2022年7月21日、著名エコノミストの武者陵司氏が主宰する「武者リサーチ」が安倍元首相追悼セミナーを赤坂・紀尾井フォーラムで開催しました。その際に日本戦略研究フォーラム顧問の古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)が「安倍晋三氏と日本、そして世界」と題する基調講演を行いました。安倍晋三氏は当日本戦略研究フォーラムの最高顧問でした。その安倍氏への改めての弔意を表する意味でも、本フォーラムとして武者氏のご了解を得た上で、この古森氏の安倍晋三論の内容を紹介いたします。(日本戦略研究フォーラム

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若竹のような青年だった

 本日は皆さんお集まりくださって有難うございます。

 この素晴らしい企画、安倍晋三さんという日本にとっても国際社会にとっても特別な人が、非常に不慮のなんとも納得のできない亡くなり方をしたことに対して、まず弔意を表そう、そしてどういう実績が彼にはあったのかを語ろうという集いをこの時期に催すということは非常に前向きな日本全体にとっても大きなプラスになる企画だと思います。

 安倍晋三ウォッチャーというのは無数にいるわけです。安倍晋三サポーターももっとたくさん政治の世界はもちろん、ビジネスマスコミ、あるいは学界に存在します。そんな中で、私がなぜあえて皆様の前でお話できるのか、3つほどの背景をご説明したいと思います。

 もし私に安倍晋三氏を語る資格があるとすれば、第一に考えられるのは、やはり安倍さんを知って交流があった期間がきわめて長いということです。考えてみると、ちょうど40年前の1982年に初めて安倍さんと会いました。私はその前に毎日新聞ベトナム特派員、その後すぐにワシントン特派員をやって、ほぼ10年海外で国際報道に没入してきました。その直後から東京での政治部の記者として外務省を担当しました。

 ちょうどその時に安倍晋三さんはお父様の安倍晋太郎さん、この方も昔は毎日新聞にいましたが外務大臣になったので、その秘書官として外務省に入ってきました。まだ若くて20代の後半でしたが、彼もロサンゼルスに留学したり神戸製鋼という民間の会社で働いたりして一通りの社会生活は経てきたわけです。

 そこで記者側、外務省側、両方の若手を中心に勉強会をしようということになりました。そこに安倍さんも入ってきたのです。安倍さんが中心になるという感じはあまりなかったですが、彼は印象的な青年でした。非常に爽やかな、若竹を思わせるようなスラッとしていて、パッとポイントを突く発言をするのです。けれども時々ふと黙って深い思索に入っていくような感じがあって、そんなふうに寡黙になるのは、若者にしては珍しいなという印象を私は受けたのを覚えています。いま思えば、彼が人の話をよく聞き、その場その場でそうして聞いた言葉を深く考える習慣があった、ということでしょうか。

国際情勢への強い関心の若手政治家

 それから2つ目に、安倍晋三さんと私との交流というのはやはり国際的な文脈、国際情勢の中でいろいろ語り合ったことです。私が初めて会ってから10年近くしてから、彼は国会議員になりました。その時期、私はまたワシントンに駐在しましたが、時々東京に帰ってくる。もう少し後になると北京に駐在しました。

 その期間には北京とかワシントンから戻ってくるたびに安倍さんと会っていました。そのころ私は政治家との取材のための付き合いも国際問題を語れる人、関心を持っている人に絞っていましたので、その相手は非常に数は少ない。でも安倍さんは喜んで会ってくれて、国会の会期中にも議事堂の地下の質素な食堂で何か食べながらワシントンや北京の状況を話した記憶があります。

 3番目の背景は、雑誌「正論」(2022年7月号掲載)での対談「いまこそ9条語るべき」です。元首相との対談というのはおこがましく、私が彼の話を聞くというのが本来の姿なのですけれども、彼の方が、いや対談でいきましょう、お互い長く知っているのだから、ということになりました。その結果1時間半ぐらいの語り合いとなりました。彼の議員事務所で4月の終わりごろでした。今から思うと私と彼との1対1の話し合いはそれが最後になった。ここで彼は実にいろいろなことを語りました。一番熱を込めたのが憲法の改正ということだったといえます。

安倍氏は改革派だった?

 さて安倍晋三さんとは、一体どういう政治家だったのか。すぐに使われる言葉は保守という表現ですね。しかし、私はむしろ安倍晋三氏は改革派だと思うのです。改革というのは今、目の前にあるなんとなくもう既に出来ているシステムを変えようとするということ、これが改革ですよね。それから多数派の人たちが持っている意見に対して当面は少数の立場から反論を唱える、と、これもまあ改革ですよね。古き良きものを守るという部分もあったのですが、安倍さんの政治的主張は全体としては改革だった。刷新だとも言えるでしょう。

 しかもそれを超えるような特徴として、安倍さんはやはり現実主義者だった。世界の現実というのを見て日本の実態に反映させていくという一貫性に特徴付けられていたと思うのです。

 この点では安倍さんは無抵抗の平和主義と戦った。これをもうちょっと背景を広げて申し上げると、彼は日本の戦後の異端、とくに日本が国際基準と比べて違う国なのだという、この異端と戦ったというのがなにか一番的を射ているという感じがすると思うのです。

 日本の国としての異端というのは、戦後の日本がやはり普通の主権国家、独立国家とは異なる部分がある、という意味です。これをプラスマイナスかで分けるとどうしてもマイナスとしか思えない、日本をバランスのとれた国家として機能させていく上ではこの異端はやはり大きな欠陥になっているのだ、ということです。安倍さんは非常に若い時からその意識を持っていたということを私はかなり早い時期に知りました。

