文=石崎由子(uraku)

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混迷ともいえる2020年、21年を終え、明るい兆しが見え始めた22年の1月、高尾山のほど近く、東京都八王子市に新たに誕生した東京八王子蒸溜所より「トーキョーハチオウジン」の販売が開始されました。発売されると、わずか2週間で初回蒸溜分は完売。また5月には「東京ウイスキースピリッツコンペティション2022」にて金賞&銀賞を受賞したというこの「トーキョーハチオウジン」は、さまざまな興味深いストーリーをバックグラウンドに持つメイドインインジャパンのクラフトジンです。それは代表者であり蒸溜者でもある中澤眞太郎さんの思いや、哲学はもちろん、彼も予期しなかった家族とのつながりを感じさせる懐の深いお酒でした。

戦後の近代化を支えたサッシメーカーの新たな取り組み

「トーキョーハチオウジン」の発表とともにお披露目された東京八王子蒸溜所は、八王子と言っても市街地ではなく、京王線高尾駅一つ手前の狭間という駅から歩いて8分ほどの、のんびりと空の広さを感じられる場所にあります。それは代表者である中澤眞太郎さんの祖父が、戦後間もなくこの地で日本初の樹脂製窓の製造を始め、今ではさまざまな建築素材や部品など樹脂押出成形部品の製造を行う、大信工業株式会社の敷地の一画に位置します。

 その大信工業の3代目となる中澤眞太郎さんがどのような経緯と思いで蒸溜所を立ち上げクラフトジンの製造に至ったのか、またどのように作り込み、発売間もなく賞を受賞し、売り切れてしまうほどの商品へと発展させたのか、その秘密を探ります。

 普段は蒸溜の仕事で忙しいという中澤さんですが、取材に訪れた日は蒸溜所の2階にあるバーで(現在準備中でバー営業はされていません)、できたばかりの「トーキョーハチオウジン」をお披露目してくださいました。

 まず目を惹くのは、スタイリッシュなその姿、薬瓶のようなボトルに、八王子の“八”からイメージしたという八角形のすっきりとした美しいデザインのラベルは、今まで見たクラフトジンとは一線を画します。カタカナで表記した商品名は、どこかノスタルジックな雰囲気も漂わせ、さまざまなものが混在する東京を感じさせます。ロゴマークにはトロンボーンの原型というサックバットが使われ、トロンボーン奏者でもある彼の音楽への思いも感じさせてくれます。

 第一弾として今回発売されたのは、「クラシック」と「エルダーフラワー」の2種類。「クラッシック」は近年国内で密かにブームとなっているクラフトジンの多くにみられるような、地域性や薬草種としての魅力を全面に出すスタイルではなく、あえて原点に立ち戻り、ロンドンドライジンのようなカクテルベースとして楽しんでもらえるようなジンを東京でという思いから作られたジンで、さまざまなジンを楽しんできた“今”の私たちが求めるクラッシックのスタイルを考えて組み立てられたジンです。

エルダーフラワー」の方は甘夏とエルダーフラワーの香りがグラスに注ぐとふわりと広がり、爽やかで軽やかな飲み心地でありながら奥深い味わいがジン初級者でも楽しめるのが特徴です。実際アルコール度数も少し抑えてあるのでライトな感覚で楽しめます。

 立ち姿から味わいまで、この「トーキョーハチオウジン」は心地よいほどにバランスよくこだわりを詰め込んだお酒と言えます。

 

ジンとの出会い

 現在は大信工業株式会社3代目と、東京八王子蒸溜所代表という顔を持つ中澤さんですが、学生の頃はすんなり跡を継ぐという道には反発し、高校卒業後海外留学、音楽を志したり、その後帰国して飲食店で働いたりと、親から続くレールからはみ出そうとしていたそうです。しかし夢は思い描くほど上手く進まず、さまざまな挫折を味わったことや、両親からの説得もあり、家業を継ぐことになります。

 道半ばで諦めての帰郷でしたが、ご自身がそれまで経験してきたことが、家業での仕事でさまざまなシーンで生かされていくことに気づき、やりがいを感じ始めたのだそうです。

 そんな頃、中澤さんはある特別な“ジン”と出会うことになります。

 また会社でも、時代の変化に伴い、新しい事業を何か始めようという話が持ち上がっていた時期でした。日々、何ができるのだろうと、仕事をしながら頭を悩ませ考えていたのだそうです。

 飲食店でも働いていたというだけあり、もともと食べること飲むことは大好きで、特にお酒を飲むことや飲む場所が好きな中澤さんは、北海道出張の時に、仕事帰りに時折立ち寄る「舶来居酒屋 杉の子」という函館にあるバーでオーナーからある“ジン”を勧められます。

 それは「飲む香水」と言われた「Distillerie De Paris」で作られた“ジン”で、飲んだ瞬間「これがジン?」と思うほどの口と鼻の中で華やかで豊かな香りが広がり、そのあとも奥深い味わいが広がり衝撃を受けたのだとか。そして同時に、“ジン”の持つ可能性の広さを感じ、心が躍りワクワクする気持ちが立ち上がってきたそうです。

良き理解者と指導者との出会い

 すっかりジンの魅力に取り憑かれた中澤さんは、その後さまざまな場所でジンを飲み、魅力を探り始め、そこでまた新たな可能性と人材に出会うことになります。それは札幌にある「Bar nano」というバーで飲んだ5種類のジンをブレンドして作ったカクテルジントニック”の作り手、富田さんでした。

