出入国在留管理庁(入管庁)が発表した全国の収容者数は、2020年4月15日時点で1209人、2020年6月末で507人、2021年6月末で164人、2021年11月15日時点で134人。

この数字が示すように、新型コロナウィルス感染症の拡大防止のため、入管庁が収容方針を変更した2020年の春以降、全国の収容施設では仮放免(一時的に身柄を解く措置)が一気に進んだ。

コロナによって収容者の総数が急減した一方、3年以上の長期収容者の数は、2021年6月末時点で22人。今年5月、そして7月に東日本入国管理センター(牛久)から仮放免となったある収容者の収容期間は、それぞれ5年、7年に及んだ。

四半世紀余り支援活動を続けている「牛久入管収容問題を考える会」(牛久の会)の田中喜美子さんは「今、牛久には8年目に入った収容者がいます。私たち支援者を含めて、本当に多くの人が、彼のことを心配しています」と話す。

この男性をはじめ、多くの収容者の仮放免や難民申請に関わっている駒井知会弁護士も「夜中でも正月でもいつでも、電話が鳴ると、彼に何かあったのではと思ってしまう……ここ何年間はずっとそんな感じです」と口にする。

多くの人から収容を長期化させる一因と指摘されている入管庁の「原則収容主義」は、収容者をどのような状況に追い詰めているのか。田中さんと駒井弁護士に、「超長期収容」がもたらした現況と問題について聞いた。(取材・文/塚田恭子)

●2度目の収容が8年目に入る

1995年から週に一度、牛久で面会や差し入れを続けている田中さん。収容者の状況をよく知る彼女によれば、コロナ禍以前、常時300人ほどいた牛久でも、現在の収容者は20人ほどになっている。

だが、多くの人に仮放免が認められる中、収容されている人は、それぞれ難しい問題を抱えている人が少なくないという。中でも田中さんがその健康状態などを懸念しているのが、この6月で2度目の収容が8年目に入った、パキスタン・カシミール地方出身のカリルさんだ。

2002年に難民申請をしたカリルさんは、2003年に在留資格を失い、2004年から2006年まで2年間、入管に収容された。その後、仮放免中に再度、難民申請や訴訟を起こしたものの、2015年6月に再収容されて現在に至っている。

「入管の処遇に対する不満からでしょう。2度目の収容後、カリルさんは早い段階で、官給食(入管で出される食事)を一切拒否するようになりました。もともとは体格のよい人で、再収容前は80キロ以上ありましたが、現在の体重は当時から45キロ減り、骨と皮だけになっています。面会室に来るときも、常に車椅子です。去年も体調が非常に悪くなった時期があって、私たちは心配していました」

官給食拒否、体重半減、車椅子、収容8年目。こうした状況を目の当たりにしてきた田中さんは、2021年秋頃から、カリルさんが支援者の面会に応じなくなっていることを憂慮している。

「去年の10月頃、あるトラブルがあって以来、カリルさんはほとんどの支援者と面会しなくなってしまいました。今は、買い物を頼まれている牛久在住の支援者が、その差し入れと代金の支払いを受けるため、月に2度ほど面会していますが、どうしたらよいかと思っています」

カリルさんが支援者を通じて購入しているのはワカメや飲み物などで、今も固形物を摂っている様子はないという。

「毎回、買い物の代金は欠けることなくきちんと支払っているように、カリルさんは人からものをもらうことを好まない、きっちりした人です。収容される前はレストランやハラルフードのお店など3軒ほど経営していたそうで、おそらく商才もあるのでしょう。

日本在住歴も長く、外に出ることができて、体調も戻ったら、働きたいと考えている人になぜビザを与えないのか。2度目だけでも収容がすでに丸7年を超えるのは、どう考えても問題だと思います」

