倉本聰さんが「貧幸時代」の実践例とアイデア投稿を大募集! から続く

 浪費とはおさらば。子孫のため地球を洗い直す――。脚本家・倉本聰さんによる提言「老人よ、電気を消して『貧幸』に戻ろう!」(月刊「文藝春秋2022年6月号に掲載)が新聞で取り上げられるなど話題になっています。編集部には「貧幸を実践している」という読者からお便りやメールが続々と届いています。

 さらに多くの方に倉本さんの提言を知っていただくために、特別に同記事を全文転載します。

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日本列島は「恥ずかしい程の光の洪水」

 目前に迫った環境危機に対し、日本の危機意識はどうかしている。世界各国が目を醒まし始めたのに、この極東の、何の資源もない島国だけが、他人事のように平和呆けして豊饒の中でのんびり眠っている。

 世界の人々の目を醒まさせたのは、当時18歳スウェーデンの少女グレタ・トゥンベリさんという若い活動家である。そして日本でも漸く若者たちが危機感をもって声を上げ始めた。だが肝腎の日本政府は若者たちの声に耳を貸そうとしない。我々の乗っている地球の危機がすぐ目前に迫っているというのに、今日の経済、明日の景気ばかり考えて目の見えなくなっているこの国の「大人」は一向眠りから醒める気配がない。果してこんなことで良いのだろうか。

 老人諸氏に一つの提案がある。

 眠り呆けている壮年は放っといて、朝早くから目の醒めてしまう老人たちへの提案である。若者たちに応えてやろうではないか。声を上げ始めた若者たちに、賛意の旗を振ってやろうではないか。一緒に声を上げようではないか!

 実際問題我々老人には、こゝ何十年地球を痛めつけ、こゝまでの環境危機を招いてしまったその犯人たる責任がある。古いアメリカ先住民の言葉に「地球は子孫から借りているもの」というものがあるが、我々老人はその大切な借り物を、汚し、傷つけ、めちゃくちゃにしてしまった。それをそのまゝ子孫に渡すことは大いなる恥だと考えねばいけない。我々には贖罪する義務がある。それを老後の、最後の我々の仕事にしないか。

 NASAが宇宙衛星から撮った夜の地球の写真がある。この写真を見ると愕然とする。地球の陸地の大部分は暗黒だが、わずかに都市部だけが光り輝いている。北朝鮮は全き闇である。それに対して日本列島。恥ずかしい程の光の洪水である。列島全てが輝いてしまっている。

 僕は現在87歳。77年前、生きて暮していた敗戦直後の日本列島は、宇宙から見たなら恐らく今の北朝鮮と同じ漆黒の闇に包まれていたにちがいない。60年前、1960年前後はどうだったか。まだまだ光量は少なかっただろう。50年前、1970年代。今程の光はなかったにちがいない。

 50年前あなたはいくつだったか。20代だったか、30代だったか。少なくともあなたはその時代を生き、その時代の光量が当り前だった筈だ。その光量の中であなたは恋をし、家庭を持ち、倖せの中で自立して行った筈だ。

 その時代に帰るのはいやですか?

 耐えられないと思いますか?

習慣化した「チリ」を点検し直す

 カーボンニュートラルだ、グレートリセットだ。今識者たちの考える環境対策への思考の方角は、いかに新しい技術をもって新しいエネルギーを生み出すか、その方向へのみ向けられている気がしてならない。使うエネルギーを減らす方法を、誰か真剣に模索しているのだろうか。

 人類は全ての動物と同じく、元々自分の体内のエネルギーだけで生きてきた。脳が肥大化してサボルことをおぼえた。自分の体内のエネルギー消費をおさえること。その為に家畜を使い奴隷を使い、産業革命以来それが化石燃料に替った。5メートル歩けばテレビボタンを押せるのに5メートル歩くエネルギーを節約しようとリモコンというものを発明した。そうしたサボリのことを「便利」と呼んだ。そして今筋肉を使わなくなり、それを補う為に何の生産性もなく重いものを上げたり下げたり、或いは何処にも行きつかない自転車のペダルを真剣な顔で漕いだりしている。