 実は私自身は新聞記者として当初はノンポリの時代が長かったのです。けれどもベトナムアメリカでのちょうど10年にわたる国際体験でその意識は大きく変わっていきました。我々特派員というのは外国にいながらも日本に向かって記事を書いていますから日本の状態も普通の在外の日本人よりは細かく見ているわけです。だから日本という存在を外から見るとどうなのかということもどうしても考えざるを得ない、その結果だんだんわかってきたのは、日本という国家の特殊性、つまり国際基準からみての異端性です。

日本の異端への認識

 日本は一見、非常にバランスの取れた国のように見えます。経済もよい、社会福祉もよい。教育も悪くない。国内の治安もちゃんとしているといえます。もっとも今回の安倍氏の暗殺でその国内治安の大欠陥が露呈しました。しかし一般には国内治安は悪くない。しかし1つ大きく欠けている領域がある。それは国の安全保障ということです。自分の国を守るということをしてはいけないのだという自縄自縛があるのです。その異端は憲法に起因します。

 憲法の前文では、「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持すると決意した」と書かれています。これは英語で書かれた憲法を訳したものですから、本来の日本語では「信義を信頼して」と記すべきところを「信義に信頼して」と書かれています。「てにをは」が違うのです。つまり憲法の前文では日本国民は自分の努力ではなくて諸国民の善意に頼って自国の安全を保っていくということを謳っている。

 それから憲法本体の9条は、普通に読めば自衛隊さえも持ってもいけないような解釈に取れる。戦争という行為は自分の国を守ることであってもいけないとまで読み取れるような条文になっている。つまり日本は自国を自分で防衛してはならない、という意味に受け取れる憲法なのです。

 このことをだんだん私は外国にいて何度も何度も意識するようになりました。決定的な私自身の目覚めというのは、実は憲法の草案を書いたアメリカ占領軍総司令部(GHQ)のチャールズ・ケーディスという当時の陸軍大佐で既に法律家になっていた人との会見でした。

 ケーディスさんは、ニューヨークウォールストリートの法律事務所で働いていて、そこへ行ったら快く会って話をしてくれたのです。

 ケーディス氏が終戦直後、25~6人の法律に詳しいとされているアメリカの軍人を集めて、皇居のお堀端にある第一生命ビルの中で1946(昭和21)年、まだ日本が降伏してから半年しか経ってない占領下の2月の10日間ほどで、一気に日本国憲法を書き上げた。それから30年ぐらい経ってから私は彼のところへ会いに行って、3時間半ぐらい話を聞いたのです。

 ケーディス氏は当時の憲法起草の経緯を詳しく話してくれました。いろんなことを言っていたけれども、とにかく早く作らなければならなかった、とも述べていました。実はマッカーサー司令部は日本側に草案を作らせようということで最初は松本烝治という法律の専門家の国務大臣に委託して書かせようとした。ところが出来上がった草案を見たらこれは大日本帝国憲法とほとんど変わってないと判断された。マッカーサー総司令部としては絶対に受け入れられない、じゃあどうするか、やっぱりアメリカ側が書こう、ということで一気に10日間で書いたということなのですね。

アメリカ占領軍の書いた日本国憲法

 この事実は、いまも護憲派と言われる人たちはあまり言わないですね。そして、この時の日本国憲法アメリカの占領軍は何のために、何を一番の目的として書いたのか。といったら、彼はきわめて簡潔に答えました。「日本という国を永遠に非武装にしておくことでした」と語ったのです。

 これは当然ですよね、ついその半年前まで日本と4年近く戦って、アメリカを苦しめたというこの軍事強国・日本の出現というのはもう絶対容認できないということで、自衛さえもやっちゃいけないというような条案が最初アイデアにあったという、ここから始まったわけです。日本国の戦後の船出というのは。そしてその国家のゆがんだ構造はいまも変わらないのです。

 自分の国を守ることができないかもしれない国というのは、やはり国際的にみて異端ですよね。国際的に、世界中を見回しても、そんな国はないわけですから。このことを安倍晋三さんという人はかなり早い時期からよくわかっていた。いま私が申し上げたよりももうちょっと鋭い指摘の仕方で、やっぱり日本の現状を変えなければ正常な国にはなれない、という信念を持っていたと言えます。

 安倍晋三さんはこうした日本の戦後のゆがんだ構造を正すべきだという認識を出発点として政治家としても船出を始めたという実感が非常に強かったのです。彼は国会議員となっても当初は自己主張や自己宣伝が少なかった。謙虚な部分を感じさせることが多かった。しかしじっくりと話をするたびに、彼の深層にある基本的な考え方が伝わってきたという印象をよく覚えています。

 この点は日本のいわゆる「平和主義」という点にもつながっていきます。

 私自身の体験をお話ししますと、ベトナム戦争サイゴンが陥落してから数日後に大勝利の大集会がありました。その時のことですけれども、ベトナムの革命勢力からすれば、これはフランスと戦ってアメリカと戦ってアメリカに支援された南ベトナム政府と戦って30年間で大勝利を得たわけです。その勝利を祝う大集会でこの革命闘争の始祖であるホーチミンの金言と言うか言葉、この言葉のために我々は戦ったんだろうっていう格言をバーッと掲げたのです。

 当時のサイゴン、いまのホーチミン市の中央にあった旧南ベトナム大統領官邸の最上階の前部に掲げられた巨大な横断幕にその金言は大書されていました。日本語でいうと「独立と自由より貴重なものはない」という言葉でした。当時の私にはまだまだ日本の戦後教育の影響が残っていたせいか、なぜ平和という言葉はないのか、といぶかりました。こんなに長く激しく戦ってきてやっと平和を得たのだから平和という言葉があってもいいのではないか、という疑問でした。

