数多くの犠牲者を出した太平洋戦争。その中に、日本兵として戦った、日本植民地下の台湾原住民もいる。

 軍属・兵士として太平洋戦争に動員、南洋戦場に投入され悲惨なゲリラ戦を戦った台湾の原住民を中心とした部隊「高砂義勇隊」。彼らが見たその知られざる壮絶な戦場とは――。『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊』(平凡社新書)より、一部を抜粋して転載する。

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 大岡昇平『野火』(1952年)は、周知のとおりフィリピンのレイテ島において極限の食糧不足の中で、日本兵が日本兵を「猿」と呼び、射殺し、「人肉食」をした有様を小説にし、話題作となった(ただし、同小説では、高砂義勇隊には触れていない)。これは真実なのだろうか。事実ならば、どのような実態だったのか。

 筆者はその点についてロシン・ユーラオ、ガヨ・ウープナ両氏に質問した。前者は直接の体験者であり、後者は元高砂義勇隊員からの伝聞である。

「食べられる物といったら人間の肉くらいだ」

菊池:食糧が足りない時、人肉も食べたという話を聞いたのですが、本当ですか。

ロシン・ユーラオ:これは有名な話。……皆、腹を空かしていた。食物がない。食べられる物といったら人間の肉くらいだ。

菊池:戦死ではなく、「アメリカ人捕虜を殺して食べた」と聞いたことがあります。それは事実ですか。

ロシン・ユーラオ:すでに死んでる人間だけだよ。だけど、そうしたこともあったかもしれない。隊によって異なる。僕の隊ではなかった。

菊池:高砂義勇隊員が戦死した場合、どうなりますか。

ロシン・ユーラオ:高砂族の肉は食べないよ。なぜなら料理するのは高砂族だから、高砂族の隊員が死んだからといって、その肉は使わない。

……実は僕は1回だけ食べたことがある、日本兵に撃たれて死んだアメリカ兵の肉だった。当時、人間の肉くらいしか食べる物がなかった。……僕の友だちが人肉を持ってきたので、炊いて少しだけ食べたことがあるんだよ。美味しくない。

ガヨ・ウープナ:エー、食べたことがあるの。苦いんでしょう?

ロシン・ユーラオ:苦いというより酸っぱい。人間の肉は手とか足とか、食べるところは少ない。腿とか胸の肉を食べる。……そして、脂肪が少ない。骨ばっかり。骨は捨てる。内臓もいらない。捨てる。

菊池:それは瘦せ細り、すでに腐っていたのではないですか。

ロシン・ユーラオ:そうかもしれない。

「ある時、アメリカ兵を処刑することになった」

ガヨ・ウープナ:聞いたところによれば、日本の兵隊は現地の食べ物が合わない。食べ物がない。そこで、高砂族が助けた。ジャングルに行き、猪の罠を仕掛ける。猪狩りもできる。日本兵は山狩りができないでしょう。

 それを日本兵に食べさせたが、兵隊が多いから、それでも食糧が足りない。日本兵は食物が何もなくて、ひもじい時、食べないわけにいかんでしょう。その時、一番栄養があるのが人間の肉だけなのだから。

……ある時、アメリカ兵を処刑することになった。日本兵が「日本刀が強いか、蕃刀が強いか、競争しよう」と言った。日本兵が諸手で日本刀を握り、切ったが首が落ちなかった。

 今度は義勇隊員が「蕃刀」で、「捕虜の首をとれ」ということになった。片手でサーッとやると、首が落ちた。やはり「蕃刀」が強い。刀身が短く、あとは技術の問題。

……食糧が足らないから、高砂族が「山肉」(猪や鹿の肉など)とアメリカ兵の肉を混ぜて炊いた。人間の肉だよ。日本兵に喰わせたそうだよ。「山の人」はこの肉が何の肉か知っているから喰わない。

 だけど、後でアメリカ兵の肉と知って日本兵は皆、吐き出したそうだ。高砂族は「お前らは何もできない。山肉も捕れない、アメリカ兵の肉でも喰う」と心の中で嗤っていた。南方戦線に行った時に、そういう話があるんだ。