 人がサボルことは代替エネルギーを使うことだ。そしてその小さな代替エネルギーの蓄積が地球の環境をおかしくしている。チリもつもれば山となるという言葉があるが、我々は連日そのチリを、罪悪感なくつもらせている。待機電力、スマホテレビ、車、コンビニウォシュレットネオン。麻痺し習慣化したそれらのチリの存在を、我々は今点検し直す必要がある。点検し、洗い直し、それらを取り除く作業が必要である。

 そこで老人の出番を考える。

 老人の世代は若者世代とちがい、そうしたチリがなかった時代を経験している。勿論一度手にした便利なものを捨てるというのは至難の業だろう。だが今それをしなければ、我々の乗る船は沈没してしまうか破壊してしまうかもはや手おくれの瀬戸際に来ているのだ。今手を染めなければ人類は潰滅する。だから夫々(それぞれ)に手を染めようではないか。地球が子孫からの借り物である以上、その借り物を傷のない形に、可能な限り原型に近い美しい形に洗い磨いて若い世代に渡そうではないか。

 云うは易しで行うは難しだと現行世代は云うにちがいない。そんなことはない。そんなことは決してない。

 小さな常態という今のチリを排除し、少し時代を戻せば良いのだ。チリの是か否を検証し直しバック・トゥ・パースト、過去へ戻すのだ。

不要不急の他愛もないことが経済を動かしている

 たとえばおたくではいくつの電灯を毎日何時間つけているだろう。

 たとえばあなたの御家族は、何台のスマホを何時間使っているだろう。どの位テレビを見ているだろう。テレビの待機電力はどの位の時間浪費されているだろう。大体テレビはこんなに多くのチャンネルが何故24時間放送を続けているのだろう。

 盛り場のネオンは何故あそこまで光り輝かねばならないのだろう。

 お偉いさんはどうして公共交通機関を使わず自家用車にふんぞり返るのだろう。

 夜は本来闇の筈なのに日本の夜はどうしてこんなに明るいのだろう。

 明るさというのはサービスなのだろうか。

 スピードというのはサービスなのだろうか。

 そのサービスは人が生きる上で必要不可欠のものなのだろうか。

 考え始めるときりがない。今の社会は不要不急の他愛もないことが経済を動かし景気をあおり温暖化ガスを排出して地球を危険にさらそうとしている。政治は温暖化を防ごうとして科学技術を使おうと必死だが、肝腎かなめの我々の行動、次々に発明される新しいツール不要不急な便利さを生み、それが環境に果たして負荷をかけていないかを、チェックもしないし取締ろうともしない。そのことを今我々老人が、自責をこめてチェックすること。チェックしそれを行動で示すこと。それが我々老人世代の、なすべき老後の仕事ではないかと僕は真剣に考えている。

 くり返すが我々老人世代は環境危機に責任がある。同時に我々は質素だった昔を経験して来た世代でもある。

 今若者が上げ始めた声に、我々老人は応じるべき義務と責任がある。

チェック

 とりあえず先ず身近なものからチェックしてみよう。それには「今昔ノート」というものをお作りになることをおすすめする。

 小さな日常の習慣について、今我々がどうやっているか、それを昔はどうやっていたか。その対比を1つずつノートに、自分で直接書き出し、それを一つずつ考えるという作業だ。

 書き出す、という作業は不思議な作業で、頭の中で考えているよりずっと整理がつき、しかも色々思い出すことが出来る。まずこの作業から着手してみよう。

ニュース

 ニュースを今あなたは、どういう手段で手に入れているだろうか。僕の場合は主にテレビである。それも、起きた事象だけを知らせてくれる、余計な解説のつかないものが良い。解説がつくとその解説者の色がつき、そいつが左翼か右翼か、そいつが若いか老けてるか、そいつが大学出か小学校出か、そいつが金持ちか貧乏人かなどで夫々のカラーがうっすらと塗られてそれに影響・洗脳されてしまうからである。それよりドスンと事実だけをつきつけられ、それへの判断は自分で出した方が良い。今のようにテレビが何チャンネルもあると夫々の報道は微妙に色がついている。太平洋戦爭の時の、報道が軍事色一色に彩色されてしまった時の国民の悲劇を考えてみるといゝ。

