終戦直後の1945年夏。満洲にソ連軍が侵攻する中、自らの危険を顧みず邦人引き揚げを支えた、ひとりの元ラガーマンがいた――。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。

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 日本ラグビー界において「星名秦(ほしな・しん)」の名は広く知られている。しかし、一般的な知名度は決して高くない。そのギャップは不思議なほど大きい。

 ただし、星名のラガーマンとしての功績を知っている人でも、彼が先の大戦の終結直後、満洲国において大規模な「邦人救出劇」を実現した史実については、ほとんど知らないのではないか。まさに歴史に埋もれた「知られざる救出劇」である。

「伝説のラガーマン」の知られざる背景

 明治37(1904)年5月20日、星名はアメリカのテキサス州ヒューストンで生まれた。命名は「秦の始皇帝」にちなんだものである。

 父親の謙一郎は伊予国吉田(現・愛媛県宇和島市など)の出身。海外に活躍の場を求めた謙一郎は、ハワイアメリカ本土において牧場経営や米作事業に挑戦。成功を収めた。

 秦が3歳の時、一家は帰国。愛媛県松山市で暮らし始めた。しかし、謙一郎はその後、単身ブラジルに渡って開墾事業などを開始。日本人移民の先駆者の一人となった。ただ、やがて周囲の住民と利害が衝突。謎の凶弾に倒れて客死した。

 そんな父親に似て、星名秦も豪快で行動力のある人物だった。京都一中、第三高等学校(旧制)を経て京都帝国大学工学部機械科に進んだ星名は、ラグビー部の門を叩いた。

戦前の「ラグビー強豪校」だった京大

 ラグビーと聞くと「日本で始まったのは戦後」と想像する方も多いであろう。しかし、明治36(1903)年に慶應義塾大学で産声をあげた日本ラグビーは、その後に全国に波及。「ラグビーブーム」と言ってよいほどの人気を集めていた。中でも、大正11(1922)年に創部した京大ラグビー部は、戦前の「強豪校」の一つだった。

 星名は鮮やかなサイドステップを得意とする快足のスリークォーターバックとして活躍。相手のタックルをかわして前に出るそのランニングスキルは、「大学ラグビー界屈指の能力」と称賛された。

 3年生になると主将に選出。工学部の星名は実験などで多忙だったため、昼休みのうちに練習着を着込んでおき、授業が終わるとすぐさまグラウンドに駆け出していった。まさに「文武両道」を地でいく青春だった。

 部内におけるニックネームは「テキ」「テキさん」。テキサス出身というのがその由来であった。明るく楽しい雰囲気が「星名組」の特徴だったと伝わる。

名門、悲願の初優勝

 名門の京大ラグビー部だったが、いまだ全国優勝の経験はなかった。「星名組」は初の栄冠に向けて厳しい練習に励んだ。

 昭和2(1927)年の秋から始まったシーズン、主将の星名を中心とする京大ラグビー部は開幕から好調。ライバルの東京帝国大学に22−0と完封勝利を収めるなど、優勝争いのトップに立った。

 昭和3(1928)年の元日には、明治神宮外苑競技場にて当時の絶対王者である慶應義塾大学と対戦。超満員の観衆が見守る中、11−5で慶大を下した。さらに1月7日には同じく明治神宮外苑競技場にて早稲田大学と対戦。この試合に勝てば初優勝が決まるという大一番を14−11でものにし、ついに悲願の初優勝を飾ったのだった。星名らは歓喜の涙を流したという。

卒業後、鉄道マンになった星名は特急「あじあ」の開発に

 京大ラグビー部を初の頂点に導いた星名秦は、京大卒業後、日本の満洲政策の根幹を担う半官半民の南満洲鉄道株式会社(満鉄)に就職。日本国内ではなく海外での職を選んだのは、開拓民の先駆けとなった父親譲りと言えるであろうか。

 半官半民の満鉄は、日本の満洲経営の中核を担った一大コンツェルンである。鉄道はもちろん、鉱工業や商業、観光事業といった多角経営によって事業を拡大。戦前の日本における最大級の企業であった。

