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 1950年代後半、アメリカ政府は「プラウシェア作戦」という少々変わった核実験計画を発足させた。

 その目的は核爆弾の膨大なエネルギーを土木工事や採掘など平和的に利用することだ。当時、核エネルギーと言えば兵器のことだった。

 だが科学者はアラスカに新しい港を開くとか、パナマ地峡に運河を開くとか、核爆発を巨大な発破と捉え、平和的な利用法を見出したいと願っていた。そうした案の1つがガス田の開発だ。

【画像】 核爆発で天然ガスを抽出する「ガスバギー計画」

 平和利用核爆発水圧破砕させ、石油・ガス田の地下へ水や砂などを高圧で流し込み、岩石を破壊する。

 これによって原油や天然ガスの流れが良くなるので、生産効率が上がる(なお環境への影響が大きく、議論のある方法でもある)。

 原子力委員会のメンバーは、核爆発で大きな亀裂を作ることで、よりスムーズに天然ガスを抽出できると考えた。

 そこで原子力委員会は1967年、米国鉱山局とエルパソ天然ガス社と提携し、核爆弾が天然ガスの採掘に有効かどうか検証する実験を行うことにした。

 実験地として選ばれたのは、ニューメキシコ州デュルセから34キロ南西の地点と、ファミントンから87キロ東の地点の2ヶ所。

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 砂岩に天然ガスが溜まっていることがすでに知られていたところだ。爆弾(「ガスバギー」と呼ばれた)は地下1.2キロに設置され、穴を埋めたのちに起爆された。

 キノコ雲は上がらなかった。だが付近の丘から見物しようと集まった野次馬の足元を盛大に揺さぶった。

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核爆発装置「ガスバギー」を地下に埋設する科学者たち / Photo: U.S. Department of Energy

 地下での核爆発は岩石を蒸発させ、内壁が溶けたガラスで覆われた直径48メートル、高さ101メートルの空洞が出現。

 だが、科学者の予想とは裏腹に、周囲の岩石の圧力によって、ほんの数秒で崩れてしまった。それでも全方位に60メートルの亀裂が走り、そこから天然ガスが噴出した。

 「ガスバギー計画」はあくまで実証実験だった。ゆえに天然ガスが抽出されることはなかった。その役目は、続く「ルリソン計画」が担うことになる。

天然ガスの放射能汚染が確認された第二の実験「ルリソン計画」

 ルリソン計画はコロラド州ルリソンの田舎町で実施された。

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 1969年9月10日原子力委員会はオーストラル・オイル社とCERジオニュークリアー社と提携し、2.6キロの地下で核爆弾を起爆。その高温で大量の岩石が蒸発し、球状の空洞がポッカリと口を開けた。

 その上部の岩石には亀裂が入り、起爆後まもなく崩落。瓦礫が詰まった煙突が形成された。空洞まで掘り進み内部を調べてみると、期待通りの高濃度の天然ガスが検出された。

 ただしそれを一般に流通させるには放射性レベルが高く、最終的にガス田は廃棄された。

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ルリソン計画 / image credit:U.S. Department of Energy

 ルリソンで核爆弾が起爆される前、計画に反対する活動家や環境保護主義者たちが現地に集まり、計画を阻止しようと立ち入り禁止地域に侵入したりしていた。

 だが、そんなことで怯む原子力委員会ではない。彼らが爆心地から3キロの地点にいたというのに、起爆を決行した。

 「衝撃波で15~20センチは浮いたよ」とチェスター・マクエイリー氏は当時を述懐する。

 「あれは実験だったが、成功すればライフルからパラシュートまでの32キロの区間で、100か200回爆破してガス田を開発すると、連中は公然と話していた」

 放射性物質汚染にも関わらず、ルリソン計画は成功とみなされ、関係者は3回目にして最後となる実験「リオ・ブランコ計画」に自信をのぞかせた。

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ルリソン計画の実施現場/ image credit:Bronco925/Wikimedia

結局失敗に終わった核爆発によるガス田開発計画

 リオ・ブランコ計画は1973年5月17日、コロラド州リオ・ブランコで実施された。33キロトンの核爆弾3つが、1つの設置井のそれぞれ1779、1899、2039メートルに設置。ほぼ同時に起爆された。

 首尾よく行けば、ロッキー山脈西部のガス田で数百という核爆弾が使われるはずだった。だが前回、放射性物質汚染によって天然ガスは安全ではないだろうことが示されていた。

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リオ・ブランコ計画の実施現場 / image credit:Bronco925/Wikimedia

 そして最後の実験では爆発による空洞がうまくつながらず、放射性レベルもまた許容できないものだった。

 1974年までに一連の実験には8200万ドルが投じられていた。更に、これによって開発されたガス田を25年間稼働させたとしても、投資額の15~40%しか回収できないだろうと試算された。

 また家庭のガスコンロから微量の放射性物質が漏れ出てくるという恐怖も、世間には受け入れられなかった。かくして、放射性物質で汚染されたガスが一般に流通することはなかった。

 3度目のリオ・プランコ計画は、プラウシェア作戦最後の実験となった。

 計画に対する反対の声が大きくなったことを受け、プラウシェア作戦自体も1975年に中止された。それから程なく、米ソの間で「平和目的地下核爆発制限条約」が締結されることになる。

 実験が行われた現場は、現在もエネルギー省レガシー管理局の監督で後始末が行われている。それぞれには石碑が建立されており、かつてそこで何が起きたのか今に伝えている。

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ガスバギー計画を今に伝える石碑 / image credit:Chubbles/Wikimedia

References:Natural Gas Extraction by Nuclear Explosion | Amusing Planet / written by hiroching / edited by / parumo

 
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核爆弾で天然ガスを抽出しようとしたアメリカの科学者たち