 ところで皆さんはこのテレビ全盛の時代にまだ新聞は新聞でちゃんと取っている。毎朝新聞をきちんと読んでいる。そういう愚挙をなさってはいまいか。

 テレビニュースと新聞のニュース

 つきつめれば同じ内容である。

 テレビでは巨人が優勝したが新聞報道では阪神が優勝。そういうことは絶対起こらない。にも拘らず、三十何頁、広告だらけの新聞というものを多くの世帯がまだ取っているのは、単に朝の慣習である。朝毎読それに日経と御丁寧に4紙もお取りになっている方は、永年しみついた朝の行事から脱出できない不幸な方である。第一購読料がもったいない。

 ケイタイ電話をお持ちのくせに、固定電話を手離せないでいる。その愚挙に似ている。

 お止めになることをおすすめする。

テレビ

 テレビが現われて凡そ70年。

 おたくテレビは何回買い換えたか。

 ブラウン管型の白黒から始まってカラーテレビ、待機電力付き、薄型、大型、ハイビジョン、2K、4K。

 録画機能に関してだって、ベータVHSDVDブルーレイ。国が規格にまで関わっているらしいがその度に我々は買い換えを余儀なくされ、今までの旧型を捨てなくちゃならない。その都度儲けるのは家電メーカー。これが経済戦略だというならワリを喰っているのは我々国民。「水戸黄門」の中身は変ってない。

 しかも不要になった旧型の機械はどの位地球のゴミになり、その処理費用とエネルギーに、一体いくらかゝったか。それは大体誰が出しているのか。その答えはどこにも発表されない。

暖冷房

 昔から地球には四季があり、夏は暑くて冬は寒かった。それを我々は様々な智恵で何とかのり切った。

 夏の暑さには打ち水、すだれ。虫の襲来には蚊とり線香、或いは蚊帳。

 冬の寒さには薪、炭、たどん。或いは厚着、重ね着、かいまき、こたつ、かいろ。

 何よりそれに耐える肉体。がまん。

 それがどうしようもなくなってしまったのは、クーラーなるものが出現し、家の中だけを涼しくする為に外に熱気を放出し出してからだ。金持ちの家が涼しくなるとその邸の表には熱気が充満する。ビルの内側を涼しくすると周囲の街はどんどん熱くなる。我も我もと涼気を求める為に、ふと気がつけば地球高温化。温暖化などという生ぬるい言葉でごまかせないぐらい、地球は高熱の星になってしまった。

 温暖というのは広辞苑によれば「気温がほどよくあたたかで、過ごしやすい気候であること」とある。Global warming というこの横文字を「地球温暖化」と翻訳したのは、いきなりあんまり刺激的にならぬようにというどこかその筋の指示だったのか、或いは政府の深い陰謀か。

 こうなった以上我々老人はふんどし姿に立ち戻り、水風呂に入るか、うちわであおぐか、熱中症で死んだらそれはこゝまで我々を弱くした政府の責任。とにかくやせ我慢でのり切ろう。

あかり

 宇宙衛星から撮った夜の地球の眩しさについては前に述べた。今度は時代をぐんと戻して太平洋戦爭のころの夜の日本の姿を思い出してみよう。80歳から上の人には、はっきり記憶がある筈だ。

 灯火管制

 然り、あの時代の日本列島には、空襲に飛来するB29から見えないように、家の灯を最小限に抑えるように、どうしても必要な茶の間の灯には黒い布切れをかぶせて覆い、光を外へ洩らしてはならぬという、お上(かみ)からの厳しいお達しがあった。僕らはその仄かな光の中で一家つゝましく身を寄せ合って、めしを喰ったり歌をうたったり、それはそれで結構倖せを感じていた。暗がりの中ではおふくろ姉さん、それにしわだらけのお婆さんの顔までもが、白く輝いてきれいに見えた。

 蛍の光窓の雪。

 乏しい光量はあらゆるものを何とも美しく幻想的に見せる。

 何年か前から僕はしばしば、ローソクの灯だけで風呂に入る。するとかすかなローソクの炎がお湯の表面に妖しく反射し、えもいえぬ美しい情景へと変る。哀れに老けた己れの身体さえもが何となくなまめかしい光彩を放つのだ。

