脳は知識の記憶は苦手なのに対して、実際に経験、体験したことを記憶するのは得意としています。ただ、全部の体験や経験が記憶されるわけではありません。思い出になる体験・経験と思い出にならない体験・経験の違いは何でしょうか。記憶力日本選手権大会6回の最多優勝者の池田義博氏が著書『世界記憶力選手権グランドマスターの驚くほど簡単な記憶法』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

思い出はなぜ記憶に残っているのか

皆さんは、それぞれたくさんの思い出をお持ちでしょう。頭の中に保管されているという意味では、思い出も記憶といえます。

しかし、記憶というのは、覚える意志を持たないとスイッチが入らないのでした。思い出のことを考えてみると、この体験や経験を覚えておくぞとやる気を出して記憶したわけではありません。つまり、自動的に頭の中に刻まれたことになります。

ただし、全部の体験や経験が思い出になるわけではありません。思い出になる体験・経験と思い出にならない体験・経験の違いは何でしょうか。それがここで述べるポイント、つまり、海馬をだますもう1つのポイントなのです。

その前に、また少し脳の構造について簡単に説明しておきます。ここまで記憶に関して海馬に注目してきました。確かに、海馬は記憶の司令塔のような重要な部位です。

しかし、この海馬と並び、記憶に関するスター的部位がもう1つあるのです。その部位の名前を「扁桃体」といいます。脳の記憶のメカニズムに関しての2大巨頭が、海馬と扁桃体なのです。

この扁桃体という部位は、喜怒哀楽といった感情を生み出す働きを持っています。そして、一番重要なのが、扁桃体は海馬のすぐ隣に位置していることです。これは何を意味するかというと、扁桃体で何かしらの感情が生まれるとその刺激がすぐ隣の海馬に伝わるということです。刺激を受け取った海馬は、その情報は重要だと判断します。重要と判断されたことにより、その情報は記憶に刻まれることになるというしくみです。

冒頭で述べた思い出も、つまりはこのしくみが働いていたというわけです。その体験や経験をしたときに特に強く感情が生まれたものが、その信号を受け取った海馬によって自動的に頭の中に保管されたということなのです。その証拠に、思い出というのは嬉しかったり楽しかったりするものばかりではありません。

悲しい思い出もありますし、くやしい思い出もあります。喜怒哀楽が強く生じた場合、思い出として残るというわけです。これが海馬のだまし方その2「覚えるときに感情を動かす」です。

しかし、確かにしくみはそうだとしても、現実を考えると覚えたいもの、例えば英単語はそれを覚えようとしても、喜びが浮かんだり悲しくなったりはしません。ですから、ここで一工夫が必要なのです。

その工夫とは、覚えようとする情報、例えば英単語をそのまま覚えるのでなく、自分なりの新しい意味を付け加えたり、覚え方の工夫をしたりするということです。これが、以前で紹介したImage Processing(イメージプロセッシング)という記憶法の考え方の1つです。

情報を脳が覚えやすい形に加工処理をする、ここでは、少しでも感情が動くように加工するということになります。ただ丸暗記しようとすると、感情は動きません。例えば英単語であれば、自分なりに語呂合わせを考えてみるなども1つの方法です。

あるいは、英単語の日本語の意味のイメージを頭の中に想像してみるのもいい方法です。頭の中でイメージすることによって、何らかの印象や感想が無意識に発生するからです。仕事の書類なども、頭の中にイメージを浮かべながら読み進めれば感情を刺激することができます。

最後に少し特別な方法を紹介しておきます。

脳は生命に関わる情報を優先して記憶する性質があると紹介しました。これを利用するのです。つまり、少し大げさにいうと、生命をおびやかす危機感を利用するというわけです。この危機感もいわば感情だからです。

生物にとって生命に関わる危機の1つは空腹です。空腹を感じるときは、脳にとっては適度な危機を感じているときでもあります。これを利用して、何かを覚えたいときは食事の前の時間をあてるなどの工夫をすれば効率的ではないでしょうか。

情報に対してまず「A10神経群」が反応

だますべき相手1人目は「海馬」でした。ここでは、だますべき相手2人目の「A10神経群」についてお話しします。

頭に入ってきた情報がどのように記憶に保管されるかという流れを、海馬の働きを中心に紹介しました。ここでは別の観点から、このA10神経群を主役にして、頭の中に入ってきた記憶をはじめ知的能力がどのように生み出されるかを見ていこうと思います。

