2009年8月6日、女優の大原麗子(享年62)が自宅で亡くなっているところを発見された。

 晩年の彼女はギラン・バレー症候群などのため芸能活動を控え、自宅で過ごすことが多かったという。しかしそれが孤独死同然だったことで、世間に与える衝撃は大きかった。

 その後に行われた「お別れ会」には400人が列席。渡瀬恒彦森進一という離婚した2人の夫の姿もあり、生前の彼女の人柄が偲ばれたものである。

 私が大原を初めて取材したのは、忘れもしない1984年6月18日。この日、夫の森が東京・青山の「ビクタースタジオ」で離婚会見を開くとの知らせを聞き、私も会見場に急行。午後1時、ダークグリーンのダブルのスーツで登場した森は目に涙をためて、次のように語った。

「僕は家庭的に不幸だったから、夜帰ってきたらちゃんといてくれて、朝、出ていく時には見送ってくれるという、温かい家庭を望んでいたんですが…。彼女は40歳になったら仕事を辞めてくれると思っていたのに『家のことをしているより、台本を読んでいる方がいい』と。(離婚は)1年ほど前から考えていました」

 一方、午後4時から六本木「クラブハウス33」で会見を開いた大原は、

「私のわがままでこういうことになり、残念です。私は仕事と家庭というのは比較できるものではないと思っていました。仕事は私にとって生きがいだから。でも、台本が家庭より好きということはありません」

 森の発言をピシャリと否定した後、

「考えてみると、家庭に男が2人いたんですね」

 と唇を噛む、その表情が印象的だった。

 2人の会見はテレビで生中継されたが、実は大原が口にした「男が2人いた」という発言の裏には、彼女なりの大きな選択があったのである。

 大原が亡くなった後、その真相をメディアで告白したのが、実弟だった。同氏の告白によれば、大原は結婚2年目に妊娠。しかし「ドラマ出演中に途中降板はできない」として、中絶したというのである。その事実は森に伝えられなかったという。

 これを女優魂と言うのか何と言うのかは別として、ウィスキーのCMで「少し愛して、長く愛して」と甘く囁き、世の男性を虜にした大原に、そんな素顔があったとは…。

(山川敦司)

1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。

アサ芸プラス