●骨折しても吐血しても、きちんと対応してもらえず

田中さんと同じく、1度目の収容時からカリルさんのことを知り、(面会拒否の)直前まで彼に面会していた「牛久の会」の細田三枝子さんは、カリルさんの心中をこう察する。

「差し入れのため、カリルさんに面会している支援者からは、(支援者の)みなさんには感謝しているし、会いたくないわけではないと、彼は話していると聞いています。ただ、いろいろな人が面会に来たけれど、なかなか自分のケースを報道してもらえず、収容は続き、ビザも出ない。この先どうなるという展望が見えないのに、誰かに会ってどうなるのかと、そんな思いもあるように見えました」

1度目の収容中、カリルさんはケガで左手首を骨折している。そのとき入管はギブスで固定せず、厚紙を当て包帯を巻くという処置しかなかったため、彼は左の掌をきちんと握る・開くができなくなったと、当時を知る細田さんは言う。

「面会時、私たちに(体調不良で)吐血したものを持ってくることがありましたが、そういうものも入管は捨ててしまうと話していました。自分の訴えをすべて潰す入管に対して、おそらく不信感しかないのでしょう。日本に30年以上いて、国に戻っても生活基盤はないでしょうし、この健康状態ではいつ何が起きるかわかりません。本当に人道的な配慮が求められるケースだと思います」

16歳で政治活動に身を投じる

現在、カリルさんの代理人をつとめるのは、駒井知会弁護士だ。これまでも多くの入管事件に取り組んできた駒井弁護士は、カリルさんの代理人を引き受けた経緯についてこう話す。

「2度目の収容後、東京入管にいたカリルさんから電話をもらったんです。東京入管に足を運んだものの、そのときは会えなかったのですが、その後、東日本入管センターに移送された彼からもう一度電話があって、2017年に牛久で面会しました。

その時点で、カリルさんはすでに骨と皮という状態で、収容以前の写真と見比べるとほぼ別人だったので、これはまずい、とにかく引き受けなければと思いました」

1963年生まれのカリルさんは16歳頃から政治活動を始め、カシミールの独立運動に関わっていたとのことだった。身体拘束は20回以上に及び、その際、拷問も受けているなどとする供述内容は出身国情報とも矛盾せず、難民該当性は相当高いと考えられた。

だが、来日からかなりの時間が経過していることなども考慮すると、本件において、この時点で自分が特に注力すべきは、法務大臣から人道配慮に基づく在留特別許可(在特)を得ることだと、駒井弁護士は考えたという。

「私が面会したときは、5度目の難民申請の、審査請求段階でした。難民審査の行政手続きは二段階で、一次の結果に不服のある申請者は、不服申し立て(審査請求)をおこなうことができます。

審査請求段階の審査には、学識経験者から選ばれると言われている難民審査参与員(参与員)が関わります。参与員は3人1組で請求人にインタビューしますが、東日本入管センター(茨城県牛久市)の収容者は一時的に東京入管(東京都港区)に移送されて、インタビュー(口頭意見陳述等の手続)を受けるのが通例で、参与員が東日本入管センターに足を運ぶことは、私の知る限り他にありません。

ところが、カリルさんについては、3人の参与員がインタビューのため、牛久のセンターまで来ました。カリルさんは当時から車椅子で、血圧も高く、東京入管に移送するのは難しいという判断から、異例中の異例の対応がされたんです」

写真はカリルさんが情報開示請求で入手した、入管職員が撮った彼の上半身だ。コピーのため、やや不鮮明なこの写真からも、浮き上がったあばら骨や、その下の腹部にほとんど肉がないことが見てとれる。

「参与員の方々が、少なくとも人道的な配慮による在特相当であると考えて下さったのではないかという感触はありましたが、結果を言えば、在特は出なくて、どうしようかと思案していたときに、(カリルさんに)強制送還通知が来てしまって。この状況で強制送還されたら命が危ないと思い、彼の命を繋ぐために本当に必要な解決を得る目的で、訴訟を提起しました」

●入管が"奥の手"を適用しようとしたのは

今年3月、入管はカリルさんに対して職権仮放免を適用しようとした。職権仮放免とは、入管がみずからの職権によって、本人(=この場合、カリルさん)が申請していないのに、仮放免を出すことを指す。

だが、当初から一貫して"在留資格を得られるまで入管と闘う"意思を示し、仮放免では外に出ないと断言していたカリルさんは、これを拒否。駒井弁護士も在特に基づく解放を求めた。

