ドイツのメルケル元首相がスゴい理由は? コロナ禍でも注目された女性政治家に見る“次世代リーダー像”のあり方とは から続く

「公平性」が重要視されているはずのスポーツの世界。しかし、性別や人種という観点から見たときに、果たしてその公平性は守られているのだろうか。世界最大規模のスポーツイベントであるオリンピックではどうだろう。

 ここでは、フェミニズム研究者の清水晶子さんによる「VOGUEオンライン」の連載「VOGUEと学ぶフェミニズム」を書籍化した『フェミニズムってなんですか?』から一部を抜粋。

 スポーツジェンダー・セクシュアリティを専門に研究している、関西大学文学部准教授・井谷聡子さんとの対談を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

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 1896年にアテネで開催された近代オリンピック第1回は男性選手のみで行われた。それから125年あまり。トランスジェンダーの選手の存在などが、公平性や平等の理念に議論を投げかけている。コロナ禍で開催された東京五輪を前にした2021年7月に、スポーツジェンダー研究が専門の井谷聡子さんとともに、スポーツジェンダーの根深い問題を考える。

オリンピックが“平和の祭典”ではなかった理由。

 清水 東京2020オリンピックパラリンピック新型コロナウイルスの感染拡大を懸念されながらも、1年遅れで開催されます。スポーツイベントとしては世界最大規模であるオリンピックですが、感染症の拡がりの中での強引な開催には、かなりの批判が集まっています。けれども、ただ単に感染症だからダメだというだけではなく、オリンピックそのもののあり方について考え直すべきではないのか。

 今回はそのような切り口で、近著『〈体育会系女子〉のポリティクス─身体・ジェンダー・セクシュアリティ』(関西大学出版部)も話題で、「スポーツジェンダー」を研究テーマにしていらっしゃる井谷さんに、オリンピックそれ自体についてお話しいただきます。

 また、女性の競技への参加資格をめぐり、スポーツとセクシズム(性差別)や人種差別との関わりをあらためて問い直す声も高まっていますので、その辺も伺えれば嬉しいです。まずは直近のオリンピックについての井谷さんのご見解から、お聞きしてもいいでしょうか。

 井谷 そもそもスポーツが公平な場であるとか、オリンピックが平和をもたらす祭典だということは、オリンピックというブランド維持のために宣伝されていることであり、事実とはまったく異なっています。近代オリンピックの父と称されるピエール・ド・クーベルタンはバロン(男爵)の爵位にこだわるなど、社会にある差別構造について批判的な人物とは言えません。そして彼はオリンピックを、“世界の中心となるべき欧州エリート層の男性たちを教育するツール”と位置づけていました。

 1896年にアテネで開催された第1回オリンピック大会に参加したのは当時の大英帝国フランスといったヨーロッパの「列強」と言われた国々で、選手は男性に限定されています。競技種目の多くはヨーロッパエリート層が嗜(たしな)んでいたスポーツです。大会の組織やルールづくりは、こういったスポーツが上流階級層で盛んだった欧米諸国が主に担いました。

 欧州の上流階級で発達したスポーツ文化を広めることが文明化であるという考え方は、帝国主義的、植民地主義的、階級差別的です。近代に五輪を「復活」させるという発想の根底には、こういったイデオロギーがあったのです。19世紀末の世界を支配していた差別の構造を、ある意味で強化するような祭典だったといえるのではないでしょうか。

なぜ、女子オリンピックは一度のみしか開催されなかったのか。

 清水 それがいまや参加国数200を超えるメガイベントに拡大しました。最近オリンピックのあり方に疑問の声が多く上がっていますが、始まりの差別的構造を内包したまま、これほどまでに規模が大きくなりすぎたことがその根底にあるのでしょうか?

 井谷 本格的な商業化の契機となったのは1984年ロサンゼルス大会です。76年のモントリオール五輪が市に巨額の負債を残したことを知ったロサンゼルスの人々が、84年の大会で公的資金の使用を拒否したため、スポンサー制度を導入することになりました。また、86年にはプロの選手も出場できるようにルールが変更されました。プロ選手の参加でエンターテインメント性が高まり、放映権料やスポンサー料もどんどん値上がりし、大会規模もさらに拡大していきました。 

 ところで、商業主義がオリンピックの精神を歪(ゆが)めたから、オリンピック憲章に基づいたアマチュア主義に回帰すべきだと主張する研究者は多いのですが、プロ選手の参加が許されなかった時代には、スポーツに専念できたアマチュア選手の多くは富裕層出身であるか、国がスポンサーとなり生活を支えていました。80年代以前のオリンピックは富める者の大会であったという見方もできるわけです。 

 商業主義によって肥大化したことは問題を大きくしていますが、今なお、欧米の白人男性の身体文化をベースとした体質とイデオロギーを引きずっていることにこそ、オリンピックの根深い問題があるのではないかと感じます。

 清水 1900年の第2回パリ大会からは、女性も参加しますね。クーベルタンは女性の参加はオリンピックの品位を下げると最後まで反対していたと聞いていますが……。

 井谷 当時はオリンピック開催地の組織委員会に種目や参加者を決める権限が与えられていました。パリ大会で女性選手が参加したのは、テニス、馬術、ゴルフと男女ミックスでのセーリングなどです。いずれも上流階級が楽しんでいたスポーツであり、当時の欧米の上中流階級の女性の装いからかけはなれない服装でプレイができる種目ばかりでした。