 でも平和という概念はそこにはない、あってはならない、あえて排除されていたのです。たとえ平和を犠牲にしてでも、独立と自由のために民族として国家として戦わなければならない、という考え方なのです。

 この基本姿勢は他の諸国も実は同様なのです。自分たちの独立と自由のためには平和を犠牲にして戦う。これはいまのウクライナがまさにそうですよね。平和を絶対に優先するならば、国として降伏すればよいわけです。一国家が外部から攻められたら平和のために必ず降伏すると宣言していたら、国家ではなくなります。

 世界のこうした現実を私は40年前のベトナム戦争の時に知ったわけですが、当時の日本の政治家の中でそういう認識を持っている人は非常に少ない、とくにシニアの政治家になればなるほどそういう感覚は薄いという状況でした。

日本の「平和主義」は実は降伏主義

 日本の戦後の「平和主義」という言葉にも大きな誤解がありました。この言葉は英語のパシフィズム、Pacifismをそのまま翻訳した形ですが、「平和主義」とすると実は誤訳になります。ふつうに平和主義と言えば、単に平和を愛する、優先する思考という意味になります。

 しかし英語のPacifismというのは実は戦わないという主義なのです。だから正確には反戦主義、あるいは無抵抗主義と呼ぶのが適切です。消極的平和主義、無抵平和主義とも呼べます。国際的な議論の中ではパシフィズムというとちょっとバカにされるようなところがある。それは外国からの軍事的な侵略や恫喝に対してなにもしない、という意味だからです。降伏主義という意味に解釈されることもあります。それが日本では平和主義と、いかにも平和愛好だけを指すように誤用される言葉となりました。

 安倍さんはこのあたりの状況もよく理解していました。そして首相在任中に「積極的平和主義」という言葉を防衛の基礎として打ち出しました。

 ところが、日本国内には圧倒的多数の反対派がいたわけです。日本は日本なりに何と言われようが、どんな場合でも憲法9条で平和を守るのだという情緒的な主張です。その背景には国家や政府への不信があります。国民にとっては、お上というか政府の言うことに従っていたら、戦争の惨禍になってしまったと考えれば、これもそれなりに理由があるわけです。

 そのうえに戦後のいわゆる無抵抗平和主義、世界常識から見た異端が国民の多数派の考え方になったことには、あと2つぐらいの要因がありました。1つは明らかGHQ、つまり占領アメリカ軍の施策です。教育方針、検閲方針、戦前の日本のやったことはすべて悪だったとする宣伝です。日本憲法が占領軍によってすべて書かれた事実も長年、伏せられていました。

 もう1つはやはり共産主義社会主義へのシンパシーです。これが日本のマスコミ、知識人と言われる層の間できわめて強かった。共産主義が正義だとすれば、戦前の日本も、戦後の日本も悪となります。アメリカがやることはよくない、アメリカとの同盟も悪い、あるいは憲法改正により日本をより均衡のとれた国にすることなど、とんでもない。日本がそんなふうになると、いわゆる軍国主義になって必ずまたどこか外国に攻撃をかける、というような宣伝が共産主義社会主義に共鳴する勢力から叫ばれていました。そんな左翼にとっては日本は自縄自縛の半国家であったほうがよいわけです。

日米同盟の片務性を正す

 安倍さんは、戦後の日本のこういう状態を一つずつ変えていきました。話はここで時代を飛び、近年に目を向けます。安倍さんがそのためにどんな改革をしたのか。

 わかりやすいのは平和安保法制です。2015年に日本は集団的自衛権の行使を限定的に認める法律を成立させました。それまで日本は集団的自衛権を保有しているが行使してはいけないことになっていました。そんな奇妙な国はどこにもないわけです。だから国連の平和維持軍の中に日本の自衛隊が入ってもちょっとでも戦闘の危険があるようなところに行ってはいけない、行った場合に攻撃を受けても日本だけは他国の仲間と一緒に戦闘してはいけないんだという、奇妙な状態にありました。ちなみにこの種の他国軍との共同戦闘の禁止は平和安保法制では対処せず、従来の自縄自縛が残っています。

 いまの日米安保条約に基づく日米同盟でも、日本が日本の領土か領海で攻撃を受けた時だけはアメリカから助けてもらう。だがアメリカの艦艇あるいは航空機が日本の領海領空をちょっと出たところで日本の防衛のために活動している時に、もし第三国から攻撃を受けても、これは一切日本は関係ない、となるわけです。つまり日米同盟は双務的ではない。

 この点をトランプ大統領が非常に彼らしい乱暴な言い方で指摘しました。不公平だと。日本はアメリカがいくら攻撃されても日本人は家にいて、ソニーテレビを見てればいいんだ、と何回も述べました。この指摘は実はアメリカの中のかなりの部分の心情というか考え方を反映しているところです。

 安倍さんは日米同盟に日本が自国の防衛を依存するのであれば、ある程度の双務性は欠かせないと考えていました。アメリカが日本を助けるだけではなく、日本も何かアメリカを救うために行動をとらなければならない、ということで平和安全法制という新法律を通しました。

 あるいはこれに前後して特定秘密保護法というのを作っています。これも日本の戦後の異端とかかわっています。戦後の日本にはそもそも国家機密という概念がなかった。だからその秘密に相当する政府の情報を敵性のある外国に流しても犯罪とはならない。他の諸国なら不可欠とされるスパイ防止法的な規制がないからです。日米同盟でアメリカから取得した軍事機密を日本側で第三国に流しても、違法行為とはならないという時代が続いたのです。それを安倍さんが是正しました。

国家は国民とともにある

 戦後の日本ではそもそも国家が嫌いだという傾向が強かったのです。国家というのは、個人を抑圧する悪の存在だとする。国家というと国家権力と表現される。その後に弾圧という言葉が、連想ゲームのように出てくる場合が多かった。マスコミあるいは学者の中ではとくにそうだった。

