2022年3月9日8時50分、私が顧問をしている一般社団法人オープンガバメント・コンソーシアム代表理事の中村彰二朗氏が死去しました。58歳でした。

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 私は倒れる前日までやり取りをしていたので、あんなに元気だったのになぜという気持ちでいっぱいです。

 突然のことで心の整理がつきませんでしたが、少し時間が経ったので、この場を借りてお伝えしたいと思います。

 出会って30年近くの友人のことなので、 私的な感情も入ってしまうと思いますのでお許しください。

 IT業界にいれば中村彰二朗氏のことは、ご存知の方も多いと思います。

 スマートシティーの分野だけではなく、 日本のIT業界にはなくてはならない存在だったのではないでしょうか。

 会津モデルを日本の行政システムの標準化にすべく、身を粉にして働いてきました。

 自分の命を削ってでも行政のデジタル化を加速させる、との思いで突っ走ってきたと言ってもいいでしょう。

 一般社団法人オープンガバメント・コンソーシアム代表理事だけではなく、一般社団法人日本IT団体連盟副会長も歴任しており、中村彰二朗氏ほど 行政のデジタル化に長いこと精通している人物はいないと思われます。

 一緒に仕事をした人ならわかると思いますが、頭の回転が早く、ユーモアがあり、人の心をつかむのがとても上手でした。

 会津をEyesにかけた「Open My Eyes」など、キャッチフレーズともいえる業界用語を、いくつも作ってきたのです。

「SmartCity5.0: 地方創生を加速する都市OS」など書籍も残しているので、読んでいただけたらと思います。

 中村彰二朗氏は1963年6月7日宮城県遠田郡で生まれました。生きていればもうすぐ59歳の誕生日です。

 仙台にある東北学院高校、東北学院大学で学ばれ、仙台市に本社のあるIT企業、コムテックに入社しました。

 1995年にはエコスを創業し、日本初のカード決済を利用したリアルタイムサインアップシステムを開発。

 電子商取引に特化したパッケージソフトベンダー、決済システムの草分けと言ってもいいでしょう。

 その後、中村彰二朗氏は、 エコスを退職し2002年6月、サン・マイクロシステムズに入社しました。

 サン・マイクロシステムズでは、政府・自治体システムのオープン・標準・共通化を提唱し行政のデジタル化に邁進します。

 そこで人生の転機が訪れたのです。

 スマートシティーという言葉のない時代から、行政のデジタル化一筋に歩んでいきます。

 2011年1月、 サン・マイクロシステムズがオラクルに買収されると、中村彰二朗氏はアクセンチュアに移籍しました。

 2か月後に起こった東日本大震災をきっかけにして、福島県会津若松に自ら移り住んで、 福島県の風評被害を払拭すべく陣頭指揮をとって行政のデジタル化に貢献したのです。

 すぐにアクセンチュア福島イノベーションセンターのセンター長に着任し、復興支援に従事します。

 その後は、会津若松を足がかりに、日本の再生を実現するため、復興から地方創生へとステージを移し、首都圏一極集中から分散配置論を提唱したのです。

 会津若松を実証フィールドと位置づけ、デジタルシフトによるスマートシティ・地方創生事業を推進し、会津若松発での地方創生モデル構築に取り組むことになります。

 死去の3か月前である2021年12月4日岸田文雄総理は 会津若松を訪問され、中村彰二朗氏と意見交換をしました。

 就任間際の総理自ら歴訪するなど、中村彰二朗氏に期待していたと言ってもいいでしょう。

 東京にいて地方創生するのではなく、地方にいてその成功モデルを他の場所にも展開するというのは、とても理にかなっていて説得力があります。

 だからこそ、1741もの市区町村長が、中村彰二朗氏のもとを歴訪して手本としたのです。

 奇しくも2022年3月11日東日本大震災11年目の会津若松で通夜が行われました。

 会津若松の花屋が売り切れるほどの花が並べられ、会津若松始まって以来の大規模な葬儀だったのです。

 祭壇には、岸田首相のみならず、安倍晋三元首相や会津藩だった松平家の花が飾られ、中村彰二朗氏の偉大さを改めて感じます。

 葬儀は遠く会津若松で行われたにもかかわらず、初代デジタル大臣の平井卓也衆議院議員も駆けつけて、故人を弔っていました。

 親しい友人を亡くしたことが、初めてなので正直、今でも信じられません。

 最初は友人として、最後の11年間は一緒に仕事をさせてもらい毎月顔を合わせていました。

 技術顧問として中村彰二朗氏をサポートさせてもらっていましたが、いつの間にか中村彰二朗氏をベンチマークしていたことに気付きました。

 同じ歳、同じ身長、同じような大学名と共通点がたくさんあったので、親しみを感じていたのだと思います。

 仕事の付き合いだけではなく、古くからの友人でもあることから、家族葬ということでしたが、翌日の告別式にも出席させてもらい、故人に最後の別れを告げることができたのは感謝としか言いようがありません。

 死の間際まで中村彰二朗氏は、個人のデータを市民に取り戻すべく「オプトイン」というキーワードを掲げて、 データの健全化に取り組んできました。

 これはまさにWeb3の発想であり、 データの所有者は市民にあるということなのです。

 プラットフォーマーではなく、市民のためのスマートシティーである会津モデルを、日本全国に広めようとしていた矢先のことでしたので残念でなりません。

「オープン」「フラット」「コネクテッド」「コラボレーション」「シェア」の声が今でも頭に鳴り響いています。

  残された我々が中村彰二朗氏の意思を継いで、何としても 健全なる行政のデジタル化を推し進めていかなければなりません。

 中村彰二朗氏は次のように語り、医療のDX化を重要視していました。

「オンライン診療も、患者は、いつでも・どこからでも診療を受けられるので便利ではある。だが、医師は現状、診療施設からしか診察ができず場所が制限されている」

「医師も、どこからでも診察ができれば、医療行為そのものを次のステージに変革するきっかけになるだろう」

 3年前から慢性骨髄性白血病を患っていた彼自身が、そのことを一番望んでいたのかもしれません。

 5日後に虎ノ門病院での骨髄移植手術が決まっていたにもかかわらず、容体が急変して会津若松の病院で亡くなってしまったことが悔やまれます。

 もうすぐ訪れるであろうデジタルの夜明けを、一緒に見られないことが残念でなりません。

 デジタル庁もできて行政のデジタル化が着々と行われていますが、デジタル維新というこの時期に、「ミスタースマートシティー」中村彰二朗という偉大な人物がいたことを忘れないでください。

これまでの連載:

世界に後れをとる日本のIT産業、最大の理由は軍事産業欠如:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69950

Web3への道:クラウド主流の時代が終わりデータは手元に保管:後編:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69538

Web3への道:先駆者だった日本がガラパゴス化した理由:中編:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69036

次世代インターネット「Web3」とは何か:前編:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68659

社外からCDOを迎え入れないとなぜ負け組になってしまうのか:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68265

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