フランソワトリュフォーの生誕90周年を記念した特集上映「生誕90周年上映 フランソワトリュフォーの冒険」がいよいよ明日、6月24日(金)より角川シネマ有楽町ほか全国で順次スタートする。ジャンリュック・ゴダールらと並び、“ヌーヴェルヴァーグ”の中心人物として語られるトリュフォー。ヌーヴェルヴァーグと聞くと想起される哲学的で複雑な芸術映画のイメージを軽やかに拭い去るその作品群は、娯楽性の高い画面によってフランス映画らしい愛くるしさにあふれている。

【写真を見る】いま観ても先進的な“愛のシネアスト”が紡ぐ傑作の数々がスクリーンに!フランス映画の入門にはうってつけ

そういった意味では、ヌーヴェルヴァーグやフランス映画、あるいは古典といった現代の映画ファンからすると少々敷居の高い印象を受ける映画群に触れる入門として、これほどまでにふさわしい作家はいないのではないだろうか。そこで本稿では、トリュフォーの代表作に触れながらその軌跡をたどり、“いまトリュフォーを観ること”の意味を探っていきたい。

■「愛」と「子ども」を描く、“愛のシネアスト”

1932年にパリで生まれたトリュフォーは、劣悪な家庭環境から逃れるように映画に没頭し、10代でシネクラブを主催。そして映画批評家で後に「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長を務めたアンドレ・バザンと出会い、父子のような関係を築きながら自らも映画批評家として活動を始める。短編映画を経て『大人は判ってくれない』(59)で長編デビューを飾り第12回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞し一躍脚光を浴びると、以後はヌーヴェルヴァーグの旗手として、またスリラー映画やSF映画などあらゆるジャンルに挑戦。先日亡くなった名優ジャン=ルイ・トランティニャンが出演した『日曜日が待ち遠しい!』(83)まで、21本の長編映画と4つの短編を手掛け、1984年に52歳で短い生涯に幕を下ろした。

「愛」や「子ども」をテーマに据えた物語を紡ぎつづけ、“愛のシネアスト”とも称されるトリュフォー。そう呼んだのはトリュフォーも参加したシネクラブ「オブジェクティフ49」のメンバーで、映画監督としても活動した批評家のアレクサンドル・アストリュックと言われている。そのアストリュックといえば、作家主義思想の原点となる「カメラ=万年筆」という理論を提唱したことで知られる映画史的に重要な人物。映画は作家が万年筆で書くように、カメラによって書かれるもの。つまりそれまでの映画文法の主流であったモンタージュ(編集)ではなく、ワンショットに物語性とテーマを詰め込んだカメラ(撮影)によって映画は語られるのだということだ。

その理論は、カメラに動きを持たせてロケーション撮影や即興演出をひとつのルールとしたヌーヴェルヴァーグをつかさどり、同時録音とあいまって生きた映画をつくりだしていった。ましてや「愛」という限りなく即興的な人間の感情をテーマにしたり、「子ども」という予測不能な被写体を映しだすトリュフォー作品においては、その親和性は著しいものがある。そして同時にこれは、既存の映画の枠組みを飛躍した作品づくりへと結びつくことになる。その最たるものが「アントワーヌ・ドワネルの冒険」と呼ばれる5つの連作であり、あらゆる規範から解き放たれ、一人の人間の予測できない20年間をカメラで追い続けた人生の記録。もしくは生物のように“成長する映画”といってもいいかもしれない。

■「アントワーヌ・ドワネルの冒険」という映画を超えた体験

14歳の少年ドワネルが、家族との不和や馴染めない学校という枷に抗う姿を描く、トリュフォーの半自伝的作品『大人は判ってくれない』。17歳になったドワネルが感化院を出て自活を始め、コンサート会場で出会ったコレット一目惚れをするという初恋譚が描かれる短編『アントワーヌコレット』(62)。

どちらも思春期特有のやり場のない感情を描くわけだが、その預け先がタイトルに示されるように大人へと向けられた前者に対し、後者ではコレットの両親という好意的で“判ってくれる”大人の登場によって(また、自身の精神的な未熟さを棚に上げて)異性との関わり合いの苦悩へと向けられていく。いずれも自分自身とは違う立場・境遇の他者を前に、自分の思うままに物事が運ばないことに歯がゆさを噛みしめるという、半世紀以上前のフランスの物語でありながらも、現代の日本の青少年たちの感情に限りなく近いものがある。

