2007年を迎え、世の中が正月休みを終えようとしていた1月3日の夜、東京・渋谷区歯科医師宅で長女の短大生Aさん(20=当時)の切断遺体が発見された。1階は歯科医院として使われており、2階と3階の居住スペースのうち、3階にはAさんの兄で予備校生の次男・橋本耕太(仮名・21=同)の部屋があった。遺体は十数箇所を切断されており、同室のクローゼットキャビネット内に、黒と透明のポリ袋、計4つに分けて置かれていた。

妹を殺害した動機

 室内に外部から侵入された形跡が見られなかったことから、警視庁捜査1課と代々木署は翌日早朝、神奈川県内で予備校の合宿授業を受けていた耕太に任意同行を求めた。当初はAさんの死亡について関与を否定していたが、午後になり、犯行を認めたため、警察は耕太を死体損壊容疑で逮捕した。

 このとき耕太は「妹から『夢がない』となじられたので、頭にきて殺した」と供述している。その後、台所の包丁と自室にあったのこぎりで、Aさんの遺体をバラバラに切断し、ポリ袋に入れた。床に落ちた血を拭き取り、包丁は元の場所に戻したという。大晦日、父親に「友人からもらった観賞用のサメが死んでしまったので、部屋からにおいがしても開けないで」と念を押し、予定通りに予備校の合宿授業に向かっていた。

「夢がない」の一言で、妹を殺害するまで、きょうだいはどのような関係にあったのか。何を思いながら、妹の遺体を切り刻んだのか。しかし、のちに行われた公判で、耕太の口からそれが語られることはなかった。

* * *

 Aさんの遺体が発見された頃、東京は別のニュースで賑わっていた。2006年12月新宿区の路上と渋谷区の民家敷地内でそれぞれ男性の切断遺体が発見されていたからだ。別々の場所から見つかったこれらの遺体は同一人物のもので、耕太が逮捕された1週間後、同じく渋谷区に住む男性の妻が逮捕された。殺害に及んだのはいずれも2006年12月渋谷区で立て続けに世を騒がす殺人・死体損壊事件が起きたことになる。

Aさん殺害後、予備校の合宿へ

 耕太は妹であるAさんを殺害後、衣服を脱がせ、その遺体の関節を切断し、左右対称に15に分けた。遺体を入れていたポリ袋のうち3つは、母親が異臭に気づきそれを見つけるまで、自室のクローゼットの中で新聞紙に覆われていた。そして彼は、大晦日からの予備校の合宿に、Aさんの下着を持ち込んでいた。

 逮捕後の取り調べでは、耕太は事件のことを詳細に語っていた。当時の供述によれば、事件の日の午後3時ごろ、2階の部屋でテレビを見ていたAさんから、こう言われたのだそうだ。

「こう君は勉強しないから成績が悪いと言っているけど、本当はわからないね。私には夢があるけど、こう君には夢がないね」

 腹を立てた耕太は、3階の自室に戻り、木刀を手にして部屋を出たのち、同じ階の洗面所で、かがんで顔を洗っていたAさんを背後から数回殴った。さらに用意していた紐のようなものでAさんの首を数分絞め、瀕死状態となったAさんを2階の浴室までひきずり、水を張った浴槽に放り込み殺害したという。確かにAさんの遺体には切り傷のほか、生前に水に沈められた形跡もみられたため、このときの耕太の証言とは矛盾しない。

 凶器のひとつである木刀からは血液反応は出なかったが、遺体を切断したと見られる風呂場にすら血液反応がみられなかったため、入念に隠蔽工作をしたことが窺われた。遺体を入れたポリ袋は、母親に発見されなければ「予備校の合宿が終わったら捨てるつもりだった」とも供述していた。

学部を目指して3浪していた

 耕太は当時、歯学部を目指し3浪しており、年明けからの受験を控えていた。にもかかわらず、家ではネットゲームに夢中になり、勉強時間は多くなく、成績も芳しくはなかったという。かたや長男である兄は現役で歯学部に合格していた。

 末っ子のAさんには夢があったようだ。「グラビアアイドルになりたい」と事件前年から芸能活動を開始。中川翔子を目標に、ブログを更新する日々を送っていた。「女性からも男性からも愛されるように」と自分で考案した芸名を名乗り、英検やスキューバダイビングの資格を取得するなど、Aさんなりのビジョンを持ち、精力的に活動を続けていた。いっぽう、近隣住民によれば兄妹仲は良いとみられていたが、芸能事務所には「人間不信で兄妹関係もうまくいっていない」と打ち明けていたという。