 その後、女子競技の数はなかなか増えず、それに不満を持ったフランスフェミニストで国際女子スポーツ連盟を組織したアリスミリアが、1922年に陸上競技なども含めた「国際女子オリンピック大会」をパリで開催します。

 出場を希望する選手も多く大成功を収めましたが、予想以上の人気を博したこともあり、女子だけのスポーツ大会に、「オリンピック」の名称を使用することをIOCが許さず、26年第2回大会からは「国際女子競技大会」という名になります。オリンピックの名称を外す条件としてミリアが出したのが、28年アムステルダムオリンピックにおいて陸上競技への女子の出場を認めることでした。

 余談ですが、82年にスタートし、4年に一度開かれているゲイやレズビアンのための国際競技大会であるゲイ・ゲームスも当初はゲイ・オリンピックという名称を使う予定が、IOCが使用を許可しなかったという経緯があります。「数学オリンピック」はOKなのに、女とゲイはオリンピックを名乗る資格がないということなのでしょうか。

女性のモビリティを上げたくない。なぜなら……。

 清水 アムステルダム大会の陸上競技においても、女性が参加できる種目は限られていたそうですが、その理由とは?

 井谷 「女性の身体は激しい運動に耐えられない、特に女性の生殖にかかわる臓器の機能を損なう」というのが当時の「医学的」見解でもあったのですが、激しく競い合うことは女性的でない、という欧米エリートたちのジェンダー感によるところも大きかったでしょう。

 800メートル走も女性の身体には負担が大きすぎると考えられていました。アムステルダム大会で800メートルを走った女性たちが次々とゴールで倒れ込んだことから、1960年大会まで800メートルは女子種目から外されました。マラソンに至っては、オリンピックで初めて女性が走ったのは84年です。女性の間で自転車が流行した際も、女性が自転車に乗ることの副作用まことしやかに唱えられるなど、女性がより速く、強く、“動き出す”ことへ警戒心を抱いていたことがうかがえます。

 また、一部の競技にしか女性の参加を認めなかった背景には、オリンピックが欧米白人男性の身体的優位を示すための場であった、ということもあります。バスケットボールなど、非白人女性の間で人気の高かったスポーツは、オリンピックスポーツとしての採用に時間がかかっています。その意味では、1928年の段階で黒人女性も多く取り組んでいた女子陸上をIOCに認めさせたミリアの功績は大きいですね。

 男性の、そして民族としての身体的優位が国家としての強さと結びつけられて喧伝された大会といえば、1936年ベルリン大会が有名です。当初ヒトラー1933年にドイツ首相に就任)は、ドイツ人がなぜ有色人種と競わねばならないのかとオリンピックの開催を渋っていたのですが、「アーリア民族の人種的優位を示すのにふさわしい国同士の対抗戦」だと考えを改め、「男の中の男を見せつけよう」と開催に踏み切ったと言われています。

 アマチュアリズムに熱烈にこだわったIOCの五代目会長アヴェリー・ブランデージは性差別主義者、人種差別主義者として知られ、36年の「ナチス五輪」の成功を下支えした人物です。IOCの七代目会長で、オリンピックの商業化に大きく舵を切ったフアンアントニオ・サマランチもまた、スペイン独裁者フランコを支持し、スペインファシスト党員でもありました。

 清水 近代オリンピックはその起源から階級主義、セクシズム、そして人種主義を抱え込んでいた、ということですね。特に、「男の中の男」の例でよくわかるのは、そもそもその3つが分かちがたいこと、つまり「男の中の男」は特定の階級、特定の人種・民族の男性として想定されており、階級が違っても、人種・民族が違っても、もちろん性別が違っても、「男の中の男」の下に置かれる存在とみなされる、ということです。

 例えばオリンピックのモットーには「より速く、より高く、より強く」とありますが、人間の身体の動きや機能のどの部分に注目するかというときに「速く、高く、強く」が想定されること自体、特定の男性身体に期待される動きに特化した基準のようにも思います。

 井谷 オリンピックは種目の選定からしジェンダー化(ジェンダーの区別がなかったものに対して、社会的バイアスがかかる現象)されていると私は考えています。「より速く、より高く、より強く」というモットーは、男らしさと結び付けられるパワーや筋力を強調したものになっています。

 また、人類が身体的にどれほど進化していけるかを世界の進化と重ね合わせる、という近代の夢と価値観が表れてもいるのですが、「未来」や「自然の克服」は、しばしば男性身体と結び付けられ、「伝統」や「自然」は女性身体に結びつけられます。また前者は白人に、後者は非白人にも結びつけられてきました。

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 本書は「VOGUEオンライン」で連載している「VOGUEと学ぶフェミニズム」の書籍化です。

 この対談の続きは本日発売の清水晶子さんの著書『フェミニズムってなんですか?』(文春新書)に掲載されています。

(清水 晶子/文春新書)

井谷聡子さん 1982年生まれ。2015年トロント大学博士課程を修了。関西大学文学部准教授。専門はスポーツとジェンダー・セクシュアリティ研究。