(歴史家:乃至政彦)

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織田信長と跡目相続

 信長の家系は、織田弾正忠家と呼ばれる。

 言わずと知れたことだが、織田信長の父は織田信秀、母は土田御前である。ただ、土田御前の読み方は「どた」なのか「つちだ」なのか未判明だ。また、その家族関係も不明瞭で、信秀と信長が不仲だったとか、土田御前も信長よりその弟に期待をかけていたと言われている。

 天文18〜9年(1549〜50)頃、信秀は30代後半の若さにもかかわらず、病に伏せがちとなった。このため、敵軍の侵攻にも対応することもできなくなり、健康回復のための祈祷や治療が進められた。

 だが、天文21年(1552)3月上旬、信秀は病没した。

 その跡目は織田信長が継承した。

 ところで信秀から信長に渡った家督について、ある異説がある。

信長は信勝に家督を譲ったか

 それは家督を継いだばかりの信長が、同母弟である織田信勝へすぐに家督を譲り渡したとする解釈である。

 信秀生前、天文19年(1550)12月23日、信長は熱田社座主に「笠寺別当職、備後守(信秀)の判形に任せて、賽銭の徴収をかつて信秀が認めたとおりに認めます」とする許可証を発給している。

 現在確認されている織田信長の文書の中で最も古いものである。

 さてここからが重要である。続いて翌年、(1551)9月20日、弟の信勝が同座主に対し、「備後守(信秀)并三郎(信長)の先判の旨に任せて、これからも賽銭の徴収を認めます」と伝える許可証を発給したのだ。ここに信勝が、信長から熱田社の徴収権を決定する権限を譲られた事実を確かめられる。

 さらにこれと併せて、『信長公記』[首巻]で、信長と信勝が信秀の葬儀に出たあとの記事で「末盛の城、勘十郎公へまいり、柴田権六(勝家)・佐久間次右衛門(盛次)、このほか歴々相添へ御譲りなり」との記事が見える。これらを併せて解釈すると、信長は織田「弾正忠」の家督を若くして弟に譲ったのではないかと言う主張がある。

異説への疑問

 ただ、それなら信勝が当時信長がいた那古野城ではなく末盛城に入ったのは、不可解である。これは単に、かつて信秀がいた末盛城を信頼できる信勝に与えてやったと見るべきだろう。

 そして、柴田勝家と佐久間盛次は、信長が添えてやったものなので、もともと信長の家臣である。2人は信長に預けられたのであり、いわば護衛と監視を兼ねた与力的である。本当に家督を譲ったのなら、この2人だけでなく、重臣全員をそのまま託すべきではないだろうか。

 とはいえこれらとは別に不可解なことがある。

 信長は信秀死後「弾正忠」を名乗らず、「上総介」を名乗り続けていた。そこへいきなり信勝が「弾正忠」を称するのである。

織田弾正忠信勝

 天文23年(1554)11月16日より、信長は「上総介」の官名を使い始める。

 いっぽう同年12月、信勝は実名を「達成」に改め、しかも同年5月に書かれた沢彦の法語に「織田霜台御史達成(=信勝)公」という文字が記されている。「霜台」とは「弾正忠」の唐名(中国風の名前)であるから、ここに信勝は「織田弾正忠達成」に改名したことがわかる(なお、本稿では便宜上、信勝は「信勝」と記すことにする)

 これをもって信勝は、やはり信長から家督を譲られたとする解釈と、いや信勝は勝手に弾正忠を名乗り出したのだとする解釈がある。どちらも決め手はない。

2人の決別

 真実はともかく、ここから信長と信勝の関係は悪化していく。

 きっかけは2人の実弟・織田秀孝の死である。史料では、結構な美形であったという。

 国内の守山城には信長の叔父である織田信次が入っていた。その守山近くで天文24年(1555)6月、信次の家臣が、道すがら無礼な武士に遭遇して殺害するという事件が起こった。そこまでなら戦国時代アルアルである。