 ところが安倍さんが首相として明らかに信奉した政治思考では、国家は国民とともにある。国民が国家のあり方を決める。それが民主主義だということです。民主主義の国であれば国家と国民というのは同じであって、国民こそが国家を選ぶ国家の枠組みを作る。決して国家と国民というのは対峙する存在同士ではないわけです。

 ところが国民の多くが国家という意識を持たない、あるいは国家は悪い存在だとみなす。そうすると、国民は国のために何かをするという感覚が減っていく。国家のために個人の利益を脇においても何かをする、ことがない。日本という国を愛するという感覚もなくなる。

 逆に日本を愛するというと、右翼だとか軍国主義だというレッテルを貼られる。そういう状態が永く続いてきたわけです。私もそういう感覚にどっぷり浸かっていた時代がありました。

 この点を安倍さんはが非常にわかりやすい表現、温和な物言い方で少しずつ変えていきました。穏やかではあるけれど、決して芯を曲げないという方法で次々に変えていきました。国家安全保障会議というのを初めて創設したのも安倍首相です。その政策の実施の組織として国家安全保障局というのを作った。それまで国家安全保障という概念が日本の政府の政策の中にはなかった。しかしそれをはっきり確立しなければならない、独立国家であれば自分の国を守るという体制を作らなければならない。自国を守るための行動をとってはいけないのだというような政治風潮や行政組織の枠組みを変える。それが安倍晋三氏が成し遂げてきたことです。

安倍叩きの激しさ

 しかし、安倍さんはきわめて敵が多かった。まず日本国内でものすごく安倍晋三を嫌う自称、知識人も多数いました。「安倍晋三日本刀でぶった切ってやる」なんて暴言を吐いた大学教授もいました。しかしそんな暴言を吐いても相手が安倍さんであれば、世間一般は何の制裁も非難もしない。もし左派の政治家に対して同じことを述べれば、主要メディアや野党は日本国がひっくり返ったような大騒ぎをするでしょう。しかもこの安倍叩きはずいぶん長い期間、続きました。

 私は安倍さんに直接、「叩かれたことに関して反論しないんですか」とか「悔しくないんですか」と尋ねたこともあります。すると彼は、「私はわりあい平気なんですよね」という感じの対応でした。ただし、誰がいつどういうことを言ったかということをずっと覚えている、と漏らしていました。

 たとえばさっき申し上げた特定秘密保護法案に対して、「これはもう国家の検閲だ、秘密を全部抑えてしまうんだ、表現の自由まで全部、抑圧するのだ。だから映画が作れなくなるぞ」と繰り返し叫んでいた映画監督たちがいたのです。安倍さんはこの主張に対して私との最後の対談でも、実例をあげて、「ではこの法律の結果、1つでも作れなくなった映画があったならば、その名前を挙げてほしい、と反論したいですね」と述べていました。

 この点はやはり安倍さんの人間性かもしれない。私だったらこの特定秘密保護法案が通ったら映画が作れなくなると言っていた人間の実名を挙げて、非難しますよ、と述べたのです。すると安倍さんは「まあ私もたまにはそうしますよ」と笑っていました。

 さきほど触れた平和安全法案も、反対側は戦争法案だと断じて、徴兵制が始まるとまで宣伝していました。法律ができて、もう何年も経つけれども戦争は起きていない。もちろん徴兵制もない。日本ではいわゆる左派、左翼とされる人たちの発言が大きく間違っていても、間違いとして追及されないのです。私もそんな状況をずっと眺めてきました。

非難されない左翼の主張の誤り

 たとえば古い話ですが、サンフランシスコの対日講和条約に関して全面講和か単独講和かをめぐって、日本国内の意見が分かれたことがありました。日本社会党朝日新聞に代表される左派は、単独講和には反対だと主張しました。この「単独講和」という言葉自体も実はゆがめられた言葉でした。ソ連圏の国がこの講和に入らないというだけで、実際には多数の諸国が加わる多数講和でした。しかし朝日新聞などはこの状態を「単独」と称したのです。

 そして左翼勢力はソ連が加わらないうちはこの講和をボイコットせよと唱えた。もし日本が朝日新聞などの主張するとおりソ連が入ってくるまでは講和条約に応じないという方針をとっていたら、独立がずっと遅れたはずです。すると、日本はどういうことになっていたか。想像するだけでも恐ろしいです。

 それからもう1つの同様の事例は、日米安保条約に対しての反対です。日本のいわゆる左翼はこぞってこの条約、つまり日米同盟に激しく反対しました。もし日本政府がこの反対論に屈して、日米安保を切ってしまったとしたらどうなったか。日米同盟による日本の防衛を排除したら、どうなったか。東西冷戦中に日本がソ連の影響下に入った可能性は非常に高いといえます。そのソ連は1991年に崩壊しました。その際の日本はアメリカからみれば敵国です。

 日本が国家として非常に大きな岐路に立ったときに、いわゆる左の人が主張することに従ったら、とんでもないことになる。左翼はとんでもないことになりうる政策論を堂々と日本国民に向かって叫んでいたわけです。こういうことがあまり記憶に残らないまま、多くの国民が知らんぷりをする。安倍さんはこのへんの状況をしっかりと見てきたと言えます。

昭和天皇を戦犯とした模擬裁判への批判

 安倍さんもこういう左翼勢力との戦いをずいぶんと経てきました。初めて表面に大きく出たのが2000年の東京の九段会館で開かれた国際会議、「女性の国際戦犯の模擬裁判」をめぐる騒ぎでした。