 光は闇と影を伴ってこそ、真の美しさを発揮する。僕らはあの頃の経験に倣って灯火管制の日を創ればいゝのじゃないか。

 しんと靜まった表参道に、ポツンポツンとローソクの灯。後は只闇。

 僕らが葬った幾多の戦爭犠牲者や、復興の為に尽くしてくれた先人達の魂を靜める為にも、そういう日があってもおかしくないと思う。

掃除

 通販が毎日かまびすしく、新型の掃除機に買い換えろと、テレビの中で叫んでいる。古い掃除機は下取りするから、と。

 掃除はいつから電力に頼ってなされるものと決ったのだろう。

 はたきはどこへ行ったのだろう。

 ほうきではく時床にまかれていた、使用ずみの茶ガラはどんな運命を辿っているのだろう。

 うちでは女房が使い終った茶ガラを、掃除の際にまだ撒いている。おふくろ婆さん新聞紙を千切って水に濕(しめ)し、それをたゝみにまいてゴミやほこりを集め、そうしてほうきで掃いていた。

 雑巾。

 使わなくなった下着やシャツを縫い直し、バケツの水にひたして絞り、床やたゝみを拭いていた雑巾。或いはテーブルの上を磨いていた台布巾。あれらの姿を見なくなった。

 一寸した汚れを拭くのにも、鼻をかむにもティッシュペーパーである。一度使ってすぐ捨てる。何か一寸した災害があるとスーパーの棚からティッシュペーパーが消える。

 紙をこれだけ使い捨てるということは、その原料たる木材を使うこと、即ちCO2を固定して酸素を出してくれる森の資源を、惜しげもなく毎日使い捨てているということである。いや、今のティッシュトイレットペーパーはパルプ由来のものではない。化学製品に依るものだというなら、その化学製品を作る為の燃料・エネルギー、それを作る為の化石燃料の濫用を企業はどのように説明するのだろう。

 我が家では何年か前から卓上の汚れを拭う為に布巾を使うように生活を変えた。布巾は汚れたらすぐ洗う。又使う。テーブルの上にいつもハンデタイプの清潔なタオルがきちんとたゝまれ、積まれている。醤油をこぼした時、鼻水の出た時、殆んどこれで済ます。紙を決して浪費することはしない。

 届いたファックスは女房が回収し、葉書2枚分程に全て切り揃えて1つの面に糊をつけてメモ用紙として使えるようにしてある。ふとした思いつきふとした報道、メモすべきことは山程あるから、それを使って毎日メモをとる。

 大体世の中はFAXで送られて来た紙の裏面を、殆んど白紙のまゝそのまゝ使わない。立派に使えるのにまことに勿体ない。

 わが家がこれを始めたのは数年前。今は亡くなった農民作家中島正翁と知合いになりその暮し方にショックを受けてからである。

 中島正翁は当時90数歳。「都市を滅ぼせ」という名著を書かれ、岐阜の下呂でまだ農業を営まれていた。素敵な笑顔の温厚な御老人だったが、御自宅のこたつでお話をおうかがいしている間、まず、お茶受けに出てくるものが菓子などではなく、全て御老妻の漬けられた漬け物であったことに感心した。それから文通が始まったのだが、翁の下さる手紙の封筒は、全て古いカレンダーを切ってその裏を使った手作りの封筒であり、手紙はチラシの裏に書かれていた。こうしたことは僕自身、紙の不足した戦中戦後の時期、よくやっていた方法だったが、あれから70余年が経過した平成の時代に、今猶かたくなにその方法を守っておられる翁の生活信念の強さに、しゃんと反省させられたものだ。以来僕も女房も己れの堕落と変貌を悔い、少なくともティッシュを濫費する暮しから、布巾を使い、洗って又使うという旧来の生活に戻ったのである。

 こうした回帰は簡単に出来る。

 暮しを少し以前に戻し、あの頃の生き方を取り戻せばいゝだけの話なのだから。

洗濯

 洗濯についても同じことが云える。

 昔はたらいに水を張り、洗濯板でごしごしこすっていた。あれで充分汚れはとれた。洗剤なるものが世に現われ、洗剤の広告がA社B社とテレビに毎日溢れてくると日本中がそれにとびついてしまって揚句川の水質を汚染する。シャンプー、化粧水も同様だが、それで人間が清潔になったかといえば、コロナは平気で人を汚している。

 それに乾燥。

 天日に干すのが一番なのに、電気乾燥機なる電力を浪費する一件が出来て国民がこぞってそれを購買し、余計な電力を消費している。更にニューモデルが発売されると、前のを捨てて新型にとびつく。捨てられた旧型がどうなっているのか、そんなこと誰も考えようとしない。

