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明治記念館での「第73回保健文化賞」授賞式に出た金子さん

1958年、NHK局員だった金子鮎子さん(88)は、ご婚約直前の美智子上皇后のお姿を撮影できたことが認められて、日本初の女性テレビカメラマンになることができた。順風満帆にみえた金子さんだが、紆余曲折を経て精神障害者支援への道を歩んでいくことになる。

【前編】日本初の女性テレビカメラマン明かす「美智子さまご婚約直前の極秘撮影」秘話から続く

■社会的に孤立していた精神障害者に寄り添いたかった

念願のカメラマンになった金子さんは、事件があれば米国製の16ミリカメラを手に局を飛び出した。1964年東京五輪では、女子選手村に入り、選手たちのプライベート映像をカメラに収めた。女性として第一線で働く金子さんの姿は、美智子さまと同様に時代の華として、週刊誌などでもたびたび紹介された。

順風満帆に思えた金子さんのキャリアに転機が訪れたのは、カメラマン9年目の1968年。広報室へと異動になったのだ。金子さん35歳のときだった。

「当時はまだ、労働基準法の保護規定で、女性の深夜労働が禁止されていたんです。キャリアを重ねたら多少お給料は上がるけれど、深夜労働ができない女性は、デスクとしては使いにくい。今なら問題でしょうが、当時は仕方ないと思いました」

だが、転んでもただで起きない。これを機に、幼少期から関心があった心理学について学ぼうと、週に1度、仕事帰りに東京カウンセリングセンターに通い始めた。

「そこの先生が、うつ病の当事者が集まる会を作ったというので、手伝いに行くようになったんです」

ここで出会ったのが、心の病いに苦しむ当事者や、その家族だった。

「幻覚や妄想などがある統合失調症は、10代で発症する人も多く、回復までに長くかかります。ひきこもりになると、本人も家族も苦しいし、家族間の関係性も悪くなってしまう。さらに、周囲からは偏見の目を向けられて、社会で孤立していました」

幼少期の劣等感が思い出され、人ごととは思えなかった。

「人は誰しも、深刻な出来事が重なれば心の病いになりかねません」

金子さんは、知り合いの精神科医やカウンセラーなどと一緒に、1971年に障害当事者が集まる「日曜サロン」と、家族が集う「家族会」をオープン。「日曜サロン」は、現在までなんと50年以上も続いている。

「心の病気のことって人に話しにくいじゃないですか。だから、心置きなく話せる場所を作れたらと思ってね。じっくり話を聞くだけでも、ご本人や、お母さんの表情が柔らかくなるんです。お母さんは、子どもにつらくあたったりしなくなるし。それだけでも、ずいぶん親子の関係性が変わるんですよ」

精神障害者でも働ける社会へーー株式会社を設立

当事者やご家族から厚い信頼を得るようになった金子さん。NHKの勤務がない時間は、精神障害者宅を訪問して話し相手になったり、精神障害者を支援する会で病気のことを学んだり……。

「仕事や勉強で手いっぱいで、結婚には前向きになれなくて」

金子さんは、結婚より精神障害者と共に歩む道を選び取っていた。そんななか、「働いて自立したい」という精神障害当事者が多いことに気づく。

「当時、NHKに入っていた清掃会社にお願いしてまわり、精神障害者の方を数名、雇ってもらったんです。いきなりフルタイムは無理でも、一日数時間から徐々に延ばしたら、長く働ける人もいてね。サポートすれば精神障害があっても、ご本人次第で働けると確信しました」

NHKで働きつつも、金子さんの心には、「精神障害者と共に働く会社をつくりたい」という思いが年々膨らんでいった。

「私は医師でも保健師でもない。だから“支援”なんていう上から目線じゃなくて、手助けしながら“一緒に”働きたい。ただそれだけでした」

1988年、金子さんはおよそ34年勤めたNHKを55歳で定年退職。翌1989年、志を同じくする仲間と共に、精神障害者が働く清掃会社、株式会社ストロークを起業する。

障害者は数百円の工賃しかもらえない時代、社会福祉法人などではなく、株式会社にこだわったのは「障害があっても仕事に見合う賃金が支払われるようにしたかったから」と金子さん。社名のストロークには、なでる、さするなどの意味がある。

「赤ちゃんでも、スキンシップや周囲からの声かけが多いほどすくすく育つでしょう。そんなプラスのストロークを、もらうだけじゃなく、障害があってもこちらから発信して社会の役に立ちたい。社名にはそんな思いを込めたんです」

