
(フォトグラファー:橋本 昇)
喜納昌吉の「花」という歌を聞くと、沖縄の人々が歩んできた歴史に思いが巡る。
「泣きなぁさいー笑いなーさぁーいー、いつの日か花を咲かそうよ」
太平洋戦争末期の沖縄戦では多くの民間人が犠牲になった。敗戦後はアメリカ統治下での生活が長く続き、沖縄は基地の島になった。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦の中で沖縄はアメリカ軍の重要な拠点となった。その間も沖縄の人々は祖国復帰を願って声を上げ続けた。もちろん人々が心に描いたのは、美しい自然環境の中での穏やかな暮らしだ。
1972年、沖縄は日本に返還された。しかし、米軍基地は残った。基地問題を抱えたまま、5月15日沖縄は本土復帰50周年の日を迎えた。基地が住民に及ぼす問題点は幾つもある。騒音、墜落事故の危険、街の発展への障害、そして心ない米兵の起こす事件とそこについてまわる「日米地位協定」の壁。
1995年の米兵による少女暴行事件は記憶に残る事件だ。沖縄の人々の怒りは凄まじかった。当然、「出て行ってくれ!」の声は強くなる。宜野湾市で行われた抗議集会には約8万5000人の県民が参加したという。それでも米軍基地の縮小は一定の成果に留まっている。いまでも在日米軍基地の7割が沖縄に集中しているという状況は変わっていない。
沖縄の人々は望むも望まないもなく、基地と暮らしている。それは12年前に取材した沖縄で、本土の人間として強く考えさせられた事だった。
民家と「隣り合わせ」の普天間基地
那覇から車で北へ約10キロ行くと米海兵隊普天間基地を抱える宜野湾市がある。宜野湾市は人口10万人、リゾートホテルやコンベンションセンターのある沖縄第五の町だ。市内の嘉数展望公園の展望台に上ると基地の滑走路が見下ろせた。ここから見ると基地のフェンスのギリギリまで民家やマンションが迫っているのがよくわかる。
公園を散歩中の男性が聞かせてくれた。
「アメリカさんは島の美味そうな所ばかりに目をつけて基地を造ったからね」
地図で見ると基地は宜野湾市のほぼ真ん中を占めている。大型ヘリやC-130輸送機が2700メートルの滑走路に行儀よく並んでいる。時々風に乗ってエンジン音がここまで聞こえて来る。
反対側の普天間第二小学校に回ってみた。校庭で遊ぶ子供たちの上をC-130の巨大な影が舐めるように走って行く。近くの10階建てマンションの上階からカメラを構えた。また、C-130がエンジンを絞り上げてこちらに向かって舞い上がって来る。上昇する機体のプロペラの風圧で民家の物干しの洗濯物がひらひらと泳ぐ。ファインダーいっぱいに迫って来る機体。続いて戦闘機が離陸した。キーンという耳をつんざく金属音が聞こえ、その後に続く轟音が鼓膜を叩く。近くに雷が落ちたような感覚だ。
「雨で視界が悪い日は米軍機が落ちてこないか不安になる」
基地のフェンスに洗濯物や布団を日なた干ししている女性に声をかけた。
「毎日、うるさいでしょう?」
「慣れることはないさー。みんな耳がおかしくなっているよ」
と、布団をパタパタ叩きながら女性が言った。
「沖縄は軍用機の騒音で蓋をされたような島さ。昼も夜も夜中も遠慮なく飛んでいるさ。夜中にエンジンをふかされるのはきついね」
また、おやじさんはこんなことも言った。
「晴れた時はいいけど、雨で視界が悪い日には米軍機が落ちてこないか不安で空を見上げてしまうね」
事実、2004年には大型ヘリが宜野湾市の沖縄国際大学に墜落事故を起こしている。その時も日米地位協定の壁に阻まれて、地元は満足に捜査もできなかったとか。
今年の年初、沖縄で新型コロナのオミクロン株の感染が拡大したのも、日米地位協定により日本の検疫を通らずに入国した米軍関係者から地域に広がった結果だという。当時、玉城デニー沖縄県知事は会見で「激しい怒りを覚える」と、米軍の管理体制を強く批判した。このような日米地位協定は特に米軍基地を多く抱える沖縄で、何かと不都合を生じさせてきたのだ。
沖縄在住のカメラマンM氏が言う。
「アメリカさんは沖縄でやりたい放題。日本を守るはずの米軍がオミクロン爆弾を沖縄にばら撒いてどうするの。アメリカはいつも我々をいきなり殴りつけておいて『泣くな!』というんだな」
知り合ったおじいはこう話す。
「俺が5歳の時にアメリカさんは海からやって来た。戦争に関係のない島民がいっぱい殺された事は知っているよね。それから島に居座って色んな悪さをしてくれたさ。許せないのは米兵による暴行事件。泣き寝入りも随分多かったと聞いたよ」
轟音を聞いて育ったカボチャ
米軍嘉手納基地に向かった。嘉手納基地は3700メートルの滑走路が2本ある巨大軍事基地だ。