 これは日本の戦争犯罪なるものを裁く、その責任者の罪を追及していくという女性主体の国際模擬裁判でした。役割を決めて判決を下すわけです。その結果、慰安婦問題は日本政府の犯罪行為であり、謝罪も賠償もしていないと断じて、主犯は昭和天皇だという結論を出しました。これにはいろんな国の人たちがきて、これをNHK朝日新聞が非常に深い介入の仕方をして番組を作って流しました。慰安婦問題では朝日新聞の大誤報が、まだ日本国内でも、国際的にも誤報、虚報だとわかっていない時期の出来事です。だからこの「裁判」の大前提が事実には即していなかったのです。

 この裁判のNHK番組について、安倍さんが若き政治家として何かを言ったということ、これが言論弾圧ということでものすごい反発を受けて、もめました。しかし安倍さんは報道弾圧のようなことはなにもしていなかった。しかしこの模擬裁判自体が公正をきわめて欠いた政治的偏向の産物であることは安倍さんはきちんと指摘していました。そんな実績があるわけです。

アメリカでの安倍批判

 そしてこの左からの安倍叩きというのは、実は国際的にも広がっていった。一時はアメリカに飛び火というよりも、いまからみればアメリカのごく一部のアメリカの政治基準でいくと過激な左翼のリベラルの学者がニューヨークタイムスを利用して安倍叩きを試みました。

 安倍という人物は日本を戦前の状態に戻そうとする軍国主義者である、タカ派である、ナショナリストであると。このナショナリストという言葉も曲者です。自分の国や民族を愛して、大切にするという意味ではどの国の指導者もナショナリストです。一国の指導者が自分の国のことを前向きに考えるのは当然です。

 しかしその同じ言葉をアメリカ側から日本に対して浴びせると、上からの視線で見下す感じになります。ナショナリストという言葉自体がなにか非民主的、反民主的な要素を持った考えの持ち主だという印象になるのです。人種差別の色さえにじむ言葉です。

 安倍さんはアメリカ側の左傾の知識人たちからその言葉を使って非難されました。そうした連中はとにかく安倍嫌い、ということで、感情的にまでなって、ずいぶんとひどい言葉まで使いました。「安倍晋三はthugだ」などとののしった実例もあります。thugというのは、悪者とか刺客という意味です。

 しかしいまから見れば、この時は慰安婦問題で日本を徹底して叩こうとしていたアメリカ側のごく一部の学者による誹謗でした。その筆頭はコネチカット大学の教授のアレクシス・ダデンという女性でした。安倍氏を公開の場でthugと罵ったのもこのダデン氏でした。彼女は後に、韓国の学術団体から安倍首相の批判をしたことを実績とされて、なんとか平和賞っていうのをもらっている人物です。韓国と非常に近い政治活動家のような人物なのです。当時はアメリカでこういう人が安倍氏を叩き続けていたのです。

拉致問題での国民的評価の高まり

 しかし安倍さんは2006年9月に総理大臣になりました。戦後でも最も若い総理大臣でした。この首相就任への過程では拉致問題での安倍晋三氏の実績が大きかったと言えます。私自身はその少し前にたまたま毎日新聞から産経新聞に移ったという経緯がありましたが、毎日新聞時代から北朝鮮政府による日本人拉致事件という犯罪への疑惑や認識は深く持っていました。

 実は北朝鮮政府が日本人日本国内で組織的に拉致していたという事実はかなり早い時代から日本側の一部でよく知られていました。しかし日本政府はそれを認めなかった。主要メディアもほとんどが否定していた。マスコミの多くは「北朝鮮当局による日本人拉致事件」というと真正面から否定に回っていたのです。北朝鮮に対してそんな無実の罪となるような非難をするのはとんでもない、朝鮮民族の蔑視だとか偏見だ──という反応が強かったのです。

 だから「拉致問題なんてものはないんだ」という主張をかなりの人たちが述べていました。そういう人たちの実名はみな記録に残っています。しかしいまはそういう人たちの誰もが、そんな発言をしたことをすっかり口をぬぐい、知らんぷりです。左翼の人はどんな誤りを述べても追及されないという実例です。

 こういう流れの中で安倍さんが拉致問題被害者の横田滋さん、早紀江さんという人たちの話をよく聞いて、その主張を信じて、一緒に活動していました。このころも私はワシントンにいたのですが、2001年小泉訪朝の前の年に初めて拉致の家族会の代表がワシントンに来て、アメリカ側の支援を求めました。ちょうどその時に登場してきた2代目ブッシュ大統領が、北朝鮮を悪の枢軸だって断じました。その強硬さに驚いた時に北朝鮮の最高指導者の金正日アメリカの非難におびえて、日本の援助を期待し、日本人拉致を認めた、そういう展開になったわけです。

 この時も、アメリカ政府が日本政府よりも北朝鮮による日本人拉致問題の解決に対しては、理解を示してくれました。だから横田夫妻らは喜んでいました。その時の自民党政権の中枢は北朝鮮に対して強固な態度をとれない傾向がありました。そんな状況下で安倍氏だけは自民党中枢の意向に反してまで、拉致被害者の側に密着して、事件の解決への努力をしていました。

 私はその実態を横田夫妻らからワシントンで詳しく聞きました。実は、日本側の被害者アメリカ側の官民の誰と会うべきかなど私も連日のように家族会、救う会の代表たちと会って、私なりの助言をさせていただきました。だからなおさら安倍晋三氏の拉致事件解決への努力を強く認識したわけです。

 そして小泉訪朝で結局安倍氏が一生懸命やっていたことが正しかったことが完全に証明されました。この展開で安倍晋三氏への国民的な評価が上がったという経緯、これは皆さん記憶されている方が多いと思います。