金子さんの熱意を目の当たりにし、応援団は増えていく。

「NHK時代の仲間や地域医療に関わってきた医師、たくさんの支援仲間、そして他界する直前だった父も株主になってくれて。起業を後押ししてくれました」

一方、美智子さまは、1989年昭和天皇が崩御し現在の上皇陛下が天皇に即位されたことで、初の民間出身の皇后になられる。新しい時代の扉は開きつつあった。

■村木厚子さんらと実現した障害者雇用の道

金子さんは、清掃会社でアルバイトをしながらノウハウを学んだ。しかし、簡単に事は進まない。

「働きたい思いはあっても、社会経験がなかったり、薬を服用しているせいで朝起きられなかったりする人も少なくありません。『睡眠薬を飲んだので、明日は起きられません』と夜中に電話がかかってくることもあります。ですから私は事務所で寝泊まりして、急に休む人が出た場合は、代わりに現場に入る準備をしていました」

事なきを得たからよかったが、金子さんは脳梗塞で倒れる71歳まで、事務所で寝泊まりする生活を送っていたという。みずからの命を削りながらも、金子さんは、精神障害者の人たちが働けるようになるまで「待つ」ことを諦めない。

「一日数時間、週に数回のシフトから始めて、慣れたら入る時間や回数を増やしていく。そうすると、うまくいく場合が多い。調子が悪いときは、調子のいい誰かが入る。サポートがあれば、障害があっても職を失わず働き続けられるんです」

金子さんの愛情は、障害当事者にもしっかり伝わっていった。勤続27年目のスタッフで統合失調症の持病がある只隈光人さん(65)は、こう振り返る。

「入社してしばらくは、調子が悪いとすぐに仕事を休んでいました。でも金子さんは一度も怒らず、『仕方ないわね』とカバーしてくれた。でも、私が休むと、日ごろから無理をしている金子さんの負担がさらに増えてしまう。そう気づいてから仕事を休まなくなりました」

とはいえ、一企業ができることには限界がある。金子さんの目標は、精神障害者の人たちが当たり前に働き、自立できる社会の仕組みをつくることだった。そのために、次々と各方面に働きかけた。

「通称“職親会”といって、精神障害者の社会復帰のために働く場を提供してくれる小さな事業者(職親)の集まりがあるんです。こうした職親の取り組みを広く紹介したり、2000年からは2期にわたって厚生労働省主催の委員会の一員になり、どうやったら精神障害者が就労できるか、具体策を示して民間企業へ雇用を働きかけたりしました」

当時から一定規模以上の企業は、身体・知的障害者を雇用せねばならない義務があった。しかし、精神障害者に関しては理解が進まず、雇用義務から外されていたのだ。さらに金子さんは、障害者雇用に道を開いた、当時厚労省の局長だった村木厚子さんの勉強会にも積極的に参加した。

「いろんな障害者支援のグループの方々が夕方、厚子さんの局長室に集まって意見交換するんです。厚子さんは、こちらの意見にも熱心に耳を傾けてくださって、精神障害者の雇用を増やすために一緒に考えてくださいましたね」

これらの勉強会を経て、2006年には「障害者自立支援法」が成立。障害者雇用促進法も改正されて、2018年ようやく企業での精神障害者の雇用も義務化されたのだ。

「長い道のりでしたが、やっとスタートラインに立てた。そんな気持ちでしたね。私が起業したころは、ハローワークの人に『精神の病気を治してから来てください』と言われる時代でしたから」

金子さんの脳裏には、これまで泣き笑いしながら共に働いてきた仲間たちの顔が浮かんでいた。

■天皇皇后両陛下に謁見。陛下は驚かれて……

64年前、正田邸で出会った若かりし日の美智子さまと金子さん。2021年12月20日、時代を経て2人の人生が再び“接近”する出来事があった。金子さんが、福祉の道で貢献した個人や団体に送られる「第73回保健文化賞」を受賞したのだ。

同賞の受賞者は天皇皇后両陛下に謁見することが慣例となっており、金子さんは今上陛下と雅子さまにお会いすることができた。

「陛下にこれまでの取り組みを申し上げると、陛下は、『それは大変でしたね……』と、私の話に熱心に耳を傾けてくださいました」

天皇陛下の福祉へのご関心の高さは、母である美智子さま譲りなのかもしれない。ご成婚の年である1959年7月に、母子愛育会をご訪問されたときから、美智子さまの福祉施設へのご訪問は始まった。それから、半世紀以上にわたって、全国の福祉施設や病院を訪問され続けた。こうしたお姿が、国民にとって御簾の向こうにあった皇室を身近なものにしたことは間違いない。

「美智子さまが訪問された病院を、直後に、厚労省の委員として視察に行ったこともありました。美智子さまも障害者の支援に、ずっと熱心でいらっしゃいました」

お代替わりもあって、残念ながら美智子さまにお会いすることはかなわなかったが、お志を継がれた天皇皇后両陛下に、金子さんはこれまでの活動をご報告できた。

「陛下には、美智子さまをご婚約内定前に撮影させていただいたお話もさせていただきました。そうしたら『ほぅ』と驚いていらっしゃったわね(笑)」

皇室の扉を国民へーー。就労の扉を精神障害者へーー。64年前、夢と希望を胸に抱いて、同じ部屋でひとつの時を共有した2人の女性たちは、とびきりの勇気と優しさで、固く閉ざされていたドアを開いたのだ。