17歳、5歳、3歳、養女と知人の子を殺し…犯罪史上に残る“異様さ”「京都帝大農学部前4人殺し」 から続く

 47歳の女性・平松小笛と、17歳、5歳、3歳になる彼女の養女と知人の子の遺体が発見された1926年の「小笛事件」。逮捕されたのは、交際相手だった廣川條太郎という20代会社員だった――。

◆◆◆

 廣川の経歴は京都日出と、京都日日にある。より詳しい京都日出は、京都帝大で調べた結果として次のように書いた。

〈 原籍・新潟県北魚沼郡小千谷町69番地、廣川利兵衛の長男として明治32年7月4日まれの当年(数え)28歳。大正10(1921)年、小樽高商(現・小樽商大)を卒業して直ちに京都帝大経済学部選科に入学し、同13(1924)年、選科を修了してから神戸で就職したものである。〉

 対して小笛の経歴は、7月2日付京都日出朝刊に見られる。

〈 四国の愛媛生まれで22歳のとき岡山に来て、都窪郡庄村(現・倉敷市)、平松慎一と結婚した。岡山県は花筵(はなむしろ=花見のときなどに敷くゴザ)の産地で、四国から多くの年ごろの女が出稼ぎに来ているが、とかくの定評がある。小笛も定評通りの女だったらしい。結婚後、夫婦で朝鮮に渡ったが夫に死なれて夫の郷里の岡山に帰り、大正10(1921)年1月、京都へ来て出町柳で下宿屋を開業した。千歳は(朝鮮の)仁川で両親を失った孤児を引き取ってわが子としたらしい。また八瀬に一家を構えている実子、森田友一は、平松慎一と結婚する前になれ合った男との間にできた子で、友一が生まれるとすぐ、その男と乳飲み子の友一を捨てて走ったという。〉

「小笛の自殺説」「犯人は廣川と断定」入り乱れる報道の中で…

 事件はその後「廣川に對(対)する確證(証)未だ擧(挙)らず」(7月2日付京都日出朝刊)、「九分通り廣川の所為 刑事課長の言明」(同日付大朝朝刊京都滋賀版)、「俄然捜査方針一轉(転) 遂に迷宮に入つ(っ)た」(7月2日発行3日付京都日出夕刊)などと続報が伝えられた。同じ2日発行3日付の京都日日夕刊には初めて平松小笛の顔写真が掲載された。

 廣川の父や神戸信託の上司らは、普段の性格や事件後の態度などから「廣川は無実」との声を上げた。

「小笛の自殺説」(7月2日発行3日付大朝夕刊)、「犯人は廣川と断定」(7月4日付大朝朝刊)、「有力になつた小笛の自殺説」(同日付大毎朝刊)など、報道が入り乱れる中で7月4日午後、廣川に対する拘引状が執行され、5日、身柄が京都刑務所上京区支所へ収容された。

 5日発行6日付京都日日夕刊は2面トップで「裁判所の広場に集まった廣川の見物人」の説明付きの写真を掲載。こう報じた。

〈 新聞記事によって知った近所の者はもとより、遠く自転車を駆って廣川を見んものと、5日早暁から下鴨署前は数百の群衆で埋まり、車両の交通にさえ支障をきたすほどだった。やがて午後1時20分になると、府刑事課の護送自動車が署の車寄せに横づけされるや、ソリャコソと南北から駆け付ける見物人いよいよ数を増し、おそらく下鴨署設置以来初めての混雑ぶりを見せ、今か今かと廣川の姿が北横門に現れるのを待ち受けた。かくて廣川は2名の警官が厳重な監視の下に、和服姿に編み笠をかぶらせ、各新聞の写真班を避けて洋傘を着せかけ、車に乗り込ませて1時40分、上京支所表門から収容した。〉

 同年7月13日、殺人罪で予審に付され、約9カ月にわたる予審判事の取り調べのすえ、翌1927年4月12日、有罪で公判に付されることが決定した。

 理由は、小笛が生活困難に陥り、養女千歳が病弱で将来がおぼつかないうえ、廣川との関係を長く続けられないことを悲観。廣川に情死(心中)を持ち掛け、拒み切れなかった廣川は小笛の嘱託を受けて絞殺。犯行の発覚を恐れて千歳、喜美代、田鶴子の3人を殺害し、小笛の遺体を鴨居につるしたという嫌疑だった。

