異本の一つとされる『源平盛衰記』などに登場し、大力でありながら、髪が長くて色白の、優れた容姿の持ち主に描かれている。なお、一般に「巴御前」と称されているが、『平家物語』諸本には「巴」としか記されていない。

『源平盛衰記』巻第三十五「巴関東下向事」によれば、巴御前木曽義仲に落ち延びるように諭されて、信濃に帰った。義仲の滅亡後、賴朝に出頭を命じられ、鎌倉に参上した。

 頼朝は、巴御前の首を切るように命じた。それを知った義盛は、「巴の身柄を預かりたい」と頼朝に申し出ている。

 頼朝ははじめ「巴は隙をみせれば、主君の敵であるわたしを討とうとする」として、義盛の申し出を却下した。

 しかし、義盛は諦めなかった。

 義盛は祖父・三浦義明が頼朝のために命を捨て戦い、一族も長い間、頼朝に忠実に仕えてきたことを語ったうえで、自分が巴御前の身柄を預かっても非道なことは起きないと強調、その結果、義盛は巴御前を妻とすることができたのだ。義盛の粘り勝ちである。

 巴御前は男子を産んだ。それが、和田合戦で活躍した、義盛の三男・朝比奈義秀だという。だが、『吾妻鏡』には、和田合戦が勃発した建暦3年に義秀は38歳とあり、年齢的に合わないことから、史実ではないと思われる。

 和田合戦の後、巴御前は越中石黒へ移って出家し、尼として、91歳の長寿を全うしたという。

和田義盛ゆかりの地 

●和田塚

 鎌倉に残るただ一つの高塚式古墳。和田合戦で敗死した、和田一族の屍を埋葬した塚と伝承される。「和田一族戦没地」と刻まれた石碑のほか、戦没者慰霊塔、大震災殉死者供養碑など複数の石碑が建つ。

 もとは「無常堂塚」と呼ばれていたが、明治34年(1901)には石碑が建てられ、「和田塚」と称されるようになったという(神谷道倫『鎌倉史跡散策 上』)。

 

●浄楽寺

 神奈川県横須賀市芦名にある浄土宗寺院。鎌倉時代の仏師・運慶作の仏像5体(阿弥陀三尊、毘沙門天不動明王 いずれも国指定重要文化財)が安置されている。

 このうち不動明王立像と毘沙門天立像の胎内から、運慶の月の輪型(しゃもじ型)の銘札が発見された。それによって、像は文治5年(1189)3月に、和田義盛とその妻小野氏(横山時広妹)の発願主をとして、青年期の運慶が小仏師10人を率いて制作したことがわかった。

 さらに、阿弥陀三尊の胎内の銘札の書体が不動明王立像と毘沙門天立像の銘札と同じことから、運慶が同時期に制作したことが確認されている。

 

●天養院

 神奈川県三浦市初音町に建つ浄土宗の寺。創建は永禄2年(1559)とされる。本堂の薬師三尊(県重要有形文化財)は、平安時代中期の作と考えられ、和田義盛が信仰していたとも伝わる。

 薬師像は、義盛の「身代わり薬師」として有名だ。

 和田合戦の際、義盛は負傷しても痛みを感じなかった。一同が不思議に思っていると、薬師像が顔から胸に傷を負い、血が流れたという。これを見た一同は、薬師の加護を念じ、懸命に戦い抜いたと伝えられる。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『鎌倉殿の13人』源頼朝の「懐刀」梶原景時の生涯と失脚の謎

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