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食堂はいつも繁盛している(撮影:田山達之)

古本の街として知られる東京・神保町駅のすぐそばに「未来食堂」はある。雉子橋通り沿いの日本教育会館地下1階。昭和のにおいのする飲食店街のいちばん手前だ。

5月24日午前9時。店舗の前には6箱もの段ボール箱が所狭しと広げられ、その日の“まかないさん”の田中さん(62)が、タアサイの傷んだ外葉をむしっていた。

おはようございます。今日は朝8時半ごろから、掃除をしたり、野菜の下ごしらえをしています」

そう話す田中さんと記者が挨拶を交わしていると、店内から声が届いた。

「すみませ〜ん。もう朝の仕込みに入っちゃってるんで、勝手に写真も撮ってください」

元気な声の主は、未来食堂の店主・小林せかいさん(38)だった。ジーンズに黒のポロシャツ、頭には手拭い、マスク姿。足元は靴下。

「厨房は土足厳禁なんです。あ、田中さん、タアサイが済んだら、洗い物お願いします」

未来食堂は、飲食業界の常識にとらわれないユニークな取り組みで、数々のメディアで取り上げられてきた人気店だ。

そのひとつが、田中さんのような「まかない」さんの制度。50分のお手伝いで、1食無料で食べられるシステムだ。

「本当に困った人が、おなかいっぱい食べられるように」と、思いついたまかないだったが、店としても人件費が節約できる。始めてみると、まかないさんたちの目的は人それぞれで実にさまざま。1食無料に引かれる人もいれば、飲食店を体験してみたい人、自分の店を持ちたい人もいる。実際、この7年ですでに13人のまかない卒業生が独立し、自分の店を持っている。

手伝いだけして、自分の1食分をほかの人に譲りたいというのが「ただめし」だ。この日も店の入口脇の壁に、赤い「ただめし券」が2枚、貼られていた。剝がしてカウンターに置けば、誰でも定食が無料になる。

「これも、まかないをした人が、『自分の1食を友達に譲ってもいいですか』って言ってきたことがきっかけで始まったんです」

コロナ禍で、現在は休止中だが、夜の営業時には、冷蔵庫の在庫リストから、+400円で好きなおかずを作ってもらえる「あつらえ」も人気だった。

小林さんは大きな寸胴いっぱいにお湯を張り、大量のカリフラワーをゆで始めた。その日の定食は「牛肉とカリフラワーオイスター中華炒め ザクザクじゅわっと!!」。手書きのメニューが温かい。

メニューは日替わりの1種類のみ。そこに副菜の3〜5種ミックス野菜炒め、ご飯、スープがついて、900円。2回目からは100円引きで800円。安い! しかも、ご飯、スープ、副菜はおかわり自由だ。

「あの6箱のタアサイ、いくらだと思いますか? 全部で400円です。びっくりするくらい安いでしょう。きのこやセロリも大量にあって、全部で千円!」

弾むように、小林さんは言った。

「青果の卸問屋から見切り品を仕入れているんです。コロナで、野菜がダブついたそうで、全体の値段さえ納得できれば、どんどん持ってきてもらうようになりました」

小林さんは、なにごとにも臨機応変に対応する。大量の野菜を仕入れては、毎週月曜の定休日に、その週のメニューを決めるという。

「昨日も大量のカリフラワーを見て、このメニューを考えました。手に入った野菜を工夫してメニューにする。そのほうが合理的だし、フードロスもありません」

気がつけば、開店15分前。店の前にはすでに女性客2人が待っている。11時のオープン時には、6人の行列になっていた。コの字形のカウンターに12席だけの店内。お客さんが座ると、すかさずご飯茶碗と主菜、副菜が載ったお盆が差し出される。

初めての来店らしい女性客2人は、空のお茶碗に一瞬、戸惑ったようだったが、隣の常連客がカウンターに置かれたおひつから、自分でご飯をよそうのを見て、

「ああ、そういうことね」
「これなら好きな量を食べられていいわね」と、うなずき合った。

そこに間髪入れずに、セロリスープが出てくる。

「すみません。スープおかわり
「おひつのご飯、なくなりました」

カウンターのあちこちから、別の声も飛ぶ。

コロナ禍で、テークアウトのみの営業や休業を強いられたこの2年余り。ゴールデンウイーク明けから、8席に減らしていた客席を12席に戻し、未来食堂にはコロナ前の活気が戻ってきていた。

