(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

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 北朝鮮の核・ミサイルの開発資金に関して、北朝鮮秘密資金管理の元幹部はかつてこう証言したという。韓国・金大中(キム・デジュン大統領の秘密資金が故金正日キム・ジョンイル朝鮮労働党総書記を救った、と。

 同じことが、いま繰り返さるかどうかの瀬戸際にきている。

 北朝鮮における新型コロナの感染はここ数日間で急拡大している。これに対し韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は、北朝鮮への人道支援提供の意思を表明した。同じ朝鮮民族の苦難を救わなければならない、との判断は基本的には正しい。

 しかし、冒頭で紹介した証言にもあるように、2000年に故金大中大統領(当時)の秘密資金によって北朝鮮が立ち直り、それが元で核ミサイル開発が進んだ。また、韓国が人道支援として供与したコメは北朝鮮の軍人にしかいきわたらず、国民には裨益しなかった。しかも、苦境から立ち直った北朝鮮は、国民の窮乏を緩和するより、核ミサイル開発に一層力を入れた。

 この反省を踏まえるならば、北朝鮮への人道支援を行う際には、その仕組みと監視体制を厳重に整備することが不可欠である。安易に人道支援をすれば金正恩総書記に都合よく利用されるのは火を見るより明らかだ。

車両を動かす燃料にも事欠いた「苦難の行軍」当時

 1990年代北朝鮮1990年代ソビエト連邦の崩壊で援助が滞ったために、94年末から98年にかけ、30万~300万が餓死したとされるほどの大飢饉に見舞われた。96年、「労働新聞」は新年共同社説において、飢饉と経済政策の失敗による経済的困難を乗り越えるため、スローガンとして「苦難の行軍」を国民に訴えた。

「苦難の行軍」当時の状況について、金日成(キム・イルソン)から始まる3代の独裁者の秘密資金管理機関「朝鮮労働党39号室」の幹部を務めた李正浩(イ・ジョンホ)氏のインタビュー記事を、2年前に「文藝春秋」が掲載している。そこで、当時の状況を李正浩氏は克明に証言している。

 李氏は先代の金正日氏から「首相より仕事ができる」と絶賛された人物だった。だが、張成沢(チャン・ソンテク)氏ら多くの幹部が残忍な方法で処刑されたことにショックを受け韓国に亡命。現在はワシントンで米政府の諮問役を務めている。

 同氏はインタビューの中で、核開発に決定的な役割を果たしたのは、韓国の秘密資金だと断言している。

 氏によれば、「苦難の行軍」当時、北朝鮮では軍の車両をただの一台も動かすことができないほど窮乏しており、軍工場まで閉鎖されるという悲惨な状況だった。

 ところが1998年に金大中政権が発足すると状況が一変した。資金が底をついていた39号室に韓国からカネが流れ込んできた。

韓国の人道支援は国民より金正日氏を救った

 当時、金正日総書記が「われわれの資金が底をついてことを米国や南朝鮮が知ったら、攻め込んできたはずだ。本当に考えただけでも恐ろしい。われわれを守るためには核を作ることに集中しなければならない」とこっそり打ち明けたという。韓国から最終的には合計で39億ドルもの秘密資金が北朝鮮に流れた。

 韓国から入ったお金で、軍需工業部はみるみる息を吹き返した。さらにコメなどの援助物資もすべて軍隊に送られた。結果的に、韓国の資金によって北朝鮮の核は作られたという。

 故金大中大統領(当時)は、側近の朴智元(パク・チウォン)文化観光部長官を密使として北朝鮮に派遣し、2000年6月の南北首脳会談の段取りをつけさせた。朴氏は北朝鮮アジア太平洋平和委員会副委員長と会談、首脳会談の際に5億ドル、その後2000年6月から3年間、25億ドル規模の投資及び経済協力借款を提供するとの合意を行った。当時の北朝鮮の貿易額が30億ドル程度、破格の資金供与だった。