 このように、部隊によってかなり違いがあった。ただし「人肉食」は多くの部隊、兵士を巻き込んでいった。

ニューギニアに軍隊があまりに多すぎた」

 田来富(第七回高砂義勇隊)は、「ニューギニアに軍隊があまりに多すぎた」と言う。

〈──大量の軍人がおり、日本軍駐屯地の周辺には食物がなくなってしまった。何ヵ月間もこうした状況が続き、地域によっては食糧不足が極限にまで達していた。こうして、日本兵による「人肉食」事件が発生した。

 日本兵は高砂族ほど狩猟に長けていず、台湾人ほど何が食べられるのかも分からない。そこで、日本兵が最も悲惨であった。労務は厳しいのに十分に食べ物がなく、栄養不足で、部隊内に病気が蔓延した。非常に多くの人々がアメーバ赤痢に罹ったが、医薬品も欠乏していた。〉

 こうして、まず日本兵の間で「人肉食」が始まった。人間にとって最後の食糧は人間という状況が生み出されたのである。その時のことをルデラン・ラマカウ(第二回高砂義勇隊)は以下のように述べる。

〈──1942年11月頃、ギルワ陣地に辿り着いた。だが連合軍に包囲され、食糧探しも水汲みもできず、餓死寸前になった。こうした時、クムシ河口に集結命令が出た。ジャングルを前進すると、昼夜分かたず連合軍捜索隊の自動小銃の音が鳴り響いた。

 途中、銃声とともにオーストラリア兵が倒れた。すると、日本兵数人が飛び出し、銃剣でオーストラリア兵の肉を削り取り、食べはじめた。私は茫然としてその行為を見ていた。すると、日本兵は「お前にはやらない。早く向こうに行け」と怒鳴った。高砂族も首狩りをしていたが、殺害した人間の肉を食べたことは聞いたことがない。〉

「これ(遺体)を肉にして持ってこい」

 バヤン・ナウイ(第五回高砂義勇隊)によれば、

〈──指揮系統も崩壊し、落伍兵は勝手な行動をとった。山田軍曹と私は食糧を探してジャングルを進んでいると、死体の軍服と靴が投げ捨てられ、肉を削り取った死体の横で、日本兵5、6人が飯盒の中の人肉を無表情で食べていた。

 山田は憲兵にそのことを報告した。憲兵はその場に駆けつけ、全員を射殺した。私が一人でジャングルを進んでいると、「友軍の兵士」(この場合、他部隊の日本兵を指しているようだ)を殺して食べている集団を何度も目撃した。後にはある隊長が「これ(遺体)を肉にして持ってこい」と命令する部隊もあった。〉

 また、海軍民政職員の飯田進は当時を次のように回憶する。

〈「(見ている前で次々と日本兵たちが力尽き斃れていった。その)同胞が、一夜もたたないうちに、大腿や内臓部が切り取られている。その見るも無残な姿を見て、目の前が真っ暗になった。いかに餓死しようとも、今までともに苦労を重ねてきた仲間の肉まで剝ぎ取る……急に寒気がして震えてきた」(飯田進『地獄の日本兵』、2008年)〉

 人肉も腐敗したり、病死の遺体は食中毒を起こす危険性がある。したがっておそらく死去したばかりの遺体を食したのであろう。

若い兵一人の死体が近くに…「飯盒18杯分だ」

 次第に「人肉食」は高砂義勇隊員をも巻き込んでいった。イリシガイ(第五回高砂義勇隊・猛虎挺身隊)によれば、

〈──第一八軍司令部で大高捜索隊が編制された時、トリセリー山脈を何ヵ月もかけ歩き、やっと山岳地帯を脱出した。ヤミールでオーストラリア軍捜索隊と戦闘になった。3日間の戦闘で何も食べておらず、夜になると目がかすんだ。夜盲症である。

 分隊長は作戦会議で大高のいる拠点隊に行き、不在だった。このままでは餓死する、「奴らの栄養ある肉をちょうだいするか」と義勇隊員12、3人に提案した。若いオーストラリア兵一人の死体が近くにあった。「飯盒18杯分だ」と言った。

 服を脱がせると、蕃刀で至る所を切り取り、生で、あるいは焼き、またはスープを作って飲んだ。「これは人間の肉じゃないぞ。猪の肉だぞ」と自らに言い聞かせ、肉を削り取る時は一切顔を見ないことにした。〉

「『君たちは身体を大切にせい』と言って、あっちでもバーン、こっちでもバーンと、あちこちで手榴弾の音が…」“日本軍”として戦った台湾原住民が見た「終戦の瞬間」 へ続く

(菊池 一隆)

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