ユニークで温かく、大人気の未来食堂。小林さんがお店を開くに至った根幹は、どこにあるのだろうーー。

歌舞伎町のバー勤めの時代、皆で大鍋料理を食べて涙が。「食の場で人の存在する尊さに」

小林さんは、1984(昭和59)年5月16日大阪府で生まれた。

「せかいは、両親がつけてくれた本名です。よく『せかい食堂』って間違われますね(苦笑)」

弁護士の父と自宅で塾を経営する母、妹の4人家族。地元の公立小学校を卒業後は中・高と神戸女学院に通う感受性豊かな少女だった。

「生きていること自体、肩身が狭く感じていた中3の2学期でした。学校の帰り道、小説の続きを読みたくなって、初めて一人で喫茶店に入って、ココアを頼んだんです」

初めての喫茶店で緊張ぎみに座る彼女の前に、静かに置かれた1杯の温かいココア

「これまでにない居心地のよさを感じて。人生で初めて素のままの自分を受け入れてくれた空間を見つけた! って思ったんです」

こんなお店をいつかやるんだろうな。そんな予感が芽生えていた。未来食堂のコンセプトは「誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所」。その原点はここにある。

生きる意味を常に考えていた少女は、宗教や哲学に傾倒したが、受験をする意味に疑問が湧いて、突如、家出する。高3の夏だった。

「親とも友人とも連絡を断って、東京・池袋の働いていた水商売のお店で、仕事仲間とたまたま唐揚げ弁当を食べたとき、急に胸に染みたんです。こうして人と共にいることが、やっぱり私には必要なんだって。それで家に電話して『帰る』と告げました」

どこかしっくりこない生きづらさを抱え、居場所を求めてさまよう10代だったのだろう。

その後、一浪して「揺るぎなく真に真たる数学」に目覚め、志望を文系から理系に変更。東京工業大学理学部数学科へ進学した。

再び東京での一人暮らしになった彼女は、新宿ゴールデン街歌舞伎町のバーでバイトを始める。

歌舞伎町のバーでのバイト時代、お店の寮に呼ばれて、みんなと一緒にご飯を食べたんですが、大鍋料理を囲んで、みんなで『いただきまーす』と食べ始めたとき、なぜか涙が出て止まらなくなって。食の場で、人が存在することの尊さを感じた瞬間でした」

大学では、1年のときから学園祭でブックカフェ「きもの(不思議図書館)」を出店する。当時、小林さんは着物で大学に通っていたことから、カフェの名前になった。歌舞伎町で学んだ夜の雰囲気を昼の喫茶店に反映させたアイデアが当たり、毎年、来場者投票で人気ナンバーワンを獲得。4年生のときには、他大学の学園祭からもオファーをうけて出店するほどの人気だった。

そのカフェを手伝ってくれた男性と23歳のときに結婚。2人の子どもは現在、小6と4歳になっている。

このころから着々と「未来食堂」への道が始まったようにも思えるが、彼女自身は、食堂を開くことなどまったく考えていなかった。偏食の自分が、他人に食を提供するのは難しいと思っていたようだ。

「子どものころからずっと偏食。というか、好きなものしか食べない。ご飯と枝豆だけ延々と食べたり、大学時代はざるそばとシリアルだけで1年間。社会人になっても昼食はヨーグルトだけ、とか。にんじんにハマると、普通の人ならドン引きするようなにんじんだけを使った料理を作っていたくらいです」

当時のパートナーは、文句も言わずににんじん料理を食べてくれた。

「私はそれが普通だと思っていたんです。でも、あとになって彼に聞くと、『ビックリしたけど、普通に一緒に食べるのが、この人にとっていちばんいいんだろうと思って』と言ってくれたんです」

人をありのまま受け入れる彼の姿勢こそ、未来食堂の根幹だ。

■コロナでも、未来食堂は「人と共にいる」と思える場所に

現在、営業時間は火〜金の11時から15時まで。土曜は不定期営業だ。コロナの影響は大きかったが、小林さんはブレていない。

「コロナでも、人と共にいると思える場所になっている象徴が、このガラスの計量カップなんですよ」

カウンターに置かれた赤い目盛りの計量カップには100円玉が数十枚、入っている。未来食堂にはレジがない。お客はたいがい千円札で支払うが、おつりは自分で計量カップから持ち帰るのだ。

「お客さまの便利のためというより、あなたを信用していますというメッセージです。コロナ以降、社会は人を信用することが難しくなっていますよね。体温を測らなくてはならなかったり、会話を控えなければならなかったり。そんななかでも、あなたを信用していますのメッセージは伝えたい。だから、続けていきたいです」

その日、準備したランチ40食は、14時前には、ほぼ完売。お客さんは次々に、千円札をカウンターに置き、計量カップの100円玉と、缶の中に入っている小さな100円引き券を1枚、もらって帰っていく。これで次回は800円で定食が食べられる。

「ごちそうさま!」

お客さんの満足げな背中を、小林さんの「おそまつさまでした」の声が追いかけたーー。

【後編】元ITウーマンが開いた“1食無料”の食堂 誰もが安心できる居場所をへ続く