「この10年以上、私は入管の収容施設に通い続け、収容者の仮放免を求めてきました。彼らを死なせないために、どんなかたちであれ解放して、外の支援者につなげることに努めてきたんです。

ただ、今回のようなケースは初めてで、だから、どうすればよいか、ものすごく苦しみました。ここ何年間は夜中でも正月でもいつでも、電話が鳴って、その番号が非通知や支援者のものだと、カリルさんが倒れたとか、何かあったという連絡じゃないかと不安になったし、その恐怖に炙られるような思いで生きてきました。

でも、最初の面会時からカリルさんは一貫して、『仮放免は絶対申請しない、在特が出なければ外に出ない』と言い続けていました。そして、身体が衰弱しきった彼が仮放免の状態で健康を回復し、生存を立て直すための拠点となる場所も見つからなかった。だから依頼を受けて5年間、仮放免を申請できなかったんです」

仮放免では絶対に出ない。カリルさんの強固な意思は、多くの支援者の人たちにとっては周知のことだという。

「職権仮放免を拒否するというカリルさんの意思を牛久のセンターの幹部に伝えたとき、彼は私に『あなたは弁護士として、彼の解放を求めないのか』という趣旨のことをいいました。

私はカリルさんに生きていてほしいし、元気になってほしいし、彼が解放されることを心から願っています。こんな話が出る何年も前から、そう願って活動してきました。

たしかに仮放免を得られれば、支援者たちに支えられ、健康の回復を望める収容者の方々もいます。そういう人たちも多いです。2021年3月に名古屋入管収容中に亡くなったウィシュマさんもそうです。彼女には、互いを信頼し合える支援者と頼もしい支援団体があり、回復の拠点となる居住場所も用意されていました。仮放免されれば、彼女の命はつなげたはずなんです。

でも、カリルさんはウィシュマさんと事情がまったく違います。だからこそ職権仮放免ではなく、1秒でも早く在特を得て、外に出したい。もう何年も前から、法務大臣に、あるいは入管に対して、カリルさんについては、在特による解放を求めてきました。そうでなければ、センターの玄関を出たところで彼が野垂れ死にしても、誰が責任を取るでしょうか」

仮放免で外に出ても、就労も、健康保険に入ることもできず、移動の自由も制限される。生活保護をはじめとする福祉と繋がることも許されない。

「安心して身を預けられる先を持たないカリルさんにとっては、外に出ることは、在特付きの解放以外あり得ないんです。在特が付いて健康保険若しくは医療扶助を利用できる立場になれば、以前から面会していた2つの大きなNPO団体が『彼を福祉につなげます』と、何年か前から手を挙げ、書面でもそのことを約束してくれています。だから私は在特を出してくださいと言い続け、訴訟を起こして以降も、それを求めてきたんです」

今、この状況でカリルさんが放り出されたら、どうなるかわからない。

駒井弁護士だけでなく、カリルさんの支援者はそう口を揃える。だからこそカリルさんへの対応を持て余した入管が、いわば奥の手として出してきた職権仮放免は、彼にとっては、福音とはなり得なかったのだ。

●施設内で何か起きてほしくない。責任逃れの職権仮放免

これまでも入管と被収容者のあいだには、さまざまなトラブルがあった。統計のある2007年以降に限っても、入管の収容施設内で亡くなった人は、自殺も含めて17人にのぼることが、入管行政の問題をあらわしている。

「入管はかくも長い間、施設に閉じ込め、先の見えない生活をさせた末に、施設内さえ車椅子で移動している人を、すでに家族もなく、社会とのつながりの完全に切れた場所に送り返そうとしてきました。

これはカリルさんに限った話ではありませんが、そういう絶望しかない状況に置かれ続けた被収容者が、収容中にさらに過酷な仕打ちを受けている。入管への不信感が募るのは、当然といえば当然のことではないでしょうか」

在留資格が切れたからと、入管は長く日本に暮らし、生活基盤を築き、働いて、税金を納めてきた人に新たな在留資格を与えることを検討せず、都合9年以上、身体拘束を続けてきた。