買物

 僕らは買物カゴを下げて買物に行った。

 豆腐などを買うには鍋を持って行った。

 醤油や酒を買うのにも、瓶を持って行き計り売りをしてもらった。

 大根は大根をそのまゝもらえば良いのだし、それが何かに包まれて渡されると、包み紙の始末に困るから返した。

 それが一体どういうことだ。

 大福を買ったら、食うまでの手続きが大変だ。まず箱を美々しく包んだ包装紙をはがす。箱と包装紙を(時には紐を)ゴミ箱に捨てる。仕切られた枡から大福をとり出すが、これにも一々包装紙がかゝっている。これを外してゴミ箱に入れる。プラスチックケースから恭々しく大福をとり出して喰う。喰いつゝプラスチックケースを捨てる。おまけに当地では紙のゴミとプラゴミを分けて出さねばならぬ決りだから、さっきとはちがうゴミ箱に入れる。この煩雑さ、わずらわしさは何だ。そのうち柿の種も一ケ一ケが包装紙に包まれて売られる世の中になるにちがいない。

 小さな親切、余計なお世話である。

 大体あの無駄な包み紙は一体何の為に存在するのか。包装紙代をさっぴいたら商品はもう少し安くなるんじゃないのか。

 水こそ空気と共に命を支える大事なものである。ところがこれ程水に恵まれ日本人は、水のありがたさに気がつかず、水を大事にすることを忘れている。

 かつて富良野塾を興した時、40人の塾生を養うのに最初に頭を悩ましたのが水のことだった。村の古老から、たしかあすこには明治から切れない湧き水があったぞと聞き、探し廻ったら崖の途中から噴き出している湧き水のあるのを発見した。水質調査をしてもらったら、上質の水。それも200人はたっぷり養える豊富な水であることが判ってホッと一安心。その水を使って暮しを始めた。ところが2年目にその水が涸れた。うちの水だけではない。近隣の井戸水が全部出なくなったのである。この理由をつきとめたところ、上流の森が開発によって広大に皆伐されていたことに起因していたことが後で判ったが、それは又別の話。仕方ないから8キロ程離れた別の集落に頼みこんでポリタンクで何回も水を運んだ。ところがである。夕方労働から帰って来た塾生たちが、やっと運んできたその水で体を洗い始めたから僕は怒った。塾地にはきれいな沢が流れている。体を洗うならどうして沢の水を使わないのだと云ったら、塾生共はキョトンとしていた。今の若者には上水と下水の区別が判らないのだ。蛇口をひねれば出てくる水は、同じ一種類の水になってしまうのだ。

 その事件のあったのが40年ほど前。

 それでもまだその頃は湧き水や井戸水、町では水道から出る水を飲むのが当り前だった。

 その頃水は殆んど只だった。しかしそのうちミネラルウォーターが売られるようになって日本人は水道の水を飲まなくなってしまった。コンビニで売られているミネラルウォーターは石油に匹敵する程高価なものになってしまった。それでも人はペットボトルの水を買い、その水で飯を焚く主婦まで出始めた。そしてそのボトルはプラゴミとして捨てられる。そのプラゴミの廃棄量は1日約683万本といわれ、世界では13億本。最後は海を汚染する。

 水の大元は雨である。

 雨水を森が貯め、それを通年下流に流す。今、都会で使う水は1人大体300~400リットル。東京の人口1300万とすれば、東京は1日52億リットルの水を使っている。これをまかなうのは利根川多摩川相模川の3河川。更にその元はそれらの川の上流に拡がる水源林である。だからこそ僕らは森を命の母と呼ぶ。

 そんなことすら日本人がもう忘れている。

 僕ら老人はそうしたことを若者、いや大人たちにもしっかり伝えて行く義務があるのではないか。

移動

 戦爭中は疎開先で、4キロの山道を学校まで歩いた。今はもう人間は歩かない。自転車に乗る。バイクに乗る。バスに乗る。車に乗る。

 電車に乗る。汽車に乗る。飛行機に乗る。歩かない。そのくせ健康の為だといってウォーキングをする。ジョギングをする。その為のシューズに金をかける。ジョギングスーツに金をかける。只歩いたり走ったりするのに何故金をかけるのか。よく判らない。そのくせ、金を払ってジムなどというものに入り、どこへも行きつかない自転車を漕いでいる。判らない。

