「有名な伝説だけど本当の話なんだよ」――1950年代後半、週刊少年サンデー創刊にあたって画策された「手塚治虫専属計画」はなぜ失敗に終わったのか?

 当時の貴重なエピソードを取材し集めたライターの伊藤和弘氏による新刊『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959ー2009』より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/#2#3を読む)

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週刊少年サンデー」誕生秘話

 現在、小学館といえば講談社集英社とともに日本を代表するマンガ出版社として知られる。ところが意外なことに、1950年代の小学館にはマンガを中心とした子ども向け雑誌は存在しなかった。フラッグシップである「小学一年生」から「小学六年生」に至る学年誌にいくつかマンガは載っていたものの、あくまでオマケ程度の扱いだったらしい。

 取材時、やはり傘寿を過ぎていた豊田(豊田亀市。小学館・元雑誌部次長)は「マンガを中心とした雑誌を出すことで、傑出したマンガ家を育てる。それを学年誌で使おうという野心があったんです」と話し始めた。

「学年誌のマンガは面白くなかった。以前から、もっとマンガに力を入れるべきだと考えていました。講談社の社風である“健全な娯楽”という要素を小学館にも取り入れる必要がある。そこで1958(昭和33)年の夏、当時の相賀徹夫社長に『マンガを中心にした少年週刊誌を出したい』と言うと、驚いたことにその場で企画が採用されたんです。さすが社長、と感心しましたよ」

 マンガの伝統を持たない小学館が、遅まきながら少年誌に切り込んでいくには他社にない武器が必要になる。思い悩んでいた豊田にひらめいたアイデアが当時の週刊誌ブームだったという。

 それまで小学館マンガに力を入れていなかった理由のひとつとして、集英社の存在も大きかった。もともと集英社エンターテインメント部門の本を専門に出版するために作られた小学館子会社である。この頃は社員さえ小学館から出向しており、独自の定期採用が始まるのもこの翌年の1959年になってからだった。そのため当時の集英社では、学年誌よりもマンガが多く、娯楽色の強い「おもしろブック」や「少女ブック」を出していた。

 前例のない“マンガを中心とした子ども向け週刊誌”だが、二の足を踏んだ牧野と対照的に豊田は成功する自信があったという。エンターテインメントを任せていた集英社に「週刊少年サンデー」の企画を持っていかなかった理由を聞くと、「いかに兄弟会社とはいえ、ドル箱を渡せないでしょう」と不敵な笑みを見せた。

「僕が『小学六年生』の編集長をしていたとき、2~3歳下の部下に長野規(『週刊少年ジャンプ』初代編集長)がいたんですよ。『誰か集英社に出せ』と言われ、マンガに強かった彼を出してしまったのは僕のミス。『サンデー』を創刊したとき、小学館に残しておくべきだった、と後悔しました」

に終わった手塚専属計画

 創刊に当たって「サンデーは大金を積んで手塚治虫を専属にしようとした」という噂が根強くささやかれている。「有名な伝説だけど本当の話なんだよ」と豊田は打ち明ける。

「学年誌の伝統がある小学館では、そのブランドを壊してはいけないんですよ。“親に買ってもらえる雑誌”でないといけないわけ。すると、デッサンの悪いマンガ家は使えない。インテリジェンスはあればあるほどいい。そして、とにかく面白くなければいけない。

 そうなると絞られるよね。手塚治虫横山光輝、寺田ヒロオ。この3人を『サンデー』の柱にしようというのが僕の結論だった。手塚はすでにピークを過ぎていたけど、いちばん人気があるマンガ家だったし、彼の“マンガの質”は小学館に合っていると思ったんです」

 実際、「サンデー」には創刊号から手塚の『スリル博士』と寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』が載っている。「少年」(光文社)に連載された『鉄人28号』で注目を集めていた横山光輝も、すぐには無理だったが、近い将来の連載は約束してくれた。2年後に始まり、全国の少年たちに忍者ブームを巻き起こした『伊賀の影丸』である。

