2022年1月、東京電力福島第一原発事故当時、福島県内に住んでいた当時6歳から16歳甲状腺がんに罹患した子どもたちが原告となり、甲状腺がんは原発事故の影響だとして、因果関係を明らかにするよう、東京電力を提訴した。

事故後11年を経て初めて、放射線被ばくの影響について東京電力を訴える集団訴訟となる。

原告全員が甲状腺の摘出手術をし、6人のうち4人は再発。2度以上の手術を受け、甲状腺を全摘した4人は、ホルモン剤を一生飲み続けなくてはならない。また、肺への遠隔転移を指摘されている子どももいる。

原告の1人は、「この11年、誰にも言えずに苦しんできた」と明かした。5月26日の第1回期日を前に話を聞いた。(ライター・吉田千亜)

●被ばくする可能性がある中での合格発表

向井紗和さん(事故当時15歳・仮名)は、運動が好きな子どもだった。2011年3月11日、中学3年生の卒業式の日に被災。地震直後に吹雪になり、その後、急に晴れた空が不気味だったと思い返す。

翌日は、地震で全壊した親戚の家の片付けを手伝っていた。その親戚の家の前の道路が、西の方角に向かう車で渋滞していた。

「普段は交通量が多くない道なので不思議でしたが、あとから考えたら原発から避難していた車でした」(向井さん)

3月12日福島第一原発1号機が爆発。14日に同3号機が爆発、同2号機が危機的状況に陥り、15日には4号機も爆発した。

その翌日の3月16日は、福島の高校の合格発表があった。県内の多くの中学3年生が、自分の番号を確認するために受験した高校へと出かけた。

子どもたちが被ばくする可能性がある中での合格発表には反対した教職員も多かったが、県は決行。向井さんは、その合格発表に行かざるを得なかった1人だ。

原告側の弁護団長を務める井戸謙一弁護士は、「事故当時、被ばく防護できなかった小学生や中学生が被ばくしてしまい、罹患に至ったのではないか」と指摘する。

「クラブ活動を通常通り行なっていた話や、3月16日の県立高校合格発表に出かけてしまった話もよく聞く。政府は、原発事故による健康被害はないと決めつけているが、決してそうではない」(井戸弁護士)

●基準値超えの線量率でも「ま、いっか」

高校生活の中にも、被ばくのリスクは潜んでいた。

運動が好きだった向井さんだが、入部しようと思っていた屋外競技の部活を諦めた。できるだけ被ばくをしないよう、母親が心配していたからだ。

校内のホットスポット(放射線量が局所的に高くなった場所)には注意喚起のためのポールが置かれていたものの、慣れてくると、その近くをみんなが通過するようになった。

内部被ばくを避けるためのマスクも、次第に誰も付けなくなる。向井さんは最後までマスクをつけていたが、2011年の夏には、暑くて外すようになった。

当時、学校の校庭については、空間線量率が「毎時3.8μSv以下」の場合のみ利用するという文部科学省の基準があったが、「超えてる。ま、いっか」と教師が話していたのを聞いたこともあった。

自宅の放射線量も高かった。測定器を購入して測ると、事故前の100倍以上の放射線量が計測される場所もあった。室内でも事故前の60倍以上の数値。家族が高圧洗浄機で除染したが、それほど下がらなかった。

向井さんは、運動部に入れなかった分、学業に力を入れ、東京の大学を目指していた。その甲斐あって、晴れて推薦で合格。「嬉しくて、一足先に(大学入学前の)3月初旬から東京生活を始めていました」と笑顔を見せる。

●忘れられない医師の言葉「原発事故と因果関係はない」

東京には遊ぶところもたくさんあり、アルバイトも始め、新生活は楽しかった。

しかし、その頃から、体調に異変が起き始める。体がむくみ、生理不順、体重の増加、肌荒れ。そして、水や唾液を飲み込むと喉に違和感があった。

母親に相談すると「甲状腺系の病状かもしれないから、早めに検査しよう」と言われた。大学の授業などで忙しかった向井さんは、福島県が行う甲状腺検査の2回目を受けそびれていた。

ほどなくして、福島県内での甲状腺検査の大規模会場で、向井さんは他の子どもたちと一緒に受検。他の人は1分ほどで終わる検査だったが、向井さんのところで、流れが止まってしまう。