 京大工学部卒の星名は、そんな満鉄に本社幹部社員という待遇で採用された。正式な配属先は、鉄道部運輸局運転科鉄道係である。結婚して、子宝にも恵まれた。

 ヨーロッパへの研修留学も経験。約2年にわたり、主にドイツディーゼル機関車の内燃機関などを研究した。

 満洲に戻った後、技術者として携わったのが、特急「あじあ」の開発だった。満鉄は「世界一特急列車」の開発を目指していたが、星名もその巨大プロジェクトに参加したのである。

 その後、星名は大連機関区長、奉天鉄道局輸送課運転係長などを経て運輸局次長という栄職に就任。満鉄時代の後輩である小西秀二は星名についてこう述べている。

〈思ったことは必ず、やり通すという強い信念のお方〉(『星名秦の生涯』)

その日、ソ連軍がやってきた

 そんな星名の生涯を一変させたのが、ソ連による満洲国への侵攻だった。昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告。翌9日未明、満洲国への侵攻を開始した。約157万人もの大軍が、満洲国への攻撃を始めたのである。

 8月13日、星名は部下らを率いて避難を開始。しかし、逃避行中の15日、日本の敗戦を伝える一報が届いた。星名らの間に失意と脱力が広がった。

 だが、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかなかった。星名はすぐにプロの鉄道マンとしてのやるべきことに着手したのである。

満洲各地で起こるソ連軍の暴虐…「引き揚げ邦人の安全」は星名に委ねられた

 満鉄がすぐに対応しなければならなかったのが、日本へと引き揚げる邦人たちを安全に輸送することであった。その全面的な指揮役となったのが星名だった。

 ソ連軍は満洲各地で日本人への虐殺や略奪、強姦などを始めていた。8月14日には、徒歩で避難中だった日本人が満洲に侵攻したソ連軍に襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人もの民間人が殺される「葛根廟事件」も起きている。

 そんな中、星名は新京(現・長春)に戻り、邦人引き揚げに関する対処、調整、決断を次々と下していった。少しの対応の遅れが被害者の拡大に繋がる。結局、満鉄の的確な列車の運行により、多くの邦人が間一髪で難を逃れることができた。

 星名のもとには、一つの連絡が入っていた。妻子が暮らす奉天(現・瀋陽)の自宅に、混乱に乗じた現地の住民らが侵入し、家財道具のほとんどを略奪されたという連絡であった。

 それでも星名は職場を離れなかった。星名は避難民の輸送を最優先し、自身の任務に集中した。当時の同僚である松本林弌は後にこう綴っている。

〈難民輸送の総指揮をとるのは満鉄広しと言えどもテキさん以外になく、テキさんを新京に釘付けにしてしまった。家族のことが気がかりでない筈はないのに、一言もそれを口にされなかったという〉(『星名秦の生涯』)

 元京大ラグビー部主将による見事な「邦人救出劇」だった。

 その後、満鉄は解体され、ソ連の指揮下に組み込まれた。星名はソ連側から旧満鉄側の実質的な責任者に指名された。星名はソ連側と様々な交渉を重ねた。星名はこの時期、まだ40代前半であったが、心労の結果であろう、その頭髪は真っ白になってしまったという。

 結局、星名はその後も自身の帰国を後回しにし、引き揚げ業務などに集中。星名がようやく帰国できたのは、昭和22(1947)年のことであった。満鉄のエリート幹部だった星名だが、無一文となっての帰国だった。

帰国後、星名は…

 昭和24(1949)年、星名は同志社大学工学部の教授に就任。ラグビー部の指導にもあたった。京大ラグビー部での指導も行い、海外の最新理論を取り入れたラグビーは「星名ラグビー」と呼ばれた。

 昭和41(1966)年には、同志社大学の学長に就任。時はちょうど学園紛争の時代であり、学生たちとの徹夜の交渉を重ねた星名は、心身ともに疲弊して体調を大きく崩した。

 昭和52(1977)年9月26日、星名は逝去。73年間の激動の生涯を閉じた。一部のネット上では「昭和59年逝去」との情報が出回っているが、これは間違いである。

 命日さえ間違って伝えられるほど、星名は知られざる存在となった。しかし、彼が終戦直後の動乱を極めた満洲国で残した功績については、史実に沿ってしっかりと語り継ぐべきであろう。「引き揚げ」という一語の陰には、名ラガーマンの奔走があったのである。

(早坂 隆)

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