私たちが普段抱えている悩みや疑問のほとんどは、多くの哲学者や思想家(哲人)がすでに考え抜き、何らかの答えを出しています。彼らが数千年も前から多くの時間をかけて見出した「ものごとの本質」を知ることで、解決のヒントが見つかるかもしれません。畠山 創氏(代々木ゼミナール公民科講師)監修の書籍『哲学者たちの思想、戦わせてみました』(SBクリエイティブ)より、「人を殺してはいけない理由ってある?」を見ていきましょう。哲人二人が肯定派と否定派(「はい」と「いいえ」)に分かれて討論します。

人を殺してはいけない理由ってある?

<今回のお悩み>

相談者:不謹慎と言われそうですが、なぜ人を殺してはいけないのでしょうか? 確かに自分が殺されるのは嫌ですが、正直言って、人を殺すのが他の罪よりも重いとされるのがよくわかりません…。

――過激な質問のように見えますが、これに答えるのは容易ではありません。この難問について意見を戦わせるのは、近代哲学の祖・カントさんと、『異邦人』で有名なカミュさんです。果たしてこの難問を解くヒントはあるのでしょうか。

「殺してはいけない理由」は答えがたいが…

■最低限守るべき人間のあり方を探究していくと、殺人を肯定するのは難しい

カント結論は「ダメなのは当たり前のことだから、ダメ」です。人間は生まれながらに快楽への傾向性を持っている一方で、善を行なおうとする道徳的な意志能力、つまり「実践理性」も先天的に備えている存在です。理性の命じる普遍的な道徳法則に従うのが、人間の義務であり、善なるあり方です。この道徳法則は、いつの時代もどんな人も当(まさ)に為(な)すべきこと、つまり「当為」として、理由付けもなく守られてきたものです。この意味で、人を殺してはいけないことに、理由などありません。人間の義務なのです。

カミュカントさんの言うような、ものの道理や通すべき筋、つまり「条理」を多くの人が求めがちですが、私にしてみれば、人生に条理などありません。世界は人間とまったく関係なく、ただ偶然そこにあるだけのものです。そして世界が人間の意志や願望などと無関係に存在する以上、人間は常に不条理にさらされています。私は決して殺人を推奨するものではありませんが、しかし世界にはまた殺人という不条理も、それ自体にはまったく何の意味も有益性もないままに、ただ存在します。そのことは事実として認めざるを得ないのではありませんか。

カント人間の感覚は本来が無秩序なものであり、理性によってより良く生きることを放棄すれば、行きつく先は真理の否定です。20世紀を生きたあなたは人生に条理がないなどとおっしゃることで、何やら一種の自由を得たつもりになっておられるのかもしれませんが、自分を律するうえで条理を見出さない、そのような考え方に人格の尊厳などありますまい。理性による道徳の法則に自ら積極的に従う姿勢こそが真の「自由」であり、そのように生きるのでなければ、人類が永久の平和に到達することもないのでは?

カミュ私が人生に意味を求めないからといって、それがさも虚無的であるかのように判断しないでいただきたい。私が言わんとしているのは、人生がどれほど不条理に満ちた無益なものであろうとも、そのことから目をそらさずに運命を直視し、人生に意味など求めずに、それでも不条理な運命を生き抜こう、ということです。それこそが人生に対する誠実さというものではないでしょうか。

カントなるほど、おっしゃることはわからないでもないですが、しかし私は、殺人を半ば認めるようなあなたの立場にはやはり賛同しかねます。善の意志に基づいた道徳は人類の普遍的な法則であり、そこに殺人を認める余地はまったくありません。

カミュここで、私の『異邦人』という小説の一節を紹介しましょう。主人公のムルソーは、人を射殺した動機を裁判で問われ、「太陽がまぶしかったから」と答えて死刑を宣告される。彼は死を恐れず、人々から罵られながら死刑されることを最後の希望にする。一見不条理過ぎるでしょ? でも、このことを悪とする根拠や条理は、説明できるようで、できないのでは。

カント少し待ってください。そんな身勝手な殺人が、この世界で許されていれば、今の世界は破滅していたはずです。いつの時代も、人を殺してはいけない、という当然の道徳法則を守ってきたから、今の世界があるのではないですか?

カミュ私は別に悪を奨励しているわけではありません。ただ、不条理を直視しながらそれでも現実を生きる、という姿勢なくしては、複雑で混沌とした現代を生き抜くのは難しいのでは、と考えます。

――そこまで! 「人を殺すことは理由なくダメ」とするカントさんに対して、「人生には、理由のない不条理な場面も存在する」とおっしゃるカミュさん。お二人の議論からわかる通り、相談者さんの「なぜ?」に対して、明確な答えは述べられません。ただし、カントさんのおっしゃるように、最低限守るべき人間のあり方を探究していくと、やはり殺人を肯定するのは難しい。私たちはこうした当たり前を常に考え、吟味することを忘れてはなりませんね。

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カミュの主張】

⇒人生には条理などなく、世界は不条理に満ちている。たとえ殺人が悪だとしても、それが無意味かつ無益にただこの世に存在すること自体は認めざるを得ない。

カントの主張】

⇒人間は生まれながらにして理性(実践理性)を備えている。理性が命じる道徳法則に従えば、殺人は認められない。

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■「不条理」とは何か?カミュの考えたこと(図表2)

■「善意思」とは何か?カントの考えたこと(図表3)

畠山 創

代々木ゼミナール 公民科講師

北海道生まれ。早稲田大学卒業。専門は政治哲学(正義論の変遷)。現在、代々木ゼミナール倫理、政治・経済講師。情熱的かつ明解な講義で物事の本質に迫り、毎年数多くの生徒を志望校合格に導く。講義は衛星中継を通して約1000校舎に公開されている。「倫理」の授業では哲学的問いを学生に投げかける「ソクラテスメソッド」を取り入れ、数多くの学生に「哲学すること」の魅力・大切さを訴え続けている。

(※写真はイメージです/PIXTA)