エコーをあてながら、医師が首をかしげるのを見て、「何かあったのかな」と向井さんは感じていた。

その後、結果が実家に届き、母親から「再検査」の連絡が東京の向井さんに入る。福島県立医大からは2回も電話がかかり、「すぐに再検査をしてほしい」と言われた。向井さんもその頃には「自分は甲状腺がんかもしれない」と薄々感じていたという。

2015年の秋、病院で甲状腺がんだと告げられた。この時、何も質問していないのに、「原発事故と因果関係はない」と医師に言われたことが向井さんは忘れられない。

「どうしてわかるのだろう、と思いました」(向井さん)

その後、甲状腺の左半分を切除する手術を受けた。20歳だった。

●「他の苦しい人たちが声を上げられる状況になってほしい」

体調を考慮し、楽しく働いていたアルバイトを辞めた。

大学卒業後は就職したものの、激務で体調が悪化。せっかく就いた憧れの仕事も辞め、今は身体に負担の少ない仕事をしている。

数値が悪くなれば、服薬も再開しなくてはならず、常に体調を気にしながら生活をしている。

「私もいろいろなことを諦めていたけれど、私より年齢の低い他の原告の中には、もっとたくさんの諦めるという選択をせざるを得なかった人がいるんです」(向井さん)

大学を退学した人。就職ができない人。恋愛も結婚も諦め、人を好きになることも考えられないと打ち明けてくれた人もいた。どれもショックだった。

自らの経験を語りながら、向井さんは他の原告や原告ではない甲状腺がんに罹患した人のことをおもんぱかる。

「他の小さい子どもたちが声を上げられない状況があります。今回、私たちが声を上げることで、他の苦しんでいる人たちが声を上げられる状況になってほしい」(向井さん)

小児甲状腺がんの発症は、一般に「100万人に1~2人」と言われている。

しかし、福島県では、県の調査において、穿刺細胞診で悪性疑い(がん)と診断された273人、すでに手術をおこなった人が226人いる。全国がん登録、地域がん登録等を合わせると300人以上が甲状腺がんと診断されている。

前出の井戸弁護士も、「今の福島県では、甲状腺がんに罹患したことは、センシティブな問題として口にできず、孤立してしまう状況がある」と語る。

向井さんも、これまで自分が甲状腺がんになったことは周囲の親しい人にしか話せずにいた。しかし、提訴することをきっかけに変化したこともあった。クラウドファンディングで裁判の支援を呼びかけた結果、目標金額の1000万円を大幅に上回る約1762万円もの支援が集まったのだ。

「1966人もの方がこの裁判に寄付をして、応援メッセージを寄せてくれたことが、すごく嬉しかった。他の原告も喜んでいました」(向井さん)

差別されるのではないか、理解されないのではないか、という不安が少し和らいだ。

しかしその一方で、提訴同日、小泉純一郎氏、菅直人氏ら首相経験者5人が、「多くの子どもたちが甲状腺がんに苦しんでいる」という書簡を欧州連合(EU)の執行機関・欧州委員会に送ったことに対し、現職の国会議員や内堀雅雄福島県知事が「誤った情報」「不適切」「遺憾」などと抗議をした。

甲状腺がんになった子どもたちがいることをわかっていても、そのような発言をするのだなという驚きと、憤りの気持ちがあります。他の原告の方の、本当に苦しんでいる姿を見ているからこそ、その発言はどうしても許しがたい発言でした」(向井さん)

この裁判は簡単にはいかないのだと感じた向井さんは、専門家の勉強会に参加したり、訴状を読んだりしながら、原発事故甲状腺がんの因果関係を考え続けている。

「原告の中にも、精神的に苦しくてご飯が食べられない人もいて、どうにかしなくては、という思いが強まりました。

私は、(事故と甲状腺がんの)因果関係はあると思っています。1人の力ではかなわないけれど、原告や弁護団と協力しながら、裁判を闘っていきたいです」(向井さん)

第1回口頭弁論期日は、東京地裁で5月26日14時からおこなわれる。原告による陳述も予定されている。

甲状腺がん裁判の原告・弁護団らは、クラウドファンディングサービス「READYFOR」で裁判の継続支援を募っている 。

【筆者プロフィール】吉田 千亜(よしだ ちあ):フリーライター。福島第一原発事故後、被害者・避難者の取材を続ける。著書に『ルポ母子避難』(岩波新書)、『その後の福島──原発事故後を生きる人々』(人文書院)、『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)、共著『原発避難白書』(人文書院)。

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