検察の判断の背景には3通の“遺書”が…

 検察がそうした判断に至ったのには、彼らが証拠と主張するいくつかの遺留品があった。大朝が書いた机の上の「遺書」はその1つだ。

 小笛が書いたと断定された「遺書」は3通。うち最も重要視された知人宛ての1通は、切り取った原稿用紙1枚に書かれていた。使われた紙は全部廣川の家にあったものだった。

 遺書の内容は山本禾太郎「小笛事件」と、やはり事件に詳しい鈴木常吉「本当にあつた事 謎の小笛事件その他続篇」(1929年)とで細かい点に違いがあるが、「小笛事件」が「不明」とした部分まで解読している「本当にあつた事」に頼ろう。

〈 フクダサンニタノム、アルシナモノワ、ヲテラニ、アゲテクダサイ、トモイチニワ、ハシモヤラナイデクダサイ、ヒロカワサンカイイキテワソワセマセンデ、フタリガシンデシマイマス、福田サンニ大島一重トモンチリメントヲ三枚アゲマス

 チトセガカワイガ、マルタマチニ、コノコワワタシノタメニワナラナイト、イワレタノデ、ナンニモタノシミワナイ、ソレデヒロカワサント、フタリデシニマス

 コフエ、ジョタロ

 シヌユウテウソユウタライカヌヨ、チトセワアナタガコロスノデスネワタクシワサキニシニマスチトセタノム〉

 実際に小笛はほとんどカタカナしか書けなかったという。「ヲテラ」とは菩提寺のことで、「トモイチ」は不和だった実子の森田友一のこと。「マルタマチ」は頼っていた祈祷師だったとされる。

 3つの部分に分かれ、中央は黒鉛筆で、前後は赤鉛筆で書かれていた。「ジョタロ」の後に「廣川」の印鑑が押されていた。記述に矛盾するところもあるが、検察側は都合のいいところを取り上げて、落ちていた名刺と合わせて廣川有罪の根拠とした。

 しかし、「ジョタロ」に印鑑という点だけみても、遺書として不審を抱かなければおかしいだろう。ほかに、大朝にもあるように、千歳の友達宛ての封書が2通。いずれも病弱を嘆いて将来を悲観したような、友人関係を気にしたような少女らしい文章だった。

予審判事が有罪とした最大の根拠

 そして、予審判事が有罪とした最大の根拠は小南教授の鑑定結果だった。

 小南教授は事件発覚の6月30日に現場に駆け付けて検視をしていた。千歳、喜美代、田鶴子の3人が何者かに絞殺されたことは疑いがない。問題は小笛の遺体の状況だった。鑑定書は「本当にあつた事」「小笛事件」にも記載されているが、ここは香川卓二編「法医再鑑定例」から鑑定書の要点を見よう。同書は小笛を「高松」姓にするなど、わずかに仮名の措置をしているが、現代文にして要約すると――。

〈 小笛の遺体は、同家奥六畳間の東側の鴨居の中央からやや南側に寄った所に首をつった状態で、黒のしごき(兵児帯)によって下がっていた。頭頂は鴨居の一番下から約25センチ。両足は確実に鴨居か畳に触れており、両足の間に高さ約30センチの唐金火鉢と、それに沿って横倒しになった中型のまな板があった。〉

3つの可能性を検討した結果、出た結論は…

 着物の着方なども、普段の小笛らしくなく乱れていて、他殺の見方を補強した。そして、解剖では最も問題となる首の索条痕(索溝と表現されている)についてこう記している。

〈(イ)ノドのすぐ上方をほとんど水平に走り、そこから下あごの隅に沿った後、上方に上がり、耳たぶの直下に接して終わる幅1.8センチの褐色のへこんだ皮膚変色が1本ある。

 

 その(イ)の索溝から下方約2センチの所に幅約2センチの淡い赤紫色の索溝(ロ)がある。その左右の端は両下あご隅のすぐ下3センチの所に始まり、そこから発する2つの線はわずかに斜め内側に走り、(イ)とは平行せず、前方にわずかに開いた角度をとり、所々にヒエの粒かアワの粒の大きさの濃い紫色の皮下出血がある。

 

 この左右の2つの線はほとんど首の中央から上方に向けて約120度の角度を成している。先端部には少しも索溝が見られない。(イ)(ロ)の間の皮膚には全く異常はない。〉

 皮下出血が(イ)には見られず、(ロ)に顕著だったことからも、小南教授は「(イ)は死後あるいはそれに近い段階で生じ、(ロ)は生前に生じたとみなすのが合理的」と判断。3つの可能性を検討した結果、こう結論づけた。

〈 私は、他人が小笛を絞殺し、その後、鴨居につるし、自分で縊死したように装ったとすることが最も妥当と考える。〉

 小笛の遺体を直接見た鑑定医は小南教授1人。この鑑定が事件を論争と混乱に巻き込むことになる。もう1つ、廣川が事件の知らせを聞いて神戸から京都へ向かう車中で自責の念を吐露した手記がのちに「犯人」である証明とされたことも大きかった。

「早朝から傍聴人は続々と詰めかけ、150枚の傍聴券も瞬く間に出切った」

「一人も殺さないと 廣川、法廷で犯行を否認す けふ(きょう)四人殺しの一周年忌に 謎の北白川事件公判開かる」。1927年6月27日発行28日付京都日日夕刊は2面トップでこの見出しを立て、京都地裁での初公判を報じた。

 この日早朝から傍聴人は続々と詰めかけ、150枚の傍聴券も瞬く間に出切った。法廷は立すいの余地もないすし詰めの満員で、入廷できない多数の群衆は、せめて法廷に送られる廣川の姿を見ようと、廊下の両側に人垣を築いて物々しい状態。やがて9時40分、看守に引っ立てられた廣川はお召(高級ちりめん)の単衣(ひとえ=裏のない着物)に絽(ろ=夏用絹織物)の羽織を着流し、1年間の未決監生活に疲れた様子もなく入廷した。

 各紙が伝えた廣川の陳述の要点は――。

〈1、小笛の下宿にいた大学生時代の冬休み、他の下宿人学生が帰郷していて、小笛が「寂しいから階下で寝なさい」と言った。寒い時で、こたつに入って寝ているうち関係した。その後、千歳とも

 

2、そのことを知った小笛は「妻にしてやってくれ」と言ってきた。その際、千歳の学費を月々30円(現在の約5万円)くれと言うので、一時金として250円(同約40万円)を渡した。その後もさまざまな理由で何回か、金品を渡した

 

3、神戸信託に就職が決まった際、手切れ金として120円(同約19万円)を渡したが、神戸の下宿に移ってからも関係は続いていた。ほぼ毎週土曜日に京都の小笛の家に来て泊まり、月曜早朝に神戸に戻る生活をしていた

 

4、永久に関係を続ける考えはなかった。小笛は強度のヒステリー性の女で、極端から極端へ走り、親切な時は非常に親切。しかし神経過敏で、何か立腹すると二言目には「死ぬ」と言って騒ぎ、私が縁を切ろうとすると脅迫する。私が妻をもらうことになれば「祝言の席へ暴れ込む」とか「社へ怒鳴り込む」と言って脅すので非常に困っていた

 

5、6月20日の夜、「これからはあまり来られないから」と言うと立腹して「京都に来てくれなければ死ぬ」と言う。「短気を起こしてはいけない」と慰めた。小笛は「心中してくれ」と言ったが「引っ越して商売でも始めた方がいい」と相談に乗らなかった

 

6、27日の夕飯は7時ごろに済まし、9時ごろ就寝。28日午前4時半ごろ、小笛が起き、20円(現在の約3万円)を無心されたがきっぱり断り、神戸に帰った

 

7、遺書は小笛の筆跡だが、私は全く知らない。印鑑は私の物だが、押したことはない。きっと小笛が盗み出して押したと思う〉

 廣川にとって不利だったのはアリバイ6月27日の夕食時間について廣川は途中で供述を変えるが、検察は近所の人の証言などからも午後7時ごろと推定。小南教授は4人の死を食後7~8時間と鑑定したので、犯行は28日午前3時ごろとなる。廣川自身、小笛宅を出たのは同日午前5時半ごろと証言しているため、廣川は事件当時、現場にいたとみなされた。

他殺か、自殺か、死刑か、無罪か…事件をめぐる「法医論争」

 この初公判で弁護側は、参考資料として草刈春逸・京都帝大医学部講師の意見書を提出した。「法医再鑑定例」に掲載された意見書を見ると、小笛の首の2本の索溝のうち、下方の(ロ)は「絞殺による索溝として見ることは牽強付会で、縊死による索痕として論じることが最も自然」とした。同じ京都帝大医学部に籍を置きながら、小南教授の鑑定に公然と異を唱えて「自殺」を主張したことになる。