 逮捕当時、耕太もAさんについて「3年くらい家の中でもお互いを避けて、話をすることもなかった」と供述していた。不仲だったことは確かなようだ。事件の1年ほど前まで耕太の勉強を見ていた家庭教師も、耕太から「妹とは仲が悪い」「口を全くきいていない」と聞いていた。

 さらに事件直前、Aさんは周囲に「うちのなかで大きな問題が起きている」ことを打ち明けている。この時期、Aさんの家庭での態度や、言葉遣いをめぐり、両親が「なぜ親や兄たちの立場をもっと考えられないのか」とAさんを叱った。娘の芸能活動について、家族は反対してはいなかったが、Aさんは家庭で孤立していた様子がある。Aさんは一時期、家出をしていたが、耕太は取り調べで「妹が帰ってこないほうがいいと思っていた」と語っている。

法廷では「覚えていない」を連発

 のちに殺人と死体損壊の罪で起訴された耕太の公判は、裁判員制度の導入前だったが、これを見据えた非公開での公判前整理手続を経て開かれた。彼は逮捕後の取り調べでは事件について、また動機について詳細に語っていたにもかかわらず、法廷では「覚えていない」「分からない」を繰り返し、さらにAさんとの兄妹仲も「悪くはなかった」など、それまでの自身の証言を翻すような内容に終始する。最終的に公判では、耕太の“責任能力”に焦点が当たることになった。

「そうですね、家出から帰ってきてからも、仲は悪くはなかったと思います。相変わらずゲームを貸したりしていました。母、妹、僕と3人で食事したことも何度かあります。僕は悪ふざけをよくします。妹が驚くようないたずらをして、笑い合ったりもしていました。妹はオバケがすごく、怖いような感じで、僕はそれにつけこんで……そうですね、夜、柱に隠れて、手に白い絵の具なんか塗って、死角から突き出したりして、妹はえらい驚いたり……そうですね、悪い仲ではなかったです」(一審公判での耕太の証言)

 ひとりで語りながら、自分で相槌のように「そうですね」を交えて話すのが特徴だった。綺麗にアイロンがかけられたワイシャツを着て、黒いズボンをはき、声を荒らげることもなく終始穏やかな口調で、妹について、また事件について語っていた。

 彼の言い分を信じれば、妹であるAさんとの仲は円満で、手に絵の具を塗るような、やや大掛かりないたずらを仕掛けることもあり、それをAさんも笑って受け止めていたという関係になる。逮捕後の「3年ほど口をきいていない」といった証言とは矛盾が生じる。

 そして犯行については、ほとんどを「覚えていない」と、淡々と述べた。

〈弁護人「首を絞めた時、180秒数えたと取り調べでは言っていましたが、そうなの?」 耕太「数えたか……そうですね、数えるのが僕の癖ですから」 弁護人「数えたの?」 耕太「はっきりしません。当時もはっきりしない、今も……。浴槽に沈めた時、見ていた時計の数字が4時7分、8、9、10と記憶しています。ですから3分やったんじゃないかと」〉

〈弁護人「『2分くらいでAさんが舌を出した』と言っていましたか?」 耕太「そんな感じではないでしょうか」 弁護人「実際に見たの?」 耕太「覚えていません」〉

 

〈弁護人「解体について、あなたの調書ではかなり詳細に記載されていますが?」 耕太「取り調べの時にマネキンを持ってこられて、いま切断するとしたらどの順番でやるか、と言われて考えさせられました」 弁護人「解体の状況は覚えてる?」 耕太「正直申し上げると、ほとんど覚えていません。解体の時の話……いくつかの情景を記憶しています」 弁護人「それ以外はあまり覚えていない?」 耕太「申し訳ありません」 弁護人「謝ることじゃありませんよ」〉

 となれば、本人が覚えていないことを取り調べでは詳細に語っていることになるが、耕太はこれについて“捜査官が作り上げたストーリー”であるという主張を繰り広げた。

〈弁護人「あなたはAさんの胸や尻、髪や陰毛を切除していますね。これについて取り調べでは『要するに、私は妹が不特定多数の男と性交渉を持っていたことから汚いものを切除した』と言っていますが?」 耕太「僕の言ったことではありません。刑事に、推理といったようなことで、いまのようなお話を聞いた。その時、分からないけど泣いてしまいました。次の日までに、なぜ泣いたのかなと考えて、もしかしたら刑事の言う通りかもと思って、その刑事の話をそのまま話しました」 弁護人「動機は今も分からない?」 耕太「全く分かりません」〉