ニューヨーク・タイムズへの寄稿で安倍氏の実像紹介

 しかしそれでも総理大臣になってもネガティブな評価がなお内外では消えなかった。この点、私はアメリカでの安倍氏への評価に関して、ささやかな役割を演じました。安倍総理誕生直後の2006年9月にニューヨークタイムズの寄稿ページの編集長から連絡があり安倍晋三新首相について評論を書いてくれと依頼してきたのです。

 どうしてニューヨークタイムズが叩いているのに? と尋ねたら、今まで安倍晋三に関してネガティブなことばかり書きすぎたからちょっとバランスを欠いている、とはっきり向こうが認めたのです。あなたは安倍さんの実態を見ている立場らしいから、客観的なことを結果としてポジティブになるのだろうけれども書いてくれ、というリクエストでした。

 当然ながら私は英語のこの記事を一生懸命、書きました。その寄稿記事はかなり大きく、寄稿面の上段、トップに掲載されました。見出しは“Who Is Afraid of Shinzo Abe?” となりました。「誰が安倍晋三を恐れるのか」という意味の見出しは1960年代にアメリカで有名になった舞台劇の「誰がバージニアウルフを恐れるのか」を真似た表現でした。

 この記事で私が強調したのは、まず安倍氏が戦後最初の民主主義で育った総理大臣だという点でした。2番目はやはりアメリカとの協調論者なのだという点です。祖父の岸信介首相の膝に座り、渋谷の南平台の家がデモ隊に囲まれて、安保反対、安保反対という大声が聞こえてくる、そのなかで、自分もつい真似をして「安保反対」と言ったらお爺さんが「やめろ」と言ったとか、そういう話も書きました。やはり彼自身が日本の道はアメリカと協調していくことがいいのだと信じて、育ったのだろうという指摘でした。

歴史問題での安倍氏の新アプローチ

 3番目は、それまでに出てきたいわゆる歴史問題で、安倍晋三はいままでの日本のリーダーとは違って、ただ謝ることはしないのだという点でした。歴史問題というのは、外務省の方針もあって、私もずっと中国に駐在した際も目撃したのですけれども、安倍政権が登場してくるまでは、戦争に絡む問題で外国の官民がどんな不当な非難を述べても日本側は反応しない、否定もしないという時代が続いてきました。

 いまから思うと皆さんそんなことがあったのかと思われる方が多いかもしれませんけれども、実際にそうでした。なんにも否定しない、反論もしないのです。だから私も中国にいてずいぶんこの日本非難にはさらされました。

 たとえば南京で1カ月に35万人の非武装の中国の民間人が日本軍によって殺されたと中国側は公式に主張します。これを認めない人間は反中だとして糾弾してくる。しかしどう考えても無理な主張です。東京裁判でも南京の当時の人口が20万しかいなかったっていう数字が出たりしているわけですから。

 慰安婦に関しても吉田清治という人物が、済州島で日本の官憲が強制的、組織的に地元の女性を大量に捕まえる人間狩りをしていたと証言し、本まで出しました。しかしこれが全部嘘だったと後に判明しました。嘘だという事が分かる長い年月、従軍慰安婦という20万人の女性の性奴隷がいた。それら女性は日本の政府あるいは軍が、政策として組織的にそのへんの町や村にいる若い女性たちを強制的に連行した結果だった、という主張が横行していました。つまり日本軍による組織的な強制連行という誤解が、アメリカでも定着していたのです。

 安倍さんはその誤解に基づいての攻撃の最大の標的になっていました。安倍さんが強制連行はなかったのだ、と述べると、「安倍晋三従軍慰安婦の存在自体を否定している」という虚構の報道がされていました。ニューヨークタイムズがそんな糾弾の急先鋒でした。日系のカナダ人のオオニシという人物が同紙の東京支局長で、そういう安倍叩きをずっと書いていた。

 もっと次元が高い問題として、戦争前の日本はすべて悪だとする態度への対応がありました。戦後の日本では「戦前の日本は悪」という断定が一番人気のあるパラダイムでした。だから君が代もよくないとなるわけです。私なんかまさにそういう戦後の教育を受けた世代でした。こういう日本の特殊性も他の諸国に行ってみて、その歪みがわかる。どの国でも自分の国の国旗とか国歌を否定するようなことはないわけです。自国の歴史をすべて悪だとすることもありません。日本の異端はそのあたりでも露骨なのですが、そのことをみんななかなか思っていても言わない。でも安倍さんは率直に指摘したのだといえます。

アメリカでの安倍評価の急上昇

 その後、安倍さんのアメリカでの評価は少しずつ少しずつ変わっていきました。彼自身も何回もワシントンにいってアメリカの議会で戦後70年の談話を発表した。日本の民主主義を強調し、対米協調路線を明示して、戦争についても単に謝るという態度はもう見せなかった。

 安倍氏の英語はかなり上手です。流暢ではないけれども自分で英語で話す時は事前に十二分の準備をして、本当に一生懸命に話します。普通の英米のネイティブの人たちによく通じる英語です。

 議会の合同会議で語った戦後70年談話は歴代の日本の首相の同じような談話と違って戦前の日本が全部悪かったというようなことはもう一切言わなかった。それからもう謝ることはもうこれで終わりにしようと。日米両国は全力で戦い、アメリカが勝ったのだ、という素直な総括を示しました。だからもう決着はついているのだ、というような表現でした。この率直なメッセージは意外なほどアメリカ側で好感を招きました。その種の前向きな安倍氏への反応はどんどん広がっていきました。

 時代を少し前に戻しますが、安倍氏2007年に体調を悪くして総理大臣を辞めるわけです。そして野党の領袖となる。実はアメリカでの安倍晋三評というのが大きく変わり始めたのは、この安倍氏の在野時代からだったのです。