 バーテンダー富田氏のクリエイティビティーとクオリティーから生み出された素晴らしい味わいに、またもや衝撃を受けた中澤さんは、“ジン”の持つまた違う可能性を強く感じ、新しい事業はこれしかないと強く思い始めたのだそうです。その出会いは大きく、富田さんは今も良きアドバイザーとして「トーキョーハチオウジン」の製作に関わっています。

 

アメリカへ蒸溜の勉強を

 うっすらと輪郭を持ち始めた新しい事業、八王子で蒸溜所を作りたいと思い始めた中澤さんは、まず当時の社長である父やスタッフを説得して理解を得た後、勉強のためアメリカのシカゴにある蒸溜所KOVAL社へ向かいCEOのRobert Birnecker氏から直々に指導を受けます。KOVAL社を選んだのは、ここの蒸溜酒のクオリティーだけでなく、生産規模や背景など全てにおいて自分の目指す蒸溜所にとってぴったりだと直感的に感じたからなのだそうです。

 そしてこの頃から、地域性やハーブの特徴をブランディングとしていないスタンダードで伝統的なジンを東京という場所で作りたいという、自身の目指す方向性も少しずつ固まり始めます。

 KOVAL社での研修においてその思いはさらに強まっていき、その構想をRobert Birnecker氏に相談したところ、良いアイデアだと背中を押してもらえたこともあり、蒸溜所設立と“ジン”作りはさらに現実味を帯び始めます。

 

このコンセプトと思いを形にしてくれる人に

 お酒作りに関して、応援者や協力者を得た中澤さんでしたが、今度は製品にするときのデザインや醸し出す空気感、世界観をどのようにしていくかというブランディングという部分に悩み始めます。

 そこで、以前から交流のあったデザイナー・クリエイティブディレクターの辰野しずかさんへお願いをすることになります。辰野さんは、その物の持つ背景や深層の中からポジティブな部分を見つけ、引き出し可視化して、デザインから世界観まで作り上げることに定評があり、またそのデザインは凛としてスッと芯が通った魅力があります。

 辰野さんを中心に、グラフィックデザイナーの小熊千佳子さんをはじめブランディングチームが作られ、実に2年の歳月をかけて中澤さんの思いや経験を反映した「トーキョーハチオウジン」は少しずつ形になっていったのだそうです。

異業種へのチャレンジは祖父から

 蒸溜所設立までのお話を伺っていると、まるですんなりと運命のように立ち上げまで進んでいたかのように感じますが、ふと考えてみると、全くの異業種。中澤さん自身も家族も異業種への参入への抵抗はなかったのか。それを知るために少しだけご家族のことも伺ってみました。

 現在の八王子にある大信工業株式会社は中澤さんの祖父が代々木で立ち上げ移転してきた会社ですが、祖父以前のご先祖は、代々長野県諏訪で製糸業を営んでいたそうです。曽祖父は諏訪のシルク産業の歴史では有名な片倉財閥とも関わりがあった方で、一時は片倉工業の社長もされていたようです。

 そんな歴史を持ちながらも戦後、祖父は戦友からの勧めで樹脂製造の工場を立ち上げます。それはその後の日本の潮目を見極め、発展していく産業だと直感で感じたからなのだとか。実際、樹脂製造産業は日本の高度成長を支える一つとなっていきました。

 そんな祖父の血なのか、中澤さんが行った今回の事業はまるで同じような流れを感じます。これから必要な事業、発展が見える事業を直感で見極め、見つけたらそれに邁進していく、その行動力はもしかしたら受け継がれてきたものなのかもしれません。

 

「トーキョーハチオウジン」の目指すところとは?

 そんな中澤さんに「トーキョーハチオウジン」の目指すところは? と伺うと、真っ先に「愛されるジンでありたい」と答えてくださいました。

 彼のアイデンティティである音楽と飲食業に共通するのは、「お客様を楽しませ、幸せな気持ちをもたらすことができる」こと。それを東京八王子蒸溜所で生み出せたら、という思いを込めながら日々作業されているのだそうです。そして、地域性やハーブの個性を出し魅力としているジンとは違う、スタンダードで長く愛されてきた“ロンドンドライジン”のように、脇役となっても、それ単体でも輝きを放つ味わいをもつジンを提供していきたいのだと語ります。

 厳選を重ねたボタニカルの素材と、欧州から取り寄せているコーンスピリッツを使用し伝統的な製法で試行錯誤を重ねて作られた「トーキョーハチオウジン」の味と香りには、深みと華やかさと厳格さが感じられます。それはオーケストラが指揮者のタクトにより様々な音を重ねハーモニーを生み出し楽曲を表現するように、中澤眞太郎という蒸溜者によって味と香りが引き出され、それらが絶妙に響き合いながら広がりと深みを重ねていきます。それがバーテンダーの手に渡れば、名脇役となったり、ベースとなったりして、全く新しく奥深いハーモニーを生み出すのです。

 愛飲家だからこそ、求められているお酒は何か、という思いを素直に感じ取り、またそのことへの追求をワクワクしながら楽しみ、時代という波に乗りながら軽やかにチャレンジする。好きなことだからこそ時折ぶつかる壁に苦しみながらも楽しんで乗り越える。

 八王子という恵まれた環境の中で、家族と先祖に見守られ、自らが築いた協力者や応援者に背中を押されながら、業種のカテゴリーを超えて自分の求める蒸溜酒を探求する中澤眞太郎さんの姿は、多様性という言葉をよく耳にするようになった“今”だからこそ、未来のワークスタイルなのかもしれません。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  創業359年の老舗酒造メーカーが、あえて挑んだリブランディング

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