それは七月十日のことだった。この日、半島からの使者たちが皇極天皇に貢納に上がり、そこには、当然、半島勢力を背景とする蘇我蝦夷を継いだ大臣(おおまえつきみ)の入鹿も同席していた。そとは雨。だが、無事に儀式も終わり、上表を読むべく、入鹿の従弟、蘇我石川麻呂が立つ。が、全身から汗が噴き出し、手足が震え、声にならない。訝る入鹿が、どうした? と問うが、天皇の御前で畏れかしこまるばかり、と、進まない。だが、それは外に控える佐伯子麻呂と葛城網田も同じ。緊張のあまり、吐き気が止まらない。彼らは石川麻呂の上表とともに、入鹿を討って入る手はずだった。

黒幕は神祇職、中臣鎌足(後の藤原氏の祖)。対する蘇我氏は、渡来人たちと組み、中韓仏教という国際性を持ち込んで他の豪族たちを圧倒し、天皇を凌ぐほどの権勢を手に入れ、服装でも、儀礼でも、やたら似非唐風を好んで嫌われた。鎌足は、遣隋使帰りの学僧の私塾で、君臣の義を重んじる本場ものの儒教を学び、その学友で皇極天皇の子、中大兄皇子を担ぎ上げて、蘇我氏の排除を謀った。もとより佐伯氏は軍人、また、石川麻呂は蘇我氏の身内ながら入鹿の家督相続を不満とし、その配下の葛城網田がこれに従った。だが、仏教はもちろん儒教でも、暗殺など許されようはずもない。

雨の降りは、いよいよひどくなる。業を煮やした中大兄皇子は、みずから殿上に飛び込み、是非も無く蘇我入鹿の首を一刀両断に刎ねた。血みどろの入鹿の首は、殿上を跳ね回り、御簾に噛みつき、はては土砂降りの中、飛鳥板蓋宮からはるか遠く蘇我氏の氏寺、飛鳥寺のあたりまで1キロあまりを飛んで行った。こうして、皇族みずからが手を血に染めて、皇室中心の日本を確立していく。だが、その後も折々に雨の中、青い絹笠の唐衣の怨霊が現われ、藤原氏、そして皇室を呪うことになる。

蘇我入鹿の罪状は、彼が臣下の身上にもかかわらず、天皇のみに許されている八佾の舞を祖廟で行ったこと。これをもって、彼は、皇統僭奪の野心あり、とされ、暗殺は当然とされた。さて、ちかごろまた、天皇でもない臣下の者が国葬をするとかしないとか。これもまた、青い絹笠の唐衣の男のしわざか。

皇国日本は血の暗殺で生まれた:大化の改新での凶行