詳細画像はこちら

DOHC直列6気筒エンジンの開発者

アストン マーティンDB4のDOHC直列6気筒エンジンを設計した、技術者のタデック・マレク氏。デイビッド・ブラウン氏のオーナー時代にブランドを成功へ導いた、立役者の1人だった。

【画像】開発技術者がチューニング アストン マーティンDB4 復刻版のザガート仕様とDB5も  全64枚

新モデルの生産準備を整えた彼は、1965年に1台のDB4を自らのものとした。そのクルマは、優れたレーシングドライバーでもあった自身の好みに合うように、スキなくアップグレードが施された。

詳細画像はこちら
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年

厳密には、このアイス・ブルーのアストン マーティンはオリジナル状態と異なる。しかし、ブランド・ディテクターともいえた彼の手によって再編集されたDB4には、興味を抱かずにはいられない。

KKX 4Cのナンバーをぶら下げた1台は、いわばDB4のディテクターズ・カット版。価値あるクラシックであることは、疑いようがないだろう。

1958年ロンドン・モーターショーで発表されたDB4は、高品質で高性能なグランドツアラーという、ブランドの方向性を確立したモデルだった。英国発のスーパーカーでもあった。

最高出力243psを発揮する直6エンジンをフロントに搭載し、3.54:1のリアアクスル・レシオから最高速度225km/hを実現。車重1393kgのDB4は、当時の量産4シーター・モデルでは世界最速を誇った。

英国車的なパッケージングでありながら、イタリアのカロッツエリアが協力した妖艶なスタイリング。それに欠かせなかった心臓こそ、タデックが設計したエンジンだった。後に彼は、さらに長寿命となった5.3LのV8エンジンも開発している。

モータースポーツでも戦える能力

1908年にポーランド南部のクラクフで生まれたタデックは、第二次大戦が勃発すると、1941年に連合軍の1人として渡英。モロッコカサブランカでの脱出作戦など、いくつかの難しいミッションをこなした。

終戦後は、ロンドン北部へ定住。ペギーという名の女性と出会い、結婚している。しばらくセンチュリオン戦車の開発に関わっていたが、オースチン・モーター社を経て、まだロンドン西部のフェルサムに拠点があったアストン マーティン1953年に入社した。

詳細画像はこちら
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年

才気溢れるタデックは、戦前にはアメリカのゼネラル・モーターズや、ポーランドフィアット支部で力を発揮。その後、イタリア・トリノのフィアット本社へ転勤している。

ドライビングスキルにも長け、1937年にはラリー・モンテカルロを完走。設計者でありながら、モータースポーツを戦える能力の持ち主は、当時でも珍しい存在といえた。ドイツベルリンに存在したアヴス・サーキットでは、大クラッシュも経験していた。

アストン マーティンチーフエンジニアとしての地位を、他者へ譲りたいと考えていたデイビッド。タデックは彼を訪ね、戦時中にトランスミッションで急成長を遂げたデイビッド・ブラウン社の製品の不備を大胆にも指摘し、採用が決まったという。

DBR2で試された新型6気筒ユニット

先輩技術者のジョン・ワイアー氏とジョックスターリング氏の元で働き始めたタデックが、一番最初に取り組んだのが2.9L直列6気筒エンジンの改良。新しいDB Mk IIIへの搭載が計画されていた。

これはベントレーを創業し、アストン マーティンへ移った技術者ウォルター・オーウェン(W.O)・ベントレー氏が設計したユニット。1953年のDB2のために開発されたものだ。

詳細画像はこちら
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年

ちなみにこの時にも、タデックは中古のアストン マーティンDB2を手に入れ、自分仕様に改良している。Mk III用エンジンに、マセラティ製の5速トランスミッションが組まれていた。

1955年、次期モデルとなるDB4の開発がスタート。彼は新しい直列6気筒エンジンを設計し、1956年にテスト運転が開始された。1957年に発揮した最高出力は172ps。アストン マーティンがDB4で目指していた、243psとは大きな開きがあった。

新しい6気筒ユニットは、レーシングカーのDBR2へひと足先に搭載されたが、彼はその結果にも満足できていなかった。レーシングチームを率いていたジョン・ワイアー氏も、より軽量なエンジンが必要だと考えていた。

本来、エンジンブロックはスチールで設計されていたが、アルミニウムへの変更が決まる。だが、タデックはアルミブロックの開発経験はなかった。

その結果、高速道路での走行など、当初は長時間の高回転へは充分に耐えることができなかった。内部クリアランスが広がりやすく、油圧が低下し、深刻な問題を引き起こす可能性が拭えなかった。約8.5Lのオイルサンプを備えていても。

DB5用4.0Lエンジンの開発に登用

当時のタデックは、開発をスタッフへかなり頼っていた。その時代の小さな規模を考えれば、彼に責任のすべてを負わせることは適切ではないといえる。

アストン マーティンDB4は1958年から1963年までの間に改良が加えられ、最終的にシリーズ5まで進化している。エンジンブロックの問題にも、解決策が施された。

詳細画像はこちら
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年

今回ご紹介するアストン マーティンDB4 シリーズ1は、1959年10月下旬に、フランス南部のサントロペに住むJ.Cロイ博士へ納入されている。クロームメッキのワイヤーホイールにアイス・ブルーの塗装が施された、左ハンドル車だった。

タデックの話では、オイルサンプに穴が空きエンジンが固着するまで、ロイはDB4を楽しんだそうだ。動かなくなると、パリの代理店を通じてアストン マーティンが新たに拠点とした、英国中部、ニューポートパグネルまで戻ってきた。

アストン マーティンは、700ポンドでDB4を下取りした。ロイは、新しいDB4を買い直したという。

公式な記録では、買い取ったDB4は主にDB5用4.0Lエンジンの開発に登用されている。だが、どこまでが試験としてアストン マーティンによって改造された部分で、どこまでが個人的にタデックが手を加えた部分なのかは、判別がつかない。

この続きは後編にて。


レストアの記事
エンジンはポルシェ356のフラット4 VWタイプ1がベースのスポーツカブリオレ 後編
エンジンはポルシェ356のフラット4 VWタイプ1がベースのスポーツカブリオレ 前編
ロンドンからメキシコへ辿り着ける? 1970年ワールドカップ・ラリー挑戦マシン 後編
ロンドンからメキシコへ辿り着ける? 1970年ワールドカップ・ラリー挑戦マシン 前編

エンジンはDB5 ヴァンテージ仕様 アストン マーティンDB4 価値あるモディファイ 前編