「妹と同じように悩みを抱える若者を助けたい」

 このように捜査官から誘導されて調書が出来上がったと耕太は繰り返す。彼はさらに、Aさんが心に悩みを抱えていたとも明かし「相談できる人がいれば、手首をチョンチョンと切らなかっただろうと思います」と独特の言い回しでAさんが生前行なっていたリストカットについて触れたうえ「これからは、妹のように、理解してもらえず苦しんでいる子供の手助けというのも思い上がりですが、そういったことできれば、世間様にお詫びとして受け取っていただけるのではないか、そういうふうにしていきたいけど、そういう感じでしょうか」と、“妹と同じように悩みを抱える若者を助けたい”などと語った。

 落ち着いた様子で淡々と被告人質問に答える耕太は、事件の詳細については「分からない」「覚えていない」と繰り返す。彼の証言はどこまで信用できるのか。法廷で聞いていた限りでは、Aさんに対する悪感情を伴う行動については記憶が消えているが、ほぼ同時期の別の出来事は詳細に覚えている。記憶の消え方が出来過ぎているのではという疑念も若干抱いた。

 不可解な被告人質問を経て、裁判所は耕太への精神鑑定を行うことを決めた。鑑定を経て、翌2008年3月の公判では鑑定人である医師の尋問が行われたが、医師は耕太が公判や鑑定で“断片的な記憶しかない”と語ったことなどを根拠に「殺害時には責任能力が著しく衰えており、遺体切断時には本来の人格とは異なる獰猛な人格状態になっていた可能性が非常に高い。このとき心神喪失状態で責任能力は完全になかった」と結論づけてしまった。一審ではこの影響により、殺人については完全責任能力を認め有罪としたが、Aさんの遺体を切断した死体損壊については心神喪失状態だったと認定され、懲役17年の求刑に対して懲役7年の判決が言い渡された。

 法廷で「覚えていない」を連発していた耕太の裁判はこれで終わらなかった。双方が控訴を申し立て、舞台は東京高裁へ。弁護側は殺人についても無罪を求め、検察側は、完全責任能力を求めた。

 一審の被告人質問も不可解だったが、もっと不可解なことは、逮捕からの取り調べでは、耕太が事件について詳細に語っていたことだ。これを耕太と弁護人は“刑事に促されて推測で証言させられた”として、捜査機関によるストーリーであるかのように主張していた。だが控訴審では、逮捕時に耕太が事件について記した書面が証拠として採用された。そこに事件についての詳細が記されていたことから、判決では「自らの記憶に基づいて書面を作成したものと認められる」と認定された。そのうえ「一審公判での被告人の供述は信用することができない」と、懲役7年の一審判決が破棄され、あらためて懲役12年の判決が言い渡されたのだった。

 つまり耕太が一審・東京地裁でしきりに「分からない」「覚えていない」と証言していたのは信じられない、と東京高裁が判断したことになる。耕太はこれを不服として最高裁に上告したが、棄却され、2009年に確定している。紆余曲折ありながらも、最終的に裁判では、殺人と死体損壊行為における完全責任能力が認められた。

家族が法廷で語ったこと

 一審で耕太は、逮捕後に読んでいる本について弁護人から問われ、数冊の書名を挙げながら「脳に関する本を読んでいる」と語っていた。不可解な証言により精神鑑定の流れに持ち込むことが耕太の狙いだったのか。真意は分からないままだが、彼が法廷で事件の詳細を話すことはなかった。

 また家族は法廷でAさんについて「気が強く、攻撃的で、人の意見を聞かない。頑固で、感謝の念が欠けている」(父親の証言)、「勝ち気で、ヒステリックで、誇大表現があった」(長兄の証言)などと述べたほか、母親に至っては、Aさん中学生の頃からリストカットを行なっていたことに気づいていながら「娘を病気と思うのがいやで、心療内科は受診させなかった」と、向き合わず放置してきたとも語っている。いっぽう、耕太に対しては家族全員が「寛大な措置をお願いします」と訴えていた。被害者であるAさんを悪し様に言い、加害者である息子を庇う家族から、そして「覚えていない」を繰り返す耕太から、Aさんへの思いやりはうかがえなかった。

(高橋 ユキ)

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