 一昔前。僕の中学生のころには、東京から京都まで8時間かゝった。僕らはその8時間をのんびり窓外の景色を見てくつろぎ、駅弁を買い、海を見、のんびりした日本の田園風景を見、本を読み、まどろみ、哲学をしながら旅を楽しんだ。新幹線の出現でその旅の風情が消滅した。駅弁は買えない。各地の風は味わえない。通りすぎる駅の駅名すらも読みとれない。旅のくつろぎはなくなってしまった。松尾芭蕉新幹線に乗ったら、多分一句も生まれなかったろう。

 にも拘らずJRは、今度は東京から大阪まで1時間で行けるリニア新幹線なるものを作るといゝ、世の中はウハウハ興奮している。

 何が一体うれしいのだろう。

 日本の国土を切り刻み、地中に穴を掘り、水路(みち)をこわし、1時間スピードが上ったといったって、ウサイン・ボルトじゃあるまいし、何がそんなに目出度いのだろう。1時間浮いたその時間で人間は何をしようというのだろう。判らない。人類は只記録更新に夢中になり本来の目的を今や完全に見失ったかに見える。愚かである。

 リニアはきっとそのうち大事故を起こす。新幹線だって同じである。原発の安全神話が一度の地震で崩壊したように、きっとそのうち何か起こる。その時リニアの企画者たちは、全財産を投げうって責任とる気があるのだろうか。

 我々老人は足腰が衰えている。

 歩くスピードがおそくなっている。

 我々はそのことをしっかり思い出し、生き急ぐことよりのんびり生きることを、真剣かつ真面目に考えるべきである。少なくともスピードアップすることを、文明の進歩だなどと思ってはいけない。

 今、排ガスを規制する為に、ガソリン車から電気自動車、水素自動車への転換が、世上かまびすしく叫ばれている。

 だがもしこれらが実行されるなら、今まで使っていた車たちは一体どこへ消えるのか。それらは資源として再生されるのか。再生する為に一体どの位の化石燃料が使用されるのか。再生されないなら、或いは再生し切れない部分は、どこに、どのように廃棄されるのか。それは汚染を加速させないのか。

 大体法定速度120キロがせいぜいなのに、何故新車のスピードメーターには180キロまでくっついているんだろう。

伝達

 伝達の方法はすっかり変った。

 人類が言語というものを発明し、しかも音声でそれを伝達できるようになってから、まだ1万年もたっていない。

 たとえば文字で伝えるということ。

 僕は今この文章を1本のペンで紙に書いている。万葉集古事記日本国憲法も、そうやってペン(筆)で今に伝えた。本や新聞というものが世に生まれてから、最初は植字工が1字々々文字を探し、それを並べて活版印刷というものを用い、様々な情報を世に伝えた。それがまたたく間にどんどん進歩し、タイプライターが出来ワープロが出来、パソコンコピー機なるものが誕生するに及んで、ヒトは読めるけど書けなくなった。

 音声での伝達はもっと激しい。

 電話にケイタイが出来、スマホが生まれ、「ナウ」とか「リョ」とか簡略化が始まって。肉声よりも記号による通信が激しくなった。チャットツイッターラインなどという不思議な新手段が流行り出し、匿名などという邪悪な方法が発生するに至って、伝達手段は人の性格まで変えてしまった。

 僕もやられたことがあるが、匿名による殺人予告などは、この世で許されるものではない。しかし中々取締られないし、ツイッターラインがその為に禁止されるという根本的解決法は全くとられない。

 しかもこれらは電力を使っている。

 今や残り少なくなった地球の資源を使っている。おどろくべきことに今や多くの日本人が、スマホ、CD、テレビなどという機器を風呂に入りながら使っているという。そういう行動、そういう習慣が廻りまわって地球の環境までおかしくし、異常気象まで生んでしまっていることを誰も気にしない。気がつかない。

 こんなことを許していて良いのだろうか。

 卑怯な人間を世の中に増やし、しかも電力を浪費して地球の環境を悪くしているこんなツールが世に拡まって、ついて行けない我々老人をガラパゴスだの化石だのという。

 こんな無礼を放っといて良いのか。

医学

 全く信じられないぐらいの速度で、医学というものは進んでしまった。

 昔ならとっくに死んでいる筈のものが、医学の進歩で生き永らえるようになった。おかげで人間の平均寿命は延びた。それはありがたいことにはちがいない。しかし一方で若い奴らが本来の義務である生殖を忘れ、せっせと子供を生み育てることをサボルから、人口のバランスが変に崩れて高齢化社会を作ってしまった。2人の男女が結婚して2人以上の子を作らなかったら人口が減るのは当り前である。それはまァいゝ。それは又別の問題だ。いや。