 殺害した家臣たちが遺体の身なりを改めると、まだ中学生程度の少年であった。だが、ここでとんでもないことがわかった。遺体は、信長と信勝の実弟・秀孝のものだったのだ。青ざめた家臣はそのままさっさと逐電した。一連の不始末に、信次は驚いた。本来ならこのような事件をしでかした者たちの首を差し出すような一大事である。甥の信長は事実上の尾張トップで、これを敵に回すような事態になり、しかも打つべき手が思いつかないのである。

 とりあえず正直に報告するぐらいしかない。

 悲報はすぐさま信長と信勝のもとへもたらされた。

 信長の清洲城と、信次の守山城の距離は約11キロメートル。

 信勝の末盛城と、信次の守山城の距離は約4.2キロメートル。

 当然のこととして、信長よりも先に信勝が動き、信勝は怒りに任せて信次の守山城を焼き払った。自分と信長のかわいい弟が殺られたのだ。信勝にすれば当然のことである。

 信長も単騎で急ぎ現場に駆けつけたが、間に合わなかった。目の前には焼土と化した守山城下が広がっていた。とりあえず混乱を収集しなければならない。信長は即座に裁定を下す。

 信長は「我々の弟ともあろう者(秀孝)が従者も連れず、低い身分の侍のように馬一騎だけで駆け巡っていたなど、とても理のあることと思えない(【原文】「我々の弟なとと云物か人をもめしつれ候はて、一僕のものの如く馬一騎で懸まわし事、沙汰の限比興」)」と亡くなった弟を批難したのである。

 死人に口なし。非常時とはいえ、信長自身「一騎かけ」で駆けつけたのに、秀孝を批難したのは、言外にこれが自身の本心ではない事実を伝えていよう。すでに立ち去った信勝に“俺がこう裁いたのだから、怒りを鎮めよ”と伝えて、騒動を落着させたかったものと考えられる。信勝または信次の責任を問えば、家中は割れてしまいかねない。"許せ、秀孝──”という苦しい気持ちであっただろう。

 裁定を終えると信長は清洲城へ戻ったが、信次は守山城から姿を消して行方不明になった。その後、信勝は守山城を信光の家老衆から接収しようと手勢を派遣したが、抵抗されたため、激しく攻めたてた。家老衆はそれでも降参しなかった。そこで信長は事態を収めようと、新たな城主に自身の異母兄・織田秀俊を指名する。信次の家老衆もこれに納得して、新城主を歓迎した。

 このような顛末があったが、信勝は信長の裁定に不満があったようである。

 信勝にすれば、“俺たちの思いはこんなに違っていたのか”と失望したのではないか。

上総介・信長と弾正忠・信勝の関係

 織田信勝が「弾正忠」を名乗ったのはこの前年である。ここでこれを信勝本人の野心によるものとする解釈が強いが、私は違うと思う。当主でないはずの人物が、代々の当主が名乗っていた官名をいきなり称すれば、その瞬間から敵対関係が開始されるはずだ。しかしこの秀孝事件が起こった時、2人の行動に行き違いがあるとはいえ、明確な敵対関係は読み取れない。もし険悪な関係にあり、信長が信勝を危険視していたなら、信次の守山城下を燃やした所業を強く批難して、"だからあいつを共に打倒しよう”と信次と共に決起したはずである。

 それなのに信長は、信勝の所業については一言も触れず、黙認するかのような態度を取った。おそらく信長は、信勝とは心が通じ合っており、思いつきの裁定も理解してやり過ごしてくれるだろうと甘く見ていたのだろう。

 ということは、信勝の「弾正忠」は、かれ自身が勝手に名乗ったわけではなく、信長が与えたのではないだろうか。それは信長からの“お前と俺は2人で1人だ”という意思表示だったのかもしれない。信長は一般の武将とかなり感覚が違っている。信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつけたり、将軍足利義輝への会見を望む上洛にかぶき者の「異形」装束で旅行するなど、普通の物差しと異なる価値観があり、そこから新たな家中を独自に形成していた。