やがてそれが20代前半のドワネルを描く『夜霧の恋人たち』(68)では、大人や異性が“判ってくれない”のではなく、自分自身が自分自身を“判っていない”だけであると徐々に気付き、より複雑な内省がはじまっていく。ひょんなことから探偵の手伝いをし、依頼人の夫人に恋心を抱くも、その感情をうまく取り扱うことができず、ドワネルは自分の未熟さを痛感するのである。

4作目の『家庭』(70)では花に染色をするという不可思議で危なっかしい仕事をしながら、昔のガールフレンドだったクリスティーヌと結婚したドワネルの未熟さと無責任さがことさらに強調される。日本人女性と不倫をしながら、またクリスティーヌとの間に子どもが生まれ父親になっても不安定なまま。しかし自分の半生を綴ることでそこに彼自身が過去を省みる兆しが現れる。最終作の『逃げ去る恋』(79)で30代半ばのドワネルは、自伝小説を発表しクリスティーヌとは離婚。サビーヌという新しい恋人がいるが、彼女と喧嘩した直後に実らなかった初恋の相手コレットと再会する。

まるでドワネル自身があまりにだらしなかったこれまでの人生を省みるように、劇中には過去作の映像が次々とインサートされていく。ドワネル役のジャンピエール・レオーをはじめ、コレット役のマリーフランス・ピジェら俳優たちが物語のなかと同じ時間軸のなかで成長していくその様は、映画を観ているのではなく、彼らの人生の要所要所を覗き見しているような気分になる。そしてそれは、それぞれの年齢で起こりうる人生の岐路との向き合い方を示してくれるのである。

■ユニークに軽やかに描かれる、“人間”という魅惑的な冒険

連作・シリーズものであれば否が応でも過去作を観ていなければという先入観にとらわれてしまうが、一つ一つの作品に異なるテーマが添えられている以上、それぞれが独立したものとして存在できる。もちろん5作すべて通しで観るに越したことはないのだが。そうした物語的な旨味に限らず、映画としての楽しさや軽やかさを高めてくれるのは、なんといっても登場人物たちの無軌道なまでの感情な揺らぎだ。

例えば『大人は判ってくれない』の中盤、家で失火を起こして父親に厳しく叱責されるドワネル。すると突然、母親がジャック・リヴェットの『パリはわれらのもの』(61)を観に行こうと提案する。次のシーンで映画館から出てきた親子3人は仲良く手を繋いではしゃぎ回りながら家に帰ってくる。『家庭』の終盤、不倫相手の日本人女性に嫌気が差し始めたドワネルは、デートの食事の合間に何度もクリスティーヌに電話をかけて愚痴をこぼし、結局クリスティーヌとの関係を修復する。人間の感情や自己の確立、他者との関係がいかに難しく、それでいていかに滑稽なものであるかを感じさせられる。

20年も同じ人物を見つめてきた作家とあって、ほかの作品においても登場人物の描き込みはずば抜けている。自由奔放なヒロインに振り回される二人の男を描く初期作の『突然炎のごとく』(62)、男たちをまんまと手玉にとる服役中の女性をベルナデット・ラフォンが演じた『私のように美しい娘』(72)やイザベル・アジャーニの演技に引き込まれる『アデルの恋の物語』(75)、晩年の『終電車』(80)と、トリュフォー映画の女性たちは常に男性から飼い慣らされることなく独立した存在としてあり続け、「ドワネルの冒険」で自省を込めて描かれた未熟な男性の姿と対照的になる。これもまた、長い歳月を経ても先進的なままであり続けるトリュフォー映画の特徴といえるのではないだろうか。

今回の特集上映では、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」5作や前段で挙げた4作を含む、長編10作品と短編2作品の計12作品が上映される。また、Apple TVアプリの「MOVIE WALKER FAVORITE」チャンネルでは現在『大人は判ってくれない』と『柔らかい肌』(64)、『恋のエチュード』(71)が見放題配信中。さらに、今回上映される4Kデジタル・リマスター版作品などの追加も今後予定されているそうだ。

映画館のスクリーンでその魅惑的な冒険を味わったら今度は配信でも、その世界を噛み締めるように隅何度でも堪能してほしい。

文/久保田 和馬

フランソワ・トリュフォーを代表する「アントワーヌ・ドワネルの冒険」から“いま観ること”の意味を探る/[c]MK2