 結局その資金は、飢饉に苦しむ北朝鮮国民の救済には使われず、核・ミサイル開発と軍部に集中的に流れていった。こうして北朝鮮は、いまは韓国や日本はもちろん、アメリカ本土までを射程に収める弾道ミサイルを保持するまでになった。

 こうした過ちは、二度と繰り返してはいけない。北朝鮮国民に向けた人道援助が金正恩氏だけを利することは絶対に避けなければならない。

核ミサイル開発が招く国民生活の窮乏

 昨年4月8日北朝鮮金正恩総書記は第6回労働党の末端組織の責任者会議で「人民の苦労を少しでも減らすため」に「さらに厳しい『苦難の行軍』を実行すると決心した」と述べた。

 金正恩総書記は1990年代の状況と21年の状況を重ねて発言したとみられる。会議が始まった6日にも、国は「過去最悪の状況」「前例がないほど多数の課題」に直面したと発言した。

 しかし、こうした国民生活の窮乏を招いたのは、北朝鮮核ミサイル開発だ。これによって国際社会が北朝鮮に対する経済制裁が強化された。また現実を無視したコロナ対策、金氏一族崇拝のための行事も原因である。

 まず、核ミサイル開発に対する国際社会の経済制裁の影響で、北朝鮮コロナ禍前でも1000万人が食料不足の状況にあったという。

 そこにコロナ禍が襲ってきた。北朝鮮は世界的に感染が拡大する中で、この2年間、「新型コロナ感染症清浄地域」と主張してきた。この間は国境の封鎖によってコロナウイルスの流入を防いできたが、各国のようにワクチンの接種や大規模なPCR検査は行わなかった。また、感染症対策としての医療体制も脆弱なままであった。

 北朝鮮の貿易の9割は中朝貿易であるが、感染対策のため中朝国境を封鎖した。これにより頼みの中朝貿易額は、2014年の76億ドルから昨年は3億ドルに急減した。

「建国以来の大動乱」も人災

 中国との国境が封鎖され、国民の困窮度が高まった北朝鮮では、中朝間の密貿易が横行するようになる。今年1~4月には一時再開された中朝貨物列車の運行も一時再開された。

 だがこうした中国との往来の再開は、新型コロナウイルスをも北朝鮮にもたらすになった。

 感染が特に広がったのは今年4月以降だ。感染拡大の原因と見られているのは、タイミング的に考えてもこの時期に行われた大規模な政治行事である。金日成主席生誕110周年(4月15日)や抗日パルチザン結成90周年(4月25日)などの記念日には、パレード・舞踏会・体育大会・人民芸術祝典・閲兵式が行われ、各種行事に人民数百万人動員された。

 金正恩総書記も事態を重くとらえているようだ。

 今月13日、朝鮮中央通信は、12日に金総書記が国家非常防疫司令部を訪問したことを伝え、「4月末から原因不明の熱病が全国的な範囲で爆発的に感染拡大され、短い期間に35万人余りの発熱者が発生した」と報じた。この時点での一日の感染者は、1万8000人ほどであったが、その後も急速に拡大、13日には17万4000人と増え、16日午後6時基準では4月末からの累計発熱者は1483060人となった。

 この状況に対し金総書記は「全国のすべての道・市・郡が自分の地域を封じ込め、住民の便宜を最大に保障しつつ事業単位・生産単位・居住単位別に『隔閉』措置を取る事業が重要だ」「主動的に地域を封じ込めて有熱者などを隔離措置し、治療に責任をもって行って感染空間を遮断することが急務」と強調したという。

 金総書記は「建国以来の大動乱と言える」としながらも、「強い組織力と統制力を維持して防疫闘争を強化していけば危機を克服できる」と封鎖による対応を再度求めた。

 他方、金総書記の特別命令で、16日からは医薬品普及のため人民軍が投入された。この措置について中央日報は「防疫網が崩れて死亡者が続出する中、遅れた医薬品の普及も党の愛民行為として包装し、内部の結束に余念がないということだ。これは現在の新型コロナ危機を独自の力で克服するという意志の表現」と報じている。

