承久の乱から3年後の1224年、北条義時が没します。義時没後、鎌倉で不穏な動きを起こしていたのは、義時の後妻・伊賀の方でした。「尼将軍」政子に不満を抱いていた伊賀の方は、一族で幕府を支配しようと画策していたのです。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

義時死後の後始末をして政子が天寿を全う

承久の乱から3年後の1224年、北条義時が没しました。

享年62歳。脚気に急性腸炎が重なっての病死でしたが、伏して間もない死だったので、やはりさまざまな憶測を呼びました。

弟の北条時房、子の泰時は、京の六波羅の館で訃報を受け取りました。ふたりは乱の戦後処理にあたりながら、朝廷に不穏な動きがないか、眼を光らせていたのです。

ふたりとも、すぐ鎌倉に向かいました。義時の葬儀に参列するためだけではなく、鎌倉で義時の後継をめぐり、不穏な動きがあったからです。

なお、六波羅での職務はその後、整備・拡張され、西国の御家人の監視や京の治安維持の任も兼ねた幕府の正式な出先機関になりました。のちに六波羅探題と呼ばれます。六波羅は五条大橋の東一帯の地名で、かつて平氏一族の館が集まっていました。そのため、平氏政権は「六波羅政権」とも呼ばれていました。何かと因縁のある地なのです。

さて、鎌倉で不穏な動きを起こしていたのは、義時の後妻・伊賀の方でした。「尼将軍」政子に不満を抱いていた伊賀の方は、一族で幕府を支配しようと画策していたのです。その相談相手になっていたのは、この手の陰謀説では“常連”の三浦義村でした。

政子の行動はいつも素早く、迷いがありません。義村を問い詰め、伊賀一族を流罪にしました。そして、大江広元ら宿老の承認も得て、北条泰時を3代執権に任命したのです。このとき、泰時は43歳でした。

慈円の『愚管抄』のなかに「女人入眼の日本国」というくだりがあります。慈円は北条政子藤原兼子を念頭に、〈日本の国の仕上げはいつも女性が行う〉という意味で、この一節を記したのでした。仏像も眼を入れなければ、魂は宿らないということです。

1225年7月、日本国に眼を入れたことを確信したのか、北条政子が天寿を全うしました。そのひと月前、大江広元も他界しています。ちなみに、慈円もこの年に往生しています。

ひとつの時代が終わったのです。

「鎌倉殿」独裁から「法の下」の武家政権

第3代執権の北条泰時は、5代目「鎌倉殿」になったのでしょうか?

泰時は新しい時代を迎えるべく、頼朝以来の大倉御所を移転し、人心の一新もはかりました。新たに連署という職を設けたのです。連署は執権の補佐役、すなわち幕府の公式文書に「執権と連4名で署4名する役」を担っていました。

初代の連署には、頼れる叔父・北条時房が就任しました。六波羅でともに朝廷と交渉にあたり、その能力も気心も知れています。

さらに泰時は、13人合議制のリニューアル版を設置しました。政務能力のある11人の御家人評定衆として選び、合議によって幕政を運営することにしたのです。

将軍が表に出ることはありません。執権・連署・評定衆という合議体制が新時代の「鎌倉殿」になったといってもよいでしょう。もちろん、だれも「鎌倉殿」とは呼んでいませんでした。そもそも、初代頼朝のようなボス「鎌倉殿」は必要なくなっていたのかもしれません。

評定衆には当初、三浦義村や大江・中原・三善・二階堂の子息らが名を連ねていましたが、やがて北条一族が占めるようになりました。

鎌倉幕府はこうして、「鎌倉殿」の独裁体制から、宿老による13人合議制という短命の行政組織を経て、さらに“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”、承久の乱を乗り越えて、「新生合議制」による執権政治へと成熟していったのです。

1232年、北条泰時は「御成敗式目」(貞永式目)を制定しました。

それまでの武士の慣習・道徳にのっとった、武士による初めての成文法でした。朝廷の律令とは別に、御家人(守護・地頭)の任務・権限、罪を犯した者の刑罰、裁判の手続きなどの基準を定めたのです。泰時は六波羅で朝廷の役人たちと接するなか、時房とともに法理の大切さを学んだのでしょう。

当初、御成敗式目の効力は鎌倉と東国に限られていましたが、しだいに範囲を拡大させていきました。やがて律令や公家法が及んでいた社会にも影響を及ぼすようになります。

源頼朝が平氏打倒の狼煙を上げてから約半世紀、「鎌倉殿」の支配の仕組みは、「法」の支配へと進化を遂げたのでした。

大迫 秀樹 編集 執筆業

イラストレーション=メイ ボランチ