五感を通じて脳に取り込まれた情報は、最初にA10神経群とよばれる場所に到着します。この場所は感情を作る中枢で、この中にはこれまでも出てきたやる気に関わってくる「側坐核」や喜怒哀楽を取り扱う「扁桃体」も集まっています。

情報が到着すると、その情報に対して、まずA10神経群が反応します。情報によっては、「好き」「嫌い」「おもしろい」「つまらない」といった感情が生まれるかもしれませんし、まったく反応しないというものもあるでしょう。

もし、ある感情が生まれた場合は、A10神経群の中でそれぞれの情報に対して感情のレッテルが貼られることになります。この感情のレッテルは、その後の脳の働きである理解、判断、思考、創造、記憶といったものにとても大きな影響を与えることになります。

このレッテル貼りが怖いのは、ここでマイナスやネガティブなレッテルが貼られた情報は、知的機能がしっかり働かなくなってしまうという点です。逆にいうと、プラスやポジティブなレッテルが貼られた情報に対しては、知的能力がよく発揮されるということです。わかりやすい例でいえば、好きな人の話は集中して聞けますが、嫌いな人の話はあまり頭に入ってこないでしょう。これもつまりは、A10神経群によるレッテル貼りが原因なのです。

そこで、だますべき相手はA10神経群ということになり、具体的には、覚えたい情報に対してはすべてプラスのレッテルを貼るようにさせればいいというわけです。ただし、これは精神状態をコントロールしなければならないので、方法としてはとてもハードルが高いです。

ですから、現実的な方法としては、マイナスのレッテル貼りを避けることを考えたほうが合理的です。つまり、マイナスのレッテルで知的能力が低下するのを防ぐということです。レッテルが貼られたばかりの段階では、そのレッテルの接着力はまだ弱い状態です。レッテルの接着力が弱いときをねらうのです。

しかし、ある状態までくると、そのレッテルは決定的になってしまいます。その状態とは、「言葉を口に出す」ことです。口から出た言葉というのは、脳にとても大きな影響力を及ぼします。マイナス言葉を発したとたんに、そのレッテルは決定されてしまうのです。ここで実際に、否定的な言葉を使わないことを組織のルールとして成功した例を紹介します。

脳神経外科医である林成之氏が、日本大学医学部付属板橋病院に最初に救命救急センターを立ち上げたときの話です。林成之氏は、そこに集う医師、看護師、検査技師、事務担当などのすべてのスタッフにあるルールを課したということです。そのルールとは「否定的な言葉をいっさい使わない」「明るく前向きでいること」「仲間の悪口を言ったり、いじわるをしたりしないこと」というものでした。

そんな簡単なことかと思うかもしれませんが、実際の救命救急医療の現場というものは、専門外の人が考える以上に非常に過酷です。満足に食事も睡眠もとれないまま、患者さんの処置に追われることが当たり前のような日常だそうです。さらに、救命救急ですから、そこに運ばれてくる患者さんも、すでに瞳孔が開いていたり、心肺停止の状態だったり、普通なら助けるのは難しいだろうと思われるような人たちがたくさんいるわけです。

そんな状況においても患者さんの命を救うために、スタッフには最高のパフォーマンスが要求されることになります。そこで林成之氏が考えついたのが、先ほどのマイナス・ネガティブ禁止のルールだったというわけです。

最初のうちは、お互いに「今、マイナスを言ったよ」と指摘し合ったそうです。そして、極限状態にあっても人の生命を救うのが救命救急の使命だと自らに課し、それを実現させるために、スタッフ1人ひとりそれぞれが最大限に脳のパフォーマンスを上げるために厳守したのが、否定的な言葉の禁止だったのです。その甲斐もあってか、林成之氏の救命救急医療のチームはめざましい成果を上げることに成功したのです。

皆さんの中にも、仕事においてさまざまなプロジェクトに関わっている人もいるでしょう。もし、皆さんがプロジェクトリーダーの立場であれば、この例を参考にしてチームのパフォーマンスをさらに引き上げることができるでしょう。チーム内でマイナス・ネガティブ言葉を発したら軽いペナルティを課すような、ゲーム形式のルールを作ってみるのもおもしろいかもしれませんね。

池田 義博 記憶力日本選手権大会最多優勝者(6回) 世界記憶力グランドマスター

(※写真はイメージです/PIXTA)