 信長は、信勝を片腕として信用していた。言葉を交わさずとも自分の苦しい気持ちを理解してくれると過度に期待していた。ところが信勝は、“兄貴の気持ちを代弁したつもりなのに、何もわかっちゃいない”と苛立ちを募らせていた。そう考えると一連の顛末が見えやすくなるはずだ。

度重なる身内の不幸

 翌年(1556)4月、同盟国である美濃で義父の斎藤道三が、息子の高政(義龍)に謀反を起こされ、長良川で戦死してしまった。信長は急いで援軍に出馬したが、間に合わず道三との合流は果たせなかった。ここに美濃は斎藤高政の統治下に入り、同盟国から敵国に転じたのである。

 ここに尾張は、周囲を巨大な敵国(美濃の斎藤高政と駿河の今川義元)に囲まれている状態となった。すると国内に緊張が高まる。こうして5月には、"信長の代わりに信勝を立てればいいのではないか”と考えた柴田勝家林秀貞・林美作守らが談合を進めた。

 そして6月には、守山城主になって1年目になる織田秀俊が自身の家老に殺害された。その家老・角田新五はその後、織田信勝の家臣に転属していることから、信勝が秀俊の守山入りに不満を持っていたことが想像される。

 それまで同母兄弟として国内外の勢力に連携して当たっていた2人だが、織田秀孝殺人事件から、信長と信勝の関係は急速に冷えていった。当初、信勝が張り切って守山城下を焼いたのも、兄の代役を気取って、勇気を振り絞ったことなのだろう。それがコケにされて、信勝は無念の想いであった。

 同年(1556)8月、信勝が信長の直轄領・篠木三郷を横領する。兄弟の対立は、ついに全面戦争へと変じたのである。

信長と信勝の最終決戦

 8月24日、尾張稲生原で信長の直属兵と、反信長の林美作守・柴田勝家連合が対峙する。前者700人、後者1700人。緒戦は反信長軍が優位に立ったが、いざ信長と渡り合おうとすると、信長が「大音声を上御怒」して、反信長軍は「御威光に恐れ」、それ以上の攻撃を控えてしまった。信長は柴田隊を崩し、ついで林隊を襲って美作守の首を得た。得た首の数は450以上であったと言う。

 信長はいわゆる稲生合戦で、反乱軍に圧勝したのだ。

 末盛城の信勝は、ここで攻め滅ぼされてもおかしくない状況に追い込まれたが、仲介が入り、一命を取り留めた。2人の実母・土田御前が信勝の赦免を願い出たのである。

 国主同然の立場とは言え、信長も実母の言葉には逆らえなかった。弟の若気の至りと兄の適当な裁定が国内に騒乱を招いてしまったことを信長も反省したであろう。

 だが、勇ましい信勝は鎮まるどころか、より戦意を燃え上がらせていく。

仮病を使っての実弟暗殺

 その後、信勝のもとへ斎藤高政から「あれから変わりはないでしょうか?」と様子を訊ねる手紙が送られている。どうやら2人は信長打倒の共同作戦を考えていたようである。そして、永禄元年(1558)3月、信勝は信長に無断で国内に城を築くなど、反抗的態度を再開した。柴田勝家は信勝に失望して、信長への忠誠を誓った。

 同年5月28日、美濃の斎藤高政が尾張の岩倉城将・織田信賢と謀って打倒信長を狙うが、信長は信賢を迎撃し、城内に逼塞させた。信長が実力を示し、対外侵略を未然に防いだことで、信勝を擁立する意義は失われてしまった。野党が与党に成り代わる空気は完全に消えたのである。

 同年11月2日、信長の病気を聞いて清洲城に入った信勝は、その場で殺害された。信長の病気は仮病だったのである。こうして尾張は信長のもと再統一されていくことになる。

 かつて頼りにしていた弟を殺害しなければならなかった信長の心中は、いかばかりであっただろうか。英傑・織田信長の素養はこうした悲劇の連続で磨かれていくのであった。

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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末森城跡。現在は城山八幡宮となっている。Bariston, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons