
いまウクライナに、「マクロンする」という言葉がある。「非常に心配している様子を見せ、自分がどれほど心配しているかをみんなに表明するが、何もしないこと」「無駄に意味のないことを言う」という意味だ。
ルモンド紙(22.6.16発信)によれば同じく「マクロンする」という言葉はロシアでも使われていて、こちらは「理由もないのにしばしば電話すること」という意味だという。
いまや、フランスのマクロン大統領は、ウクライナで友好国のうち最も嫌われる首脳になってしまった。前はけっしてそうではなかった。むしろ、もっとも関係の深い首脳の一人だったといっていいだろう。なぜ、こんなことになってしまったのだろうか――。
2019年、ゼレンスキー“候補”はマクロン大統領に会談を申し込んだが…2019年にウクライナの大統領選挙があった。フランス同様、2回投票制で、39名が立候補し、現職大統領のポロシェンコ候補とゼレンスキー候補とが決選に残った。
「『ウクライナのマクロン』になることを夢見ている若い候補者にとって、利益は明白である」と当時のルモンド紙(19.4.13発信)はいう。
ゼレンスキーは、ドンバス地方ではないが東部の出身でふだんはロシア語をつかっていた。親欧米派のポロシェンコ候補や極右民族派などからロシアの操り人形だと揶揄されていた。ここでマクロン大統領という「ウクライナで人気のあるリーダーと近い事を示し、国際的な地位を確立し、自らの忠誠心は西側に向いているのだと見せ」るのだ。
フランス側でも関心は大いにあった。情勢分析ではゼレンスキー候補は圧倒的に優勢である。だが、俳優・コメディアン、プロダクションの起業家をへてテレビドラマ「国民の僕」が大ヒットし、フィクションを現実にしようと立候補した、ということぐらいしか知られていない。とはいえ、会えば選挙運動に利用されたことになる。他国の政治に干渉したと謗られるかもしれない。そこで、断った。
ところが、ポロシェンコ候補からも会談の申し込みがあった。それだけ、マクロンはウクライナで人気があったのである。こちらは現職の大統領であり、むげに断るわけにもいかない。結局、同じ日に時間を変えて、2人と別々に会うことにした。4月12日、決選投票の9日前だった。
ポロシェンコは大統領としての栄誉礼を受け、エリゼ宮(大統領官邸)には報道陣が並んだ。ゼレンスキーの訪問は公表されなかったが、会談の後、彼は民間のFMラジオで、「とても友好的で、我々は生活について、根本的なことについて話した。ドンバスの紛争について話した。汚職対策と改革について話した」などと語った。
マクロンはゼレンスキーの冷静さに感銘を受けたと伝えられている。
“就任後初の公式訪問国”にフランスを選んだゼレンスキー大統領ゼレンスキーは大統領就任後初の公式訪問国としてフランスを選んだ。マクロンは、記者会見で「親愛なるウォロディミル」と呼び、11世紀のフランス国王アンリ1世とキエフ公国のアンヌ王女の結婚を喚起しつつ、新しい時代の新しい関係を強調し、ゼレンスキーが行おうとしている改革への全面的支持を表明した。
ちなみに、フランスの国営放送France2が、報道番組で、ウクライナ侵攻が始まる前のマクロン大統領とロシアのプーチン大統領の電話会談の一部を公開した。
内容もさることながら、驚いたのは、お互いに「ウラジーミル」「エマニュエル」と呼びかけていたことだ。ドイツのショルツ首相やイタリアのドラギ首相にも「オラフ」「マリオ」と呼びかけていた。日本の首相が、アメリカの大統領と名前で呼び合ったといって友情を誇るが、何のことはない、まったくあたりまえのことなのだ。むしろ、そうされないときこそ問題視されるべきなのだ。
それはさておき、マクロンとゼレンスキーの間にはこのような慣行を超えた友情があった。
マクロンとゼレンスキー、知られざる“背景”2人は共通項が多い。そもそも同い年(マクロンが1か月上)である。また、ゼレンスキーは政治の素人だったが、マクロンも大統領府事務次長や経済・産業・デジタル大臣などを経験してはいるものの、議員になったことはなく既成政党にも属していない。マクロンは、右でも左でもない、フランスを近代化する改革の大統領として当選し、ゼレンスキーもオリガルヒ支配と汚職で腐った国の改革を旗印にしていた。
侵攻前、マクロンはモスクワとキーウを訪問し、解決の糸口を探った。その後も毎日のようにゼレンスキーと電話会談し、プーチンとも話した。
侵攻の日にも、ゼレンスキー大統領は電話でマクロン大統領と直接英語で話し、2014年のクリミア侵攻とはまったく違う全面戦争になってしまった、いまこそ欧米は結束して欲しい、自分もプーチンと交渉の席につくと述べた。マクロン大統領はプーチン大統領にゼレンスキーのメッセージを伝えた。
個人的な友情のほかに、フランスはウクライナ紛争に少なからぬ因縁がある。2014年に東部紛争が起きた後、フランスのオランド大統領とドイツのメルケル首相が仲介して停戦合意(ミンスク第2合意)が結ばれた。
それがずっと守られなかったのだが、オランドに代わって大統領となったマクロンは、2019年12月にパリの大統領官邸に、ゼレンスキー、プーチン、メルケルを招いて4者協議をおこない、ミンスク第2合意の遵守と捕虜交換などを決めていた。
侵攻前にロシアとウクライナの首都を訪問したとき、自身再選を狙っているマクロンのパーフォーマンスだという外野の声もあったが、むしろ、マクロンにとって仲介者となるのは義務とさえいえるものだったのだ。
マクロンがふれたウクライナ国民の逆鱗ところが、侵攻開始の2か月半後、5月12日、ゼレンスキーはイタリアのテレビRAI1でマクロンを非難した。「ロシアに逃げ道を与えてはならないのに、無駄な努力をしている」「ロシアとウクライナの仲介で結果を出したかったのだろうが、何の成果も得られなかった」。しかもこれをTelegramの自分のアカウントにアップした。
じつは、5月9日に欧州議会でマクロンは「ロシアに対して屈辱を与たり復讐したりする誘惑に屈してはならない」と述べ、ウクライナ国民の怒りを買ってしまったのである。
キーウ周辺からロシア軍が撤退して残虐行為が発覚した時、マクロンは「虐殺」といわなかった、支持の証として各国首脳がキーウに来たのに来なかったなどということも蒸し返された。
ゼレンスキーのマクロン批判は、これを反映した発言なのか、真に絶望したのかはわからない。
いずれにせよ、5月17日の電話会談でマクロンは誤解を解き、攻撃用武器供与も約束した。ゼレンスキーも納得したとフランスでは報道されている。
「自分はちゃんとやっているのに、非難されるいわれはない」というマクロンの“エリート意識”は再び…ところが、6月4日掲載の、フランスのいくつかの地方紙のインタビューでマクロンは「戦闘が止まる日、外交ルートを通じて出口をつくれるようにするために、ロシアに屈辱を与えてはならない」と繰り返してしまった。
ウクライナの完全な敗北は想定できないが、直接の西側の介入なしにロシアが完全に敗北する可能性も低い。であるからウクライナを全滅させる危険を冒して戦争を長引かせたくないのであれば、プーチンと話し続けるべきである、という考えから出た発言である。マクロンの独善ではなく、EUでもドイツ、イタリアをはじめとする西欧諸国の認識である。
しかし、それをあえて口にしたのは、いかにもマクロンらしい。自分はちゃんとやっているのに、非難されるいわれはないという、エリートの持ち前の傲慢さ。フランス国内でも「道を渡ればすぐ職は見つかる」とか「努力が足りない」とか庶民感情を逆なでする失言を繰り返している。6月の総選挙で与党が過半数を大きく割ってしまった一因でもある。
ポーランドの首相から「ヒトラーと交渉できるのか」と言われても、モスクワ会談や侵攻前の電話会談でのプーチンの「2枚舌」がわかっても、小馬鹿にした態度をとられてもマクロンは頑固に立ち位置を変えなかった。
「6月16日以来、マクロンは一度もプーチンに電話をしていない」こうした状況で、6月16日、マクロン、ショルツ、ドラギの仏独伊3首脳のウクライナ首都・キーウ訪問があった。
この訪問は大きな転回点であった。マクロン大統領は、「現在の現場の状況は(ロシア大統領との対話を)正当化するものではない」と認めた。キーウ郊外のイルピンで「虐殺」とはっきり断言したのである。
3首脳は、いままでの躊躇を捨ててウクライナに即座にEU加盟候補のステイタスを与えることを提案する、ウクライナがクリミア半島を含む領土を保全するまで、ウクライナが勝利することを望んでいると明確に宣言した。
「ロシアは昨日も同じ大陸にいたし、今日もいて、明日もいる大国だ」、同じ大陸で隣接する以上、「ウクライナは、いつかは欧州を交えてロシアと交渉しなければならない」というマクロンの考えは“正論”である。しかし、それはゼレンスキーが体験している現実とは違う。牙をむいたプーチンに“正論”は通用しない。このギャップが2人の不仲の原因であった。
このギャップは、EU内での東欧諸国と西欧諸国の差でもあった。プーチンのロシアの脅威を肌で感じている東欧諸国と距離のある西欧諸国の間で溝ができていた。いまや、マクロンはじめ西欧諸国は自らの甘さを悟ったのである。
マクロンは訪問の前日ルーマニアで「ウクライナの軍事的勝利以外の出口はありえない」と断言した。訪問後も「私たちがゼレンスキー大統領の代わりに勝利を定義するのではない。しかし、彼がある時点で交渉することを決定した場合、それは大陸の安全に関するものであり、私たちは彼の側で安全保障を提供する」と終戦処理にこそ自分の出番があり、そこでもウクライナ側につくと立ち位置を明確にした。
とりあえずキーウ訪問でマクロンとゼレンスキー、EUの東と西のギャップは埋まった。6月16日以来、マクロンは一度もプーチンに電話をしていない。
(広岡 裕児)

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