刑事罰を犯したわけでもない1人の人間の自由を奪い続けた末、命の瀬戸際に追い込む。自分たちが招いたこの状況にどう対処すべきか、今、入管自身、困惑しているのではないだろうか。

「入管は困っているだろうと思います。人の自由を奪う身体拘束は、もっとも重い『罰』です。殺人罪でももっと刑期が短い人もいるのに、刑事罰を犯したわけでもない人を、入管は7年以上拘束しているんです。こんなことは、誰に聞いても、どう考えても、人権的にありえないことでしょう」(田中さん)

「おそらく入管は、カリルさんが生きているうちに外に出そうと、職権仮放免を適用しようとしたのだと思います。中で亡くなった人のことさえ、きちんと説明しないのですから、とにかく入管の外に出てくれさえすれば、あとはどうなろうが構わないと思っているのではないでしょうか」(細田さん)

●人間関係、社会とのつながりを断ち切る「超長期」収容

カリルさんの裁判は、今、高裁で争われている。口頭弁論はすでに4回ほどおこなわれ、判決が待たれている。

「来日して35年間、カリルさんは一度だけ、短期間故郷のカシミールに戻っています。『帰国しているなら、難民じゃないだろう』という人がいるかもしれません。でも、そのときも、彼の帰国を聞きつけた警察が、カリルさんが家にいるだろうと、幾度も家に来たそうで、身の危険を感じた彼は家を脱出して他所に隠れ、すぐに日本に戻っています。以来、ずっと日本にいます。すでに故郷に家族は誰もなく、生活の基盤もありません」

ここ(施設内)で死ぬか、在特を得て外に出るか。二つに一つだと、カリルさんは駒井弁護士に話しているという。

本人を支える弁護士、支援者、おそらく入管や裁判所にとっても、カリルさんの状況は非常に難しいケースになっている。もちろん誰より苦しいのは、体重が半減し、移動もままならず、自分はいつ外に出られるか、先の見えない状況に7年以上置かれている本人自身であることは間違いない。

「先の見えない状況で7年以上、収容されながら気力を保つことなど、たいていの人にはできないことです。カリルさんの気力や精神力は、ちょっとやそっとのものではないと思います」(駒井弁護士)

入管問題に取り組む弁護士や田中さんら支援者は、長期収容について、一貫して抗議を続けてきた。

「超長期収容」は、それまで収容者が築いてきた人間関係や、社会とのつながりを断ち切ってしまう。それは収容を解かれても、彼、彼女たちが迎え入れてもらう場所がなくなっていることを意味する。

「こんなことを続けていて、一体、何になるのでしょう」

長年支援を続けてきた田中さんのこの言葉は、多くの収容者の思いを代弁している。このようなことを繰り返さないためにも、人の人生を踏みにじる「超長期収容」がもたらす事態の重大さを入管は直視し、収容の運用を早期に改めるべきではないだろうか。

【プロフィール】こまい・ちえ/東京都出身。イギリスで国際難民法の研究をしていた大学院時代に日本の難民認定の状況を知り、帰国して弁護士となる(60期)。スリランカ女性、ウィシュマさんの死亡事件で名古屋入管(国)の違法を問う裁判や、難民申請中の男性2名が、日本の入管収容は国際人権法に違反していると国を提訴した裁判などで、原告の弁護団を務める。入管収容制度を適法なシステムに変えようと、この問題に取り組んでいる。

【プロフィール】たなか・きみこ1952年茨城県つくば市出身。「牛久入管収容問題を考える会」代表。つくば市内で喫茶店を経営しながら、1995年から週に一度、東日本入国管理センターで収容者への面会・支援を続け、収容者の人権を尊重するよう、他の団体とも連携しながら、入管に申し入れをおこなっている。2010年に東京弁護士会人権賞を受賞。

●牛久入管収容問題を考える会

http://ushikunokai.org/

牛久入管で収容8年目、体重半減したパキスタン人の今「ここで死ぬか、在留許可もらって外にでるか」