 本当は別の問題じゃないかもしれない。

 娯楽が多すぎる。夜が明るすぎる。

 性行為をするには条件が悪すぎる。

 まァその問題は別の場所で論じよう。

 人の命は天よりも重い。古来云い尽くされたこの哲学が未だに医学界を縛っている。

 人工呼吸、胃瘻(いろう)、透析。まだ働ける者が医学の進歩で命を永らえるのはありがたいことである。しかしもう生きても働けぬもの、もう生きる気を失ったもの、生きても他人の迷惑にしかならぬもの。そういうものまで、本人の意志に反して、植物人間になっても命を存続させようという行為は、果して人道上如何なものか。永びかせ得るなら永びかせてくれというのは、家族の当然の願望であろうし、植物人間になってしまってもそう頼まれれば永びかせるのは医者の当然の義務かもしれない。しかし完全に植物化してしまって、蘇生の可能性も全くなく、意志も希望も失った病人は、果たしてまだ人間と云えるのだろうか。生きている命といえるのだろうか。これはもう神の領域なのではあるまいか。医学の上を行く問題なのではあるまいか。僕なら直ちに死なせて欲しい。

 だが一度人工呼吸器につながれたものは、それを止めるのは人の意志であり、それは即ち殺人ということになる。かくしてこの議論はタブーの領域となり、それ以上の思考は、してはならない範疇のものとなる。云いかえれば医学は進みすぎたのである。
 そんなことより医学の目的のもう一つに、患者を苦しみから解放するということがある。もしかしたら命を救うことより、こっちの方が切実かもしれない。

 去年、私の若い友人が肺癌で3年間苦しみに苦しんで死んだ。この苦しみ痛みから解放してくれと彼は云い続け、尊厳死協会にも入会したが、まだ持つまだ持つと医者は云い、そのうち新薬が出るかもしれないと希望を持たせるようなことを云った。2年目彼は苦しみに耐えかね、自らの命を絶とうと電動ドリルを胸に刺したが失敗した。更なる苦痛を重ねた揚句、3年目になって漸く死ねた。

 胃カメラを飲むのにも意識を飛ばしてくれる世の中にどうしてこんなことが起こるのか。これは一種の拷問ではないか。医者の使命は命を持たせるよりも苦しみから解放させることではないのかと、僕はその時医学を恨んだ。

 科学(医学)が如何に進んだからといって、哲学を忘れた科学は科学といえない。

 何でも出来る、と自惚れる科学はもはや世の中に害疫しかもたらさない。

 もっと速く走れる。もっと容易に通信が出来る。もっと簡単に洗濯が出来る。掃除が出来る。ニュースが見れる。娯楽が楽しめる。買物ができる。仕事が出来る。もっともっともっともっと??

 しかしそこにはからくりがある。

 人が本来自分のエネルギーを使って、しこしこ汗かいてやっていた事共を、何かの力を借り、何かに犠牲を強い、それがいつのまにか当り前になること。

 そうでなかった昔のことを、少し数え出して書き出してみないか。

 そしてその時代に少しでも戻れないか。戻ることが、如何に大変なことかを、小さなことからチェックしなおしてみないか。

同じ意見の人、この指止まれ!

「貧幸」という素敵な言葉がある。

 貧しいが倖せ。そういう意味の言葉である。僕は貧幸の時代を知る、今の世に遅れた人間である。だが今僕はあの貧幸の時代に、出来得るならば戻りたいと思っている。

 僕は富良野塾創設の起草文に、40年前こう書いた。

   あなたは文明に麻痺していませんか

   石油と水はどっちが大事ですか

   車と足はどっちが大事ですか

   知識と智恵はどっちが大事ですか

   批評と創造はどっちが大事ですか

   理屈と行動はどっちが大事ですか

   あなたは感動を忘れていませんか

   あなたは結局何のかのと云いながら

   わが世の春を謳歌していませんか

 同じ意見の人、この指止まれ!

(倉本 聰/文藝春秋 2022年6月号)

『北の国から』『やすらぎの郷』の脚本家として知られる倉本聰さん