 この事件をめぐる「法医論争」の幕開けで、6月28日付朝刊では、京都日出が「分岐の點(点)は自殺と他殺」、大朝も「疑問の『小笛の死』 絞殺説と自殺説」の見出しを立てた。

 高山義三・主任弁護人はこの意見書を補強材料に、新たに法医学者3人による鑑定を申請して許可された。高山は刑事専門弁護士として知られ、廣川が勤務していた神戸信託の支配人を通じて弁護を引き受け、この事件で一躍名をはせる。京都市生まれで京都帝大法科大学(現・京都大法学部)卒。のち1950~1966年の4期16年、京都市長を務めた。

「小笛事件」によれば、その3人の鑑定書は、中田篤郎・大阪医大教授が8月12日、三田定則・東京帝大教授が8月26日、高山正雄・九州帝大医科大学学長が9月19日に提出した。中田教授はのち徳島大の初代学長、高山氏ものち九州帝大総長を務めるなど、法医学会の重鎮。微妙な論旨の違いはあるが、2氏はいずれも大筋で小南教授と同じ他殺説をとった。三田教授もその後、台北帝大総長を務め、門下からは多くの法医学者が輩出した。彼だけが自殺説だった。

 その核心は、索溝(ロ)は小笛が最初に縊死を図った際の痕であり、その後、体がけいれんして兵児帯が上にずれ、(イ)の索溝を作ったと考えるのが妥当とした。三田教授は著書「自殺・他殺」(1933年)で、他殺論者が判断を誤ったのは、

(1)首をつるとしばらくして激しい全身けいれんが起こる
(2)まだ血液が循環している間に、ひもや縄が外れたり切れたりして圧迫が去ったときに皮下出血が起きる

 などの法医学上の留意すべき事実を忘れたからだと厳しく批判している。

 同年11月5日、日本法医学会大会が九州帝大で開かれた。「他殺か自殺か 小笛殺しを論戦の中心に」。5日発行6日付大毎夕刊はその模様を2面トップで伝えた。研究発表では小南教授が座長を務める中、小南門下の研究者が「索条と索溝に関する観察」の題目で、「暗に小笛殺し鑑定について他殺説の正当であることをほのめかした」(同紙)。会場には自殺説をとった草刈講師もいたが、裁判進行中ということで発言はしなかった。

 そこでは論争にはならなかったものの、事件から3年後には、三田教授が主幹を務める雑誌「社会医学雑誌」誌上で、三田教授と中田教授が小笛事件の見解をめぐって論争するなど、事件は学界を二分する騒ぎになった。

 法医学会直後の11月11日に開かれた公判も「他殺か自殺か死刑か無罪か 法醫学界に大渦を捲(巻)く」(11日発行12日付京都日出夕刊)、「三博士の鑑定も二派に分れ」(同日付京都日日)などと報じられた。11月19日、検察側は2時間半にわたる論告で死刑を求刑。事件後も廣川が終始冷静な態度であることも「大犯罪を犯した者はことごとく犯行後冷静である」と片づけた。

 これに対し、弁護側はほぼ同時間の弁論で「小笛が廣川に巻き添えを食わそうとした犯行」と主張。「三田博士の鑑定が最も妥当」として無罪を主張した。

そして、判決の日

 そして1927年12月12日、注目の判決が出た。

「廣川へ無罪の判決 證明不十分の故をもつて 検事は即時控訴の手續(続)き」(京都日出)、「判決のその刹那! 被告の両眼から嬉し涙」(京都日日)、「記録と証拠は利不利半ばす」(大朝)、「法醫学界の大問題となつた小笛殺し事件」(大毎)。12日発行13日付夕刊各紙はそれぞれこんな見出しで大きく報道した。コンパクトな大毎を見よう。

〈 未決のまま獄につながれること1年半、検事は死刑を求め、弁護士は無罪を主張し、ことの真偽は全国法医学界の問題とまでなった京都北白川、平松小笛ら4人殺し事件の被告、新潟生まれ、京都帝大経済学部選科出身の廣川條太郎(29)にもついに最後の審判の日は来た。12日午前10時、廣川は蒼白の顔に喜憂こもごもの緊張を浮かべながら入廷。傍聴者はたちまち席に満ち、被告の実父・利兵衛、弟・倫次郎の2人も身を固くし、判決を待つ。午前10時40分、橘川裁判長は重々しく「廣川條太郎」と呼び、次いで「無罪とす」と主文を読み出せば、廣川はまず耳を疑うように一瞬裁判長の顔を見つめ、やがてはらはらと大粒の涙を流し、ついには、やせ細った手に顔を覆ってうつぶせになってしまった。親も泣く、弟も泣く、弁護士も泣く。満廷すすり泣きのうちに理由書は読み上げられ、彼は青天白日の身になることができたのであった。 〉

 記者の思いの入った文章に思える。公訴事実に対する判決理由は結語に尽きる

〈 一件記録を通覧し、慎重審議をとげたが、被告の利益、不利益の点が相半ばして本件の証明は十分でない。〉

 現場や遺体の状況、鑑定結果、遺書、アリバイ……。いくつもの点で被告に有利な事実と不利な事実が入り交じって、どちらとも判断できない。ということは犯罪の証明が不十分という意味になる。そんな理屈だろうか。複雑怪奇に陥ることを避けた利口な判決のようにも思える。

「法医学上、自分はあくまで他殺と信じているが…」

 森長英三郎「史談裁判」は「京大卒業生の被告人が、遺書の『ジョタロ』の下に実印を押すことは考えられないし、わざわざ死体のそばに被告人の名刺を落としていくことも考えられない。この2点からだけでも、他殺の偽装工作であることは明らかであると思う」と述べている。

 それでも「無罪とは実に意外」と主任検事。「控訴されても確かに無罪」と高山弁護士。小南又一郎教授の談話も複数の新聞にある。「法醫学上 他殺と信ずる が死體の腐敗から断定することができなかった」という長い見出しの大毎の記事。

「こういう判決が下ったのは、廣川本人と小笛の死との関係がはっきりしなかったためだろう。法医学上、自分はあくまで他殺と信じているが、何しろ検案した遺体がひどく腐敗していたので、他殺と断定することはできない状態だった。判決理由は法医学上の問題に少しも触れていないそうだが、裁判所もよほど弱ったという」

「検事が控訴した裁判で検事が無罪の論告」

 廣川の保釈は認められず身柄は拘束されたまま、大阪控訴院での控訴審へ。1928年6月11日の第2回公判では、「檢事と辨護士間に 博士喚問で大激論」(11日発行12日付京都日日夕刊見出し)の展開に。

 担当の角谷栄次郎検事が新たに3人の鑑定を申請した。うち1人は辞退。浅田一・長崎大教授と石川哲郎・東北帝大教授が認められ、2人の鑑定書は同年9月中に提出された。その結果は同年11月30日の公判で明らかにされた。

 そこではまた驚くべき出来事が起きる。2面トップで報じた30日発行12月1日付大朝の記事の裁判長が鑑定書を朗読した部分を見よう。

〈 石川博士の結論は『小笛致死の原因は自縊(自分で首をつること)であると推測する』とあって、一審・小南博士の鑑定書記載のような創傷や、検証調書記載の懸垂状態は自縊によって生じたとしても医学上、全く不合理でないとし、詳細の説明は一審の三田博士とほぼ同様。〉

〈 浅田博士もまた、小笛の死は自縊で、懸垂状態からみて、頸部にある上下の索溝を生じたことは少しも矛盾がないとあった。〉

 その後、検事の論告に移った。ここで大朝が主見出しにとった事態が発生する。

〈 謎の「小笛殺し」事件で檢事無罪を論告す 「疑わしきは罰せず」と説く 條理をつくした角谷檢事

 

 立ち合い角谷検事は

 

「本件は京都帝大前の一下宿に起こった、4人の命を亡くした重大な事件なので、一審でも当審でも慎重な態度で臨んだ。現場のありさまと記録によって確定し得るのは、千歳ら3人は他殺で、その犯人は小笛にあらざれば被告である。しかして、被告に不利な証拠は、表戸に下ろされた南京錠は被告が持っていたこと、現場に被告の名刺が散在し、遺書は被告のレターペーパーであること、被害者の食物消化状態からみて、被告が現場に居合わせたとみえる点、本件発生後の不自然な被告の手記など。有利な点は被告の一貫した否認、小笛がヒステリー的に『世間を驚かすような死に方をする』と口走った点、本件発生後の被告の冷静な勤務ぶりなどだ。一審で京大・小南、九大・高山、大阪医大・中田各博士はいずれも小笛の死因を他殺と鑑定したので、三田博士の自殺説をはじめ、有利な証拠を打破し得ると信じ、原審検事の控訴も当然と考えていたが、石川、浅田両博士の鑑定書を見るに及んで、疑いは濃厚ではあるが、積極的に被告の罪を断じることができなくなった。『疑わしきは罰せず』の格言に従って、無罪の判決があらんことを望みます」

 

 と条理を尽くした思いがけぬ無罪の論告を終えた瞬間、満廷に言い知れぬざわめきの気配が。喜びを顔いっぱいにした被告も列席の足立、高山両弁護士も「何も申すことはありません」とあって、そのまま結審。閉廷となった。〉

 大朝が書いた「疑わしきは罰せず」は「『疑わしきは軽きによるべし』という司法官の信条から」と述べたのが正しいようだ。いずれにしろ、検事が控訴した裁判で検事が無罪の論告をするという日本の法制史上、前代未聞の事態。

「史談裁判」は「『司法沿革誌』で歴代の全国の検事長や検事正の名前を調べてみたが、ついに角谷の名前は発見できなかった。昔はこういう、自己の出世を考えない、気骨ある検事もいたのである」と書いている。

 大朝には「きょうの検事の態度は実に立派でした」という高山弁護士の談話も載っている。一方で、元検事の書いた小泉輝三朗「三十九件の真相」(1970年)は、廣川による他殺説をさまざまに展開している。検事という世界から考えれば、角谷検事の態度は決して称賛されるべきものではなかっただろう。検察内部では“恥部”に近い感覚で捉えられていたのではないか。

この事件での鑑定は、公式、非公式、意見書も合わせて8通り

 論告後、保釈が認められ、廣川は約2年7か月ぶりに出所。父や弟、救援運動を続けた友人らと再会した。12月1日付大朝には廣川が獄中で詠んだ俳句が紹介されている。「冤愁の壁にしみこむ祈りかな」。ただこれは、「本当にあつた事」によれば、「冤囚」の誤りだった。

 12月5日、正式に廣川に無罪判決が下った。5日発行6日付夕刊で大朝は2面トップだったが、京都日日は同じトップでも短い記事で、京都日出に至っては6日付朝刊株式欄の上に2段9行のみだった。

 結局、この事件での鑑定は、公式、非公式、意見書も合わせて8通り。まさに日本の法医学史上、最大のイベントだった。

「三十九件の真相」は「船頭多ければ船は山に登る。日本全国の大学からあまり船頭衆を集めすぎた」「何で裁判官独自の判断をしないか。問題はそこにある」と批判している。

 だが、一審の無罪判決に業を煮やして控訴審でまた2人の鑑定を申請したのは検察側。その2人が検察の意に沿う鑑定を出さなかったといって、裁判官に当たるのはどうか。この小笛事件の鑑定は戦後の裁判でも時折引用された。それだけ法医学が重視された裁判といえる。

 しかし、一方では、法医学とは研究者1人1人でこれだけ結果が違うものかという怖さを感じることも確かだ。三田教授の弟子である古畑種基・東大教授はエッセーでも小笛事件について触れているが、戦後、下山事件を筆頭に、さまざまな事件で彼の鑑定は物議をかもすことになる。

 事件を振り返ってみて残るのは47歳の女の心象風景だ。

 確かに淫奔で人生をしたたかに生きた女だったのだろう。ただ、梅雨のさなかの早朝、養女やかわいがっていた女児らを次々締め殺して自らも首をつり、罪を愛人にかぶせようとした。その心情を思うと、残虐というだけでは表せない感情が迫る。事件現場には、早世した子どもをいたむ「地蔵和讃」が流れているような気がする。

参考文献
▽山本禾太郎「小笛事件」 神戸新聞・京都日日新聞掲載 1932年
▽鈴木常吉「本当にあつた事 謎の小笛事件その他続篇」 朝日新聞社 1929年
▽香川卓二編「法医再鑑定例」 警察図書出版 1963年
▽三田定則「自殺・他殺」 鉄塔書院 1933年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽小泉輝三朗「三十九件の真相」 読売新聞社 1970年

(小池 新)

廣川の身柄収容にやじ馬が集まった(京都日日)