 安倍さんが野党の代表としてアメリカへ行っていろいろな人と話す。アメリカ側ではちょうど2代目ブッシュ政権の時ですけども、まず保守派の人たちが安倍氏のよいところを見て、民主主義そして日米同盟という共通項によって共存していくよきパートナー安倍晋三なのだという認識を明らかに深めていきました。政権の座にいない安倍晋三を快く丁重に迎えてくれたのです。

 2代目ブッシュ政権にいたチェイニー副大統領とかラムズフェルド国防長官とか、民間ではハドソン研究所のワインシュタインという所長、彼はトランプ大統領に次の駐日大使に任命されたけれども大統領選挙でトランプ氏が負けたため実現しませんでした。しかしそうした要人たちが、在野の安倍さんを招いて非常に丁重に扱うということが何度もありました。

 そうした共和党側に多かった安倍氏への高い評価や温かいもてなし、さらには安倍氏自身のワシントンでのアメリカ一般への語りかけが、アメリカ官民で好感の輪を広げ、民主党側にも波及していきました。その間、日本では民主党政権の鳩山由紀夫首相らが米側の民主党オバマ政権を失望させる言動を重ねたことも、在野の安倍晋三評価を米側で高める要因の一端になったと言えます。

安倍氏の「インド太平洋」構想がアメリカの主要政策に

 安倍晋三氏が国際的にはっきりと評価を上げたのは、彼が他の諸国の誰よりも早く説いたインド太平洋構想です。この構想は安倍氏自身の説明によると、日本と中国との緊迫した状態を、側面からあるいはもっと高い次元から変えようというような発想で打ち出したそうです。この点は2022年4月の私との対談でも彼自身、はっきりと述べていました。

 安倍氏は実際に、2つの海、つまり太平洋インド洋はやはり2つ一緒に考えるべきだということを2006年から主張していました。最終的には2016年アフリカでの経済開発関連の国際会議で明確に「自由で開かれたインド太平洋」という表現を使い、その構想を国際的に公表したわけです。

 この「自由で開かれた」という部分に、中国に対するかなり露骨なメッセージが入っています。中国が一帯一路とか、その他のインフラ構想で国際的な膨張に努めているが、その内容は自由でも開かれてもいない、という意味を込めて、自由で開かれたと言ったわけです。

 トランプ政権がこれはいいということで、中国の独裁制や排他的慣行を非難するときの材料に使い始めました。

 そのトランプ政権を一貫して非難をしてきたバイデン政権が登場した時に、どうするかな、と私は興味津々に考察していました。バイデン政権には前のトランプ政権がやったことはほとんど全部排除していくという傾向があったのですが、結局バイデン政権もトランプ政権と同じ「自由で開かれたインド太平洋」という安倍さんが言い始めた言葉を使って現在に至っています。

 中国に対してインド太平洋へと地理的に広げる地政学的において、インドという存在に焦点を当てる。インドは非常に微妙な存在だけれども中国に対しての警戒とか不信がものすごく強い。それを引き込んでとくに中国への加重の圧力とする。そんな総合的な戦略をプッシュしていくという部分がアメリカ側にすごくアピールしたようです。

 ちょうどオバマ政権の終わりから、中国がどうしてもアメリカにとってはほぼ敵視せざるを得ない存在となりました。その結果、トランプ政権になって歴代政権がずっと一貫してとってきた中国に対する関与政策というのは間違っていたという宣言が出された。中国に向かっての対決対立の政策になった。バイデン政権もほぼそれと同じ政策をとっています。ただしところどころに穴ぼこがあります。中国とはやはり協調しなければ、仲良くしなければいけない部分もあるのだと、中国に対する「まだら外交」もバイデン政権の特徴ではあります。しかしいずれにしても安倍晋三という人物のインプットはバイデン政権にもはっきりとうかがえるのです。

なぜ統一教会だけに焦点を当てるのか

 最後に、安倍氏の暗殺について、いくつか気になることを申し上げます。

 旧統一教会に焦点を当てて、その問題が何か暗殺の原因かのように持っていくという最近の傾向は不可解です。この情報の出どころは捜査当局しかないわけですが、その捜査当局こそ、重要人物の暗殺をあれほど容易に達成させてしまったという責任が明らかにあるわけです。

 主要マスコミを主舞台に統一協会のせいだと唱えるようないまの論調に、私は非常にその不公正というか怪しいものを感じるわけです。どんなことがあっても、暗殺が正当化されるはずはありません。

 それから「民主主義への挑戦だ」という主張も同意できません。これも言いやすい言葉です。しかしその中身は何かというと、よくわからない。暗殺事件の容疑者がいまの日本の民主主義を否定したり、挑戦したりという動機のために安倍氏を殺したという論拠はまったくないと言えます。

 私はむしろいまの日本の民主主義の弱点から起きた暗殺ではないかと思う。奈良の警察が地元に長年、住む容疑者が銃や火薬の密造し続けていた事実をまったく察知していなかったとすれば、住民の私生活には触れるな、という民主主義の名の下での個人の権利の過剰な保護となるでしょう。安倍氏の警護もまったく不十分だったことは、いまの民主主義の日本社会では暗殺など起きはしない、という楽観を思わせます。容疑者からすれば、民主主義の名の下での警備や警護の不足こそが犯行を可能にしたことになります。

レーガン狙撃事件との対比

 私が今回の暗殺事件を知って、まず思い出したのは私自身がかなり間近に見たロナルド・レーガン大統領に対する狙撃事件、暗殺未遂事件です。1981年3月30日ワシントン市内でヒンクレーという25歳の青年がレーガン大統領を狙って6発撃ったのです。この時の警備の状況というのは、もうかなり詳しく公表されています。