尹錫悦政権の人道支援呼びかけに北は応じず

 この北朝鮮の人道危機に対し、韓国の尹錫悦大統領も、ただ黙ってみているわけにはいかなくなった。北朝鮮新型コロナ対策として人道支援の用意があり、北朝鮮政府と協議していく意向を明らかにしたのだ。

 尹錫悦氏は、選挙期間中、北朝鮮に強硬な姿勢を取り続けてきたが、大統領になって現実的な対応に変わりつつあるように思われる。尹大統領としては同胞である北朝鮮住民の人道的苦難に対して、支援しないという選択肢はないのだろう。

 尹錫悦大統領は16日、国会で第2次補正予算案に関する施政方針演説を行い、「北の当局が応じるなら、新型コロナウイルスワクチンを含む医薬品、医療器具、保険関係者など必要な支援を惜しまないと述べた。

 これを受けて統一部は16日、南北共同連絡事務所を通じて権寧世(クォン・ヨンセ)統一部長官名義の通知文を北朝鮮の金英哲(キム・ヨンチョル)統一戦線部長宛送ろうとした。しかし、北朝鮮は17日午前になっても韓国政府の新型コロナ支援のための実務接触提案に応答していない。

 その一方で16日、北朝鮮航空機3機が中国・瀋陽から大量の医薬品北朝鮮へ輸送したことが判明した。北朝鮮は中国に医薬品の支援を要請したという。

 これについて中央日報は、「一部では北朝鮮が中国などを通じた必須医薬品の供給などで乗り越えようとしているという見方が出ている。外部の支援が劣悪な内部のインフラの露出や民心の動揺という副作用につながることを懸念している」と報じている。

金正恩氏が重視するのは国民の健康・福祉よりも「政権の維持」

 尹錫悦大統領は前述の施政方針演説で、朝鮮半島情勢に関し「われわれの安保の現実はさらに厳しくなっている」としながら、「形式的な平和ではなく、北の非核化プロセスと南北間の信頼構築が好循環する持続可能な経路を作らなければならない」と力説した。

 しかし、北朝鮮当局は相変わらず、国民の福祉より政権の維持、そのための核ミサイルの開発を重視していることに疑いの余地はない。北朝鮮の指導部が真に自国の国民の健康と福祉を考えるならば、同じ朝鮮民族である韓国の人道支援を受け取らない理由はないはずだ。

 そこで問題となるのが、核実験の再開である。金正恩総書記が、国民の生命、安全を重視するならば、核実験は控えるだろう。しかし、国民の辛苦を無視して核ミサイル開発を続けてきた北朝鮮である。核実験の可能性を過小評価できない。

 なにしろ北朝鮮は12日夕方にも、弾道ミサイル3発を日本海に向けて発射した。飛行距離は360キロ、高度は90キロで速度はマッハ5が探知された。これは7日の潜水艦発射弾道ミサイルSLBM)発射以来5日ぶりであり、今年に入って実に16回目のミサイル発射である。

 尹錫悦大統領は、「国の安全保障と人道支援は別」との立場である。しかし、これまで北朝鮮に対して実施した人道支援は、真に必要としている人には届かず、支配階層と軍にしか届いていない。もしも北朝鮮に人道支援を行う場合には、それが必要とする人にいきわたることを確保し、検証する必要がある。しかも、それを実現するためには金正恩氏にその覚悟を決めてもらう必要がある。

 それを確認する上で、大きな要素となるのが、北朝鮮核実験とICBMの発射である。とくにICBMについては、発射が「差し迫っている」と報じられている。こうした金正恩氏の態度を見ていると、国民のために核実験やICBM発射において譲歩する意志は感じられない。

 韓国には、北朝鮮への人道支援を急ぐあまり、金大中氏の過ちを繰り返さないよう切に願う。

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