ことでん」こと高松琴平電気鉄道には、経済産業省が「近代化産業遺産」に認定した3両のレトロ電車が在籍しています。すでに1世紀近く前の製造ながら、一部は作業用車両として現役。その歴史を振り返ります。

琴平電鉄開業時に新製された

ことでん」こと高松琴平電鉄は、香川県内で3路線を運行する鉄道会社です。歴史をたどると3社が合併し誕生していますが、そのうちの1社である琴平電鉄は、1926(大正15)年に栗林公園~滝宮間を開業させました。そしてなんと、その開業時に新製された電車が、2022年現在も使われていることをご存じでしょうか。

その電車とは、1000形120号と3000形300号です。1928(昭和3)年に製造された5000形500号とともに、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されています。

なお、ことでんのレトロ電車としては、元近畿日本鉄道の20形23号も近年まで現役で、こちらは1925(大正14)年製造とより古い車両でしたが、近代化産業遺産となっているのは概ね原型が保たれている先の3両です。ではそれぞれについて、その歴史と現在の様子を見ていきます。

まずは1000形120号です。琴平電鉄開業に備えて、1000形は100・110・120・130・140の5両が、1926(大正15)年に汽車製造株式会社で製造されました。

特徴は両端に運転台を持ち、単体で走行可能な客車であること。全長14.5m、幅2.6m、高さ4.1mと、現代から見るとやや短い車体です。窓の縁は曲線で構成され、正面と側面に取り付けられた車板も楕円形をしているなど、優美な雰囲気です。ちなみに登場時は車内がニス塗りで、戸袋窓が楕円でした。

興味深いのは歯車比が3.5であることです。歯車比は数字が小さくなるほど高速運転向きで、大きくなるほど最高速度が落ちるものの加速力が上がります。1000形の歯車比は、国鉄の特急形151系電車などと同じで、高速寄りのセッティングです。高松(現在の瓦町)~琴平(現在の琴電琴平)間は31.2kmあり、当時の電車としてはかなりの長距離運転であることに配慮したのかもしれません。

引退してもどっこい現役?

1000形は登場以来、琴平線で運用され、1967(昭和42)年から更新工事がなされると、志度線、そして最後は長尾線専用電車として使われました。1988(昭和63)年には「鉄道友の会」より「エバーグリーン賞」を受賞。2007(平成19)年まで定期列車として使われたのち、イベント用の動態保存車となります。

2009(平成21)年に先述の近代化産業遺産に認定されましたが、昨2021年に惜しまれつつ引退。現在では仏生山工場にて、可動状態を保ったまま事業用車両となっています。

同い年 3000形300号とは

3000形300号も1926年製。3000形は日本車両株式会社で300・315・325・335・345号の5両が同年に製造されました。1000形と同様に製造番号が連続した数字ではないのが特徴です。

全長は1000形よりやや長い14.7m。幅と高さは同じです。外見上の特徴は側扉の戸袋窓が楕円であることで、これは2003(平成15)年に復刻されたもの。1000形と異なり、通常の側窓は角ばっています。また、窓の上下に補強板「ウィンドシル・ヘッダー」があります。

歯車比は1000形よりさらに低い3.14。これは現代のE7・W7系新幹線(3.04)に近い数字で、より高速向けといえます。

製造費は3万3750円。現在の貨幣価値に直すと約2.61億円とのこと(1000形は3万5600円なので約2.75億円)。JR山手線E235系電車が1両1億数千万円程度のようなので、大正時代の電車が高額だったことが伺えます。

新製以来、琴平線で活躍していましたが、1976(昭和51)年より志度線へ。その後は1000形120号とほぼ同じ変遷をたどります。現在はやはり仏生山工場にて事業用車両となっています。

1年後輩 5000形500号とは

5000形500号は、1927(昭和2)年の琴平電鉄全線開業と、高松で開催された全国産業博覧会の輸送に対応するため、加藤車両株式会社で製造されました。500・510・520の3両が製造されていますが、登場当時は片側運転台かつモーターを持たない客車だったため自走できず、1000形3000形と編成を組む必要がありました。

その後1953(昭和28)年、パンタグラフを車両の高松築港寄りに、運転台を琴電琴平寄りに設置しました。台車を営団地下鉄から譲り受けて電装も施したことで、自走可能となりました。寸法は3000形と同じですが、車体が角ばっており武骨な雰囲気です。また、テールライトが正面窓上部に取り付けられています。

歯車比は3000形と同じ3.14で、現役時代は80km/h以上の速度を出せたようです。ことでんで戦後間もなく急行が運転されていた時期は、高松築港~琴電琴平間が最速39分(表定速度50.6km/h)であり、かなりの高速運転が行われていたと想像できます。

なお、5000形の製造費用は1万6300円であり、片運転台で電装がなかったことで、1000形3000形の半分以下の価格でした。

琴平線長尾線の共通増結車として生まれた5000形は、1000形3000形よりも遅い1990(平成2)年ごろより、長尾線専用となります。その後は1000形3000形と同じです。引退は2020年。現在では高松市勅使町の建設会社「南部開発」に譲渡されています。

なぜ20形は「近代化産業遺産」ではないのか

最後は20形23号。この車両のみ大阪鉄道(現在の近畿日本鉄道南大阪線ほか)が、川崎造船所に製造させたもので、1925年の製造時はモ5621形と呼ばれていました。他のレトロ電車よりやや長く、全長15.2m、高さ4.2mです。

その後1961(昭和36)年に譲渡され、ことでん20形21~24号として計4両を保有することになります。この際に、5枚窓だった前頭部は貫通扉付きの平妻形に変更されました。またモ5621形には側面に飾り窓があったのですが、車両延命措置で撤去されています。こうしたスタイルの変化もあって、レトロ電車では20形23号のみ、近代化産業遺産に認定されていません。

とはいえ、製造時からの飾り柱が車内に備わるなど、その美しさは健在。2020年に引退後、高松市牟礼町でお遍路さんの休憩所となっています。

なお、著者(安藤昌季:乗りものライター)は全てのレトロ電車(動態保存車両)に乗りましたが、車体はリベットが多数打たれ、車内は木造、狭い運転台、大きな振動や揺れ、釣りかけ式モーター音など、旧型車両の趣を感じました。先述の通り、現在も2両が事業用車として健在ですので、イベントなどでの公開が待ち望まれるところです。

ことでん1000形120号(2019年3月、安藤昌季撮影)。