 そのときシークレットサービスの警護部長だったジェリー・パーという人が『シークレットサービス』(邦題)という本を書いて日本でも最近出ています。非常に面白い本です。そのなかにレーガン大統領がどうやって助けられたかという経緯が詳述されています。犯人は一発撃ってその次まで3秒ぐらい間隔をおいた。この点は非常に安倍さんの時と似ているのです。

 最初の一発が発射されたその瞬間に大統領の一番近くにいたパー警護部長がレーガン大統領の襟を掴んでガーッと引きずって伏せさせて、側にあった大統領専用車に押し込んだ。で、もう1人の警護官もそれについて大統領の体を車内に押し込んだと。で、3番目の警護官がその専用車の入り口に立って狙撃者の方に向かって立ちはだかった。とにかく大統領を庇うことが第1だという方針に徹底した動きだったのです。

 そのころから明らかにされているのは、大統領警護はダイヤモンド型とよく言われる菱形の基本です。つまり大統領の真ん前に警護官がまず1人いる、それから横の右と左に1人ずつ計2人いる、真後ろに1人、と。これでダイヤモンドの形になるというわけです。

 それから大統領自身は防弾チョッキを着けている場合が多い。レーガンの場合には、ワシントンヒルトンホテルから出てきてほんの10メートルぐらい歩いて車に乗ってホワイトハウスに戻るはずだったから、防弾チョッキはつけてなかったという。

警護の失敗への疑問

 今回、私が疑問に思う諸点を挙げてみます。第1点は、安倍さんの背後の警護がなぜゼロだったのか、です。録画を見ても、安倍さんの後方では容疑者が自由に動き、その不吉、不穏な動きを警護側は誰も、なにも対応をみせていないことが明白でした。

 第2点は、1発目の銃撃から次の銃撃までの3秒ぐらいの間に、なぜ警護側は安倍氏の身体を守ろうとしなかったのか、です。とっさに安倍氏の体を地面に伏せさせる、あるいは警護官自身の体で覆って防御することができたはずです。しかしなにかをした形跡はまったくありません。

 第3点は、この容疑者が同じ住まいで過去10年もの間に多様な銃や爆発物を製造してきたのに、なぜ捜査当局はその動きを察知して事前の警戒態勢をとらなかったのか、です。さほど広くない地元社会でこの種の危険な人間の動きがなぜ警戒されていなかったのか。きわめて不自然なものを感じます。

 第4点は、安倍さんほどの要人であれば、なぜ防弾チョッキの類を身につけさせられていなかったのか、です。アメリカの現職大統領ではないにせよ、いまの日本では最も標的にされやすい重みを持った人物が安倍晋三氏でした。

 以上、ざっと考えただけでも、警備や警護に重大なミスがあったことは明白です。こんな事態によって日本の貴重なリーダーが亡くなってしまったことの無念さは胸を圧するものがあります。

安倍氏の最後の笑みへの痛恨

 私は、長年にわたり、安倍さんを国際的な角度から見ていて、今から思うとなんとなくこの人がいる限り、日本国がある程度の水準以下に落ちていくことはない、日本が奈落に落ちていくことはないだろうと、心の中で感じてきたことをいまになって意識しました。簡単にいえば、わが日本は安倍晋三氏が健在な限り、大丈夫だろうと思ってきた、ということです。その希望の星のような安倍さんが亡くなってしまった。

 前記の安倍氏との対談で最後の最後に私が彼に告げたことは日本の世間には「やはり安倍さんだ、という声が多く、それを無視はできないでしょう」という言葉でした。その意味は、もう一度総理大臣やってもいいんじゃないかっていう趣旨です。その言葉に対して安倍氏はなんとも言えない笑みを浮かべて、「いや、いまは岸田政権を全力で助けていく、それに尽きます」と、答えたのです。私は勝手に、この人はいざという時はまた国政のトップに就く意欲はあるなと解釈しました。しかしいまやその期待も虚しくなりました。返す返すも残念だという思いです。痛恨であります

 最後にワシントンでの安倍さんへの礼讃を報告します。日本の中でいろいろ毀誉褒貶があるけれども、ワシントンではびっくりするぐらいネガティブな反応はありません。私自身も、リベラルで安倍さんに対して無関心とか批判的に見えたような友人知人から、お気の毒だなとか、日本にとっての重大な悲劇だというメッセージが多数届いたので、びっくりしました。世界での安倍晋三の悲劇ということのインパクトの巨大さは、おそらく皆さん日本のマスコミでみられている以上に大きいのだと、私は実感します。

 最後に、安倍さんのご冥福を祈りつつお話を終わらせていただきます。ご静聴どうも有難うございました。

[筆者プロフィール]  古森 義久(こもり・よしひさ)
 1963年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞入社。1972年から南ベトナムサイゴン特派員。1975年サイゴン支局長。1976年ワシントン特派員。1981年、米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。1983年毎日新聞東京本社政治編集委員。1987年毎日新聞を退社し、産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員などを歴任。現在、JFSS顧問。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。麗澤大学特別教授。
 著書に、『危うし!日本の命運』『憲法が日本を亡ぼす』『なにがおかしいのか?朝日新聞』『米中対決の真実』『2014年の「米中」を読む(共著)』(海竜社)、『モンスターと化した韓国の奈落』『朝日新聞は日本の「宝」である』『オバマ大統領と日本の沈没』『自滅する中国 反撃する日本(共著)』(ビジネス社)、『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』(幻冬舎新書)、『「無法」中国との戦い方』『「中国の正体」を暴く』(小学館101新書)、『中・韓「反日ロビー」の実像』『迫りくる「米中新冷戦」』『トランプは中国の膨張を許さない!』(PHP研究所)等多数。

◎本稿は、「日本戦略研究フォーラム(JFSS)ウェブサイトに掲載された記事を転載したものです。

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