福岡市発】ある日、ふと合わせたTVチャンネルで、天空に届く矢のような光を放つ新幹線が夕闇の街を駆け抜けていた。浮かび上がる『流れ星新幹線』の文字。沿線に続く子どもたちの笑顔、笑顔。映像を包みこむ音楽。思わずウルッとなった。それをたまたま知人に話したら、なんと制作した方と親しい繋がりがあるという。こういうご縁は吉兆だ。案の定、対談はさまざまなジャンルについて盛り上がり、気づけば予定していた時間を大幅に超えていた。(創刊編集長・奥田喜久男)

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●スタッフィングから始まる

プロデューサーの仕事



福山 初めまして。今日は遠くまでおいでいただき、ありがとうございます。

奥田 こちらこそ、お会いできてうれしいです。いきなりですが、JR九州のCM『流れ星新幹線』の映像はすごい。心をわし掴みにされました。

福山 光栄です。

奥田 光を放つ新幹線もインパクト大ですが、集まっている子どもたちや人々の笑顔が実にいいですよね。

福山 ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいです。僕は鹿児島の出水(いずみ)で撮影していたんですが、泣きながら撮ってました。

奥田 なんで泣いたのですか。

福山 夜7時からの本番に向けて、夕方5時くらいから人が集まり始めたんですが、来られる人全員が笑っていたんです。マスク越しでも喜んでいるのがわかって、それを見ていたらつい…(笑)。

奥田 なるほど、出演するみんなの笑顔に感極まったと…。ところで、実際に走行している新幹線を撮っておられるんですよね。一瞬の間の撮影だと思いますが、ご苦労も多かったのでは?

福山 はい。事前のテストは一応したものの、本番で新幹線が走るのは1回だけ。人が集まるイベント会場が3カ所あったんですが、それも一夜限り。かなりの緊張感でした。

奥田 どんな映像を撮るかは、事前に共有しておいたのですか。

福山 そうです。事前にスタッフみんなで何度も打ち合わせをして、撮影の狙いを共有して。当日は鹿児島から福岡にかけて各所に散らばった各カメラマンが、その場で判断して瞬発力で撮りました。

奥田 すごい瞬発力です。それまでの各人の蓄積によるものですよね。

福山 おっしゃる通りです。蓄積あっての瞬発力です。

奥田 初歩的な質問ですが、プロデューサーというのはどんな仕事なんでしょう。

福山 クライアントや広告会社の方々と企画を考え、予算の中でスタッフィングをしてプロジェクトをどう進めるかを考えることでしょうか。

奥田 具体的には。

福山 最初の大きな仕事はスタッフィングです。企画に合わせてどの方にお願いするかを考える。監督やカメラマンはそれぞれ得意なジャンルがありますから。

奥田 なるほど。人選から始まると。ちなみに『流れ星新幹線』では、どういうスタッフィングを?

福山 人間味のある温かいものをつくれる方がいいなと…。人が持っている“熱”を映像の中に収められる方をと思ってお願いしました。

奥田 人が決まったら次は何を?

福山 スタッフの真ん中にいて全体を統括し、何かあったら出ていって調整する。スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんが「プロデューサーの仕事は雑用係である」とおっしゃっていますが、まさにその通りだと思います。

奥田 それが見事に結実して『流れ星新幹線』が完成したわけですね。ところで、今だから言える制作側の話とかありますか。あそこはサシカエしておけばよかったとか。

福山 いやいや、それはないです(笑)。ただ、あの映像は最初7分間だったのを、視聴者の方に見ていただける“尺”に合わせて3分間に編集したんです。

奥田 作品を間引くのって、つらいですよね。

福山 そうなんです。僕たちは最初の7分間の映像が全部好きだったので、つらかったです。監督も「本当にごめん!」って言いながらカットしていました。


●迷える20代の自分を救ったのは

「美味しいもの」と「映画」



奥田 プロフィールを拝見すると、福山さんは外国語大学でドイツ語を専攻されましたよね。今の仕事とはちょっと離れているような…。

福山 そうなんです。中学生の頃、父に薦められて行ったウィーン少年合唱団がきっかけでドイツ語に傾倒して。実は当時、料理人になってオーストリアに行こうと思っていました。

奥田 え? それはまた全然違う人生ですね。 

福山 父が寿司屋をしている料理人だったんです。その影響もあったのと、鹿児島を出て海外に行きたくて。当時は、高校から調理師の資格が取れる学校に行きたいと思っていました。

奥田 でも大学に進まれた。

福山 父から「大学だけは行っておいてもいいんじゃないか」と言われまして。

奥田 なるほど。そこから今に至ったのは?

福山 大学で寮の先輩に「新聞記者もいいのでは?」と言われたことがきっかけで、いろいろな本を読んでいるうちに広告に興味を持つようになって。

奥田 ということは、広告代理店も受けられた?

福山 はい。でも受からなくて、映像制作プロダクションの「葵プロ(現・AOI Pro.)」に拾ってもらいました。

奥田 ああ、映像の道につながりましたね。葵プロでの最初の仕事は覚えていますか。

福山 お弁当の発注です。先輩たちがつくった美味しい“お弁当リスト”がありまして。

奥田 そんなリストが存在するんですね(笑)。

福山 お弁当もそうですが、美味しい食事は仕事においてとても大切です。僕自身、美味しいものに救われましたから。

奥田 どういうことでしょう。

福山 20代の頃いろんなことが重なって、毎日辞めようと思っていた時期があったんです。でも先輩たちが美味しい店に連れていってくれて、美味しいものを食べながら未来の話をする時間に元気をもらっていました。

奥田 なるほど。実体験なわけですね。

福山 プロデューサーになってからも確信していますが、美味しいものはスタッフのモチベーションを高め、コミュニケーションを深めます。今でも自分で美味しいお弁当を買いに行きます。大切な仕事の一つです。

奥田 説得力があります。

福山 もう一つ、20代の僕を救ってくれたものがあります。…実は僕が社会人1年目の時、父が亡くなったんです。

奥田 え。ずいぶんお若いんじゃないですか。

福山 51歳での逝去でした。

奥田 福山さんは23歳くらいでしょ。それはショックでしたね。

福山 そこから5年くらいはものすごい喪失感で、自分の人生も短いかもしれないとも考えたりもして…。

奥田 ああ、そういうことも考えてしまいますよね。

福山 そんな弱っていた自分を助けてくれたのが映画でした。「映像や文学は弱い人のためにある」と何かで読んだことがありますが、本当にそうだなと…。

奥田 福山さん、その頃って交差点の向こうにお父様に似た方がいると、心がキュッとなっていませんでした?

福山 ああ、なっていました!そう言えば、当時8ミリのフィルムカメラで早朝の築地を撮影していたんですが、寿司職人だった父を探しに行っていたのかもしれません。

奥田 追憶ですね。うーん。女々しいねえ(笑)。

福山 いやあ(笑)。でも映像をつくることって、そういう個人的な思いから始まるのかなと。

奥田 よくわかります。僕も女々しいですからね(笑)。(つづく)


●大好きな監督の直筆サイン入り

DVD『しあわせ』



 福山さんは好きな映画監督にはできるだけ直接会うことを心がけている。海外の監督が来日する場合はスケジュールをこまめにチェックし、全国どこでも足を運ぶそうだ。『しあわせ』はクロードルルーシュ監督1998年の作品。サインは2006年のフランス映画祭で来日された際のもの。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第313回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
2022.7.20/福岡市早良区VSQのスタジオにて