 最大の問題は当代ナンバーワンの売れっ子である手塚治虫に、いかにして週刊連載を引き受けさせるかだった。

マガジン」初代編集長の牧野は言う。

「当時のマンガ家にとって週刊誌の連載というのは未知の世界でしょう。月刊誌なら
月に1本だけど、週刊誌は月に何本も描かなければいかん。仕事を頼みにいっても躊躇する人も多かったですよ」

 月刊誌は1回当たりのページ数が多いが、月に4冊出る週刊誌の方がトータルのページ数は多くなる。とりわけ後の『ブラック・ジャック』のような一話完結型になると、月に4本の作品を描くことになる。仮にページ数が同じであっても、こちらの方が負担は大きいだろう。多くのマンガ家が二の足を踏むのも無理はない。

 まして当時の手塚は「少年」の『鉄腕アトム』をはじめ、『ぼくのそんごくう』(漫画王)、『リボンの騎士(双子の騎士編)』(なかよし)、『スーパー太平記』(少年画報)、『お山の三五郎』(小学三年生)など、豊田が会いに行った1958年秋の時点で10本前後の月刊連載を抱えていた。ほとんどの児童雑誌に描いていた、といっても過言ではない。そのうえ週刊連載などできるわけがない

 どうしても手塚を「サンデー」の看板にしたかった豊田は、彼の毎月の原稿料を計算し、その金額で専属作家にしようと考えた。

 つまり現状の原稿料を保障する代わり、「サンデー」以外の連載をすべてやめてもらう、という前代未聞の策だ。自身の月収をも上回る破格の専属料を見せられた相賀徹夫社長も、にっこり笑って許可したという。

 結局、豊田の申し出は断られた。

 が、断ったのは専属契約だけ。なんと手塚はすべての連載を続けたまま、さらに前人未踏の週刊連載を引き受けたのだ。

「偉いと思ったな。手塚のプライドは金じゃない。連載の本数なんですよ。もっとも広いエリアで、もっとも人気がなければならないと。天才ならではの野心だね」

「天才ならではの野心」

 専属契約を断った手塚は、代わりに「週刊誌サンデーだけ」と豊田に約束したらしい。それでも「少年マガジン創刊号には「手塚治虫探偵クイズ」というページでクイズを出題し、挿し絵を描いている。また、「マガジン」第2代編集長を務めた井岡芳次によると、「サンデーには内緒で『快傑ハリマオ』を手伝ってもらった」という。

 創刊2年目の1960(昭和35)年から始まった『快傑ハリマオ』は、初期の「マガジン」を代表するヒット作のひとつだ。原作は山田克郎、作画は手塚の弟子筋に当たる石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)だった。

 まず原作の台本を手塚に渡し、ネーム(コマ割りをしてラフな絵と台詞を入れた下書き)を入れてもらう。そこに石森がペンを入れ、完成原稿に仕上げた。「サンデー」の手前、「名前を出さない」ことが手塚の出した条件だったという。

 ネームを書く、というのはマンガを描くうえで極めて重要な作業だ。人気絶頂だった頃の赤塚不二夫ネームまでを書いてペン入れはアシスタントに任せていたというし、後年の本宮ひろ志も自分でペンを入れるのは「人物の顔だけ」と公言している。ペン入れ以上にクリエイティブな工程であり、決して片手間でできる仕事ではないだろう。

 なぜそこまでして、と思わずにいられない。常にアンケートの順位を気にし、何歳になっても新人をライバル視したなど、手塚には大家らしからぬ幼児性が感じられるエピソードが多い。あらゆる雑誌に描きたい――。そこには確かに「天才ならではの野心」もあったのかもしれない。

「小汚い雑誌だった」…サンデー編集者から格下扱いされていた「ジャンプ」が“最強のマンガ誌”になれた理由 へ続く

(伊藤 和弘)

幻に終わったサンデーの「手塚治虫専属計画」とは? ©文藝春秋