県道前に4階建ての“道の駅かでな”があった。ここの屋上からは基地を一望に見渡す事ができ、観光客の人気スポットになっている。望遠レンズで覗くと、揺れる陽炎の先に戦闘機が見えた。整備員たちがだるそうに作業をしている。しかし、ここはアメリカ空軍の戦略的拠点としての第一級基地だ。いざ何かあれば弾かれた様に反応して、特殊偵察機RC-135やE-8Cが慌ただしく離陸して行く。
観光客はひっきりなしにやって来る。屋上まで上がって、備え付けの双眼鏡で基地を覗き、下の店内で戦闘機のTシャツやキーホルダーなどのミリタリーグッズを選ぶ。嘉手納ならではの道の駅だ。
観光客で地元は潤うが、やはり基地フェンスの隣に暮らす人々にとって騒音は堪らない。道の駅とフェンスとの間の狭い畑に農作業をするおやじさんがいた。
「ここのゴーヤもカボチャも芽を出した時から戦闘機の轟音とつき合って育ったから特別な味がするよ」
地元住民が逃れられない轟音
フェンスの向こうでP-3C対潜哨戒機のエンジンが唸りをあげた。轟音が鼓膜を震わせ、ケロシンの排気ガスが嗅覚を刺激する。
それにしても凄まじい音だ。
「慣れてはいるけど“何とかしてくれ”と叫びたくなる時もあるね。近くの幼稚園は窓が3重ガラスになっているよ」
60年代後半、嘉手納基地はベトナムの戦場と直結していた。次々に機体の腹いっぱいに爆弾を詰め込んだB-52爆撃機が8基のエンジンから黒煙を吐き出しながら離陸して北ベトナム爆撃へと飛んで行った。
当時の様子を覚えているという先出のカメラマン・Mさんは言う。
「子供の頃だよ。忘れられないのはキューンという野太い金属音だね。20機ぐらいが連続して舞い上がって行くのを首が痛くなるまで見ていたよ。服を臭うとケロシンの臭いがしたね。離陸したB-52が墜落事故を起こして島じゅうが大騒ぎした事もあったね」
まさに戦場だ。
基地とともに生きてきた「社交街」
米兵達はベトナムの泥沼から這い出して一時休暇をもらうと、米軍オンリーのバーで明日をも知れぬ命に泥酔し、ヘビーロック、喧嘩、マリファナと大騒ぎだった。
米軍相手の歓楽街は、地元では社交街と呼ばれている。嘉手納基地ゲート前の交差点から少し歩くと、コザ吉原社交街があった。暗くなって吉原入り口と書かれた看板をくぐると、細い路地が左右に走り、入り口を開け放った狭い店が軒を並べていた。灯りで照らされた店の中からミニスカートの若い女性がこちらをじっと見たり、無視したりと、外を歩く客の関心を引いている。ここは非合法の売春地帯だ。
店の女性に話を聞く事ができた。
「ここは元々アメリカさん相手の店なんだけど、今は地元の人や観光客の相手もしてるわね。でもけっこう若いアメリカ人が多いかな。彼らはとても優しくて好感が持てるわね。稼げるかって? そんなに儲からないけど、基地が無くると困るかな。まあ基地は永久に無くならないと思うけど…」
と、彼女は愛くるしい目をこちらに向けて話してくれた。
その年、吉原社交街はとり潰された。社交街も、また、戦後の沖縄を象徴していたと言えるだろう。「基地はいらない」と「基地は必要だ」との間で、揺れ続けてきた沖縄。
「どうして沖縄にだけこんなに米軍基地が」
普天間基地の移転先といわれる辺野古に向かった。
辺野古の海は美しい。海岸に出ると500メートル程沖合に陸続きの島があり、赤い鳥居が見えた。左手のなだらかな砂浜は遠方に突き出た陸地まで続いているが、途中の有刺鉄線で立ち入り禁止になっていた。有刺鉄線には“埋め立て反対”を訴える様々な色の布切れが風に舞っていた。近くには“埋め立て反対派”が陣取るプレハブ小屋も建てられている。この静かな海は今や脚光を浴びて妙な空気で騒々しい。
海岸の波打ち際に大きな海亀が打ち上げられていた。3、4人が取り囲んでいる。
「さっきまで動いていたのに、今はピクリとも動かんな」
「きっとビニール袋でも呑み込んだんだろう。かわいそうに」
「昔だったら喜んで肉を食べたもんさー。剥製にしたら立派な壁掛けになるさ」
この死んだ海亀の姿の方が、どんな大声の反対派の大声よりもずっと多くを語っている。そんな気がした。
「どうして沖縄だけがこんな圧倒的な数の米軍基地を受け入れなくてはならないのか?」というのが沖縄の主張だ。
普天間基地の移転先についても、豊かな自然環境を壊してまで辺野古である必要があるのか?
もちろん、移転に賛成の声もある。理由は地元の活性化だ。だから辺野古は今も揺れている。
本土復帰50年を迎えた沖縄。戦後間もない物のない頃、沖縄の人々は米軍の捨てた大豆缶から三線を作り、かき鳴らして踊り、コカ・コーラの瓶を融かして色鮮やかな琉球ガラスを作った。それが“うちなー”琉球人のアイデンティティなのだ。
かつて時の首相鳩山由紀夫は基地問題のお詫び行脚で沖縄に出向いた。県庁前で抗議する人々の中から一人のおばぁが叫んだ。
「はとやま! ばかたれ! もう来ちゃいけんよ」
印象に残る一言だった。
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