介護業界は収益至上主義が蔓延しています。多くの介護企業は、儲かる高齢者と儲からない高齢者とを区別し、儲からない高齢者を入居調整という都合の良い言葉を使って、事実上切り捨てています。老人ホームの裏の裏まで知り尽くす第一人者の小嶋勝利氏が著書『間違いだらけの老人ホーム選び』(プレジデント社刊)で解説します。

「入居者に寄り添う」という意味

■まずは営業担当者に聞いてみましょう。確認してみましょう 

老人ホームの営業担当者に、次のようなことを聞いてみてください。

パンフレットなどの営業ツールに「入居者に寄り添う介護」というようなキーワード踊っていたら、「いったい、どのように寄り添ってくれるのですか?」「そもそも、寄り添うってどういう行為を言うのですか」と。多くの老人ホームの担当者は「……」のはずです。つまり説明ができません。これが多くの老人ホームの実態です。

老人ホームの運営は、労働集約型業務です。多くのスタッフがかかわる仕事です。介護職員のみならず、営業、事務、管理部門などさまざまな業種のスタッフが協働して仕事をしています。その中で、本当にしっかりと真剣に仕事に取り組んでいる老人ホームは、隅々のスタッフ一人ひとりまで、しっかりと訓練ができています。

「寄り添う」とは、どういうことなのか? 私が考える「寄り添う」ということを説明しておきたいと思います。以前、ある僧侶から聞いた話です。この僧侶は、東日本大震災の後、被災地にボランティアとして100回以上入りました。そして、瓦礫の撤去やヘドロの掃除をしたといいます。

その時に、彼が感じていたことは、東京から、たまに来ては、掃除の手伝いをしている自分に、被災者と同じ気持ちになれるのかということです。被災者の中には、大切な人を亡くし、または、大切な家をなくし、途方に暮れている人も数多くいます。自分が、その被災者と同じ気持ちになって、瓦礫やヘドロの掃除ができるわけがない、と。

しかし、たまに来ている自分にも、この瓦礫を撤去して、道路を通れるようにしたい、とか、ヘドロを奇麗にしてまた人が住めるような家にしたい、という気持ちであれば、彼らと同じ気持ちになれるはずだ言っていました。私はこの話を聞いた時、この僧侶は、まさに介護業界で言うところの「寄り添う」ことの実践者だと思いました。

老人ホームにおいても、その入居動機は十人十色です。他人には、とうてい理解することができない事情があります。したがって、たんに、「入居者がかわいそうだ」とか「子供は財産目当てで酷ひどい」などと無責任な評価をしてはダメなのです。どの家族にも、数十年間という長きにわたる歴史があり、ほんの一瞬触れた他人が、評価できるものではないからです。

この意味では、入居者や家族に寄り添うことなどできるはずもありません。しかし、目の前の入居者を見て、人の手を借りないで歩けるようになりたいとか、自分のことは自分でなんでもできるようになりたいという要望に対し、その要望が叶かなうように支援していくことは、「寄り添う」ことになるはずです。

つまり、寄り添うとは、その人と同じ方向を向き、同じ目的を共有している状態を言うのです。多くの介護職員は、入居者に寄り添うと言いながら、その実、入居者や家族と対峙しているだけのような気がします。多くの老人ホームが大安売りの「寄り添う」について、ぜひ、具体的な話を聞いてみてください。相手の本音が見えてきます。

儲からない高齢者は入居調整の切り捨て

最近、サステナブルという思考がもてはやされています。老人ホームも、持続可能で発展していくことが重要だと思います。

しかし私は、今の状態ではとても持続が可能だとは思えません。ある人は、介護職員を全員公務員にするべきだと言っていますが、私もその意見には賛成です。少し乱暴な話だとは思いますが、今のまま無策でいくのであれば、公務員化のほうが良いと思います。

理由は、介護業界に収益至上主義が蔓延しているからです。多くの介護企業は、儲かる高齢者と儲からない高齢者とを区別し、儲からない高齢者を入居調整、退去調整という都合の良い言葉を使って、事実上切り捨てています。それでも、儲からない高齢者に対し、行政がセーフティーネットを用意していればよいのですが、そういうわけでもありません。

見ている限りでは、儲からない高齢者を行政と民間企業とで押し付け合いをしているありさまです。反論や地域性などもあろうかと思いますが、少なくとも私がいる首都圏では、そう見えます。

しかし、これも、何度も言っていることですが、今の制度では、仕方がない話です。一方的に企業を責めることはできません。なぜなら、そうしなければ、企業は生き残ることができないからです。民間企業が介護業界へ参入した時点で、この現象は容易に予測できたはずです。

今、企業も行政もそして入居者や利用者など、介護や老人ホームにかかわるすべての関係者が、考えなければならないことは、渋沢栄一の言うところの「論語とそろばん」であり、二宮尊徳の言うところの「経済なき道徳は寝言であり、道徳なき経済は犯罪である」ということです。

最近では、ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエル教授なども、なぜ企業には、顧問税理士がいるのに、顧問倫理学者や哲学者がいないのか? と主張しています。つまり、倫理資本主義の提唱です。

私は、難しいことはよくわかりませんが、私流に言わせていただければ、介護の世界は「おかげさま」と「おたがいさま」です。介護支援をする側もされる側も、常に「明日はわが身」であり、一方で、「介護を必要としている人がいるから仕事がある」ということを考えるべきなのです。その昔、記憶が定かではないため、もしかすると私の勘違いかもしれませんが、国連難民高等弁務官であった緒方貞子さんが、次のような話をしていたと記憶しています。

「難民救済は、慈愛ではなく、連帯である」と。

私は、これを次のように解釈しています。難民は気の毒な人たち。だから、豊かな我々が救済しなければならない、と考えるのではなく、自分たちが何不自由なく生きていけるのは、難民として生まれ、そして貧困や不自由の中で餓死している人たちがいるからこそのおかげではないか、と。彼らの犠牲の上に、我々は生かされているのだから、慈愛ではなく、連帯なんだ、と。

高齢者介護も、同じだと思います。どのような制度や仕組みを作ろうとも、生身の人間の生活を支えることはできません。不完全なものになってしまいます。だからこそ、企業も利用者も「おたがいさま」と「おかげさま」の精神で、お互いのことを思いやることが重要になっていくのです。

介護保険料を支払っているのだから、サービスを受けるのは当たり前だと考える利用者、つまり権利を行使するという利用者が増えていると言われていますが、これでは、いくら介護職員の待遇を上げても追いつきません。制度や仕組みの限界です。

利用者側は、自助、互助をしっかりやって、けっして事業者に丸投げをしないこと。そして、事業者は、共助の担い手として、プライドと情熱を持ってしっかりと利用者とその家族を支えていくこと。そして、どうにもならない場合は、国家の公助が機能しなければならない、ということ。

これが、介護保険事業がサステナブルに発展することだと、私は考えています。

小嶋 勝利 株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役

(※写真はイメージです/PIXTA)