20年ほど前、東京のホテルの一室で加持祈祷というのを実際に目の当りにした。加持祈祷とはいわゆる「呪術」である。

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 加持祈祷を受けていたのは末期癌の老婆だった。

 老婆を連れてきたのは、人を射貫くような鋭い眼光を発し一見して侠客然とした風情の男だった。男は老婆の娘婿だという。

 男と呪術師とは旧知の仲のようだった。

 そして男は「先生、今日は母を連れてきました。母は喉頭癌を患っているのです。医者も、ちょっとこれは難しいと言われまして」と不安げな表情を浮かべて言うのである。

 老婆は見るからに衰弱していて、絶望的な感情に苛まれて、生きる気力さえなくしているかのようだった。

 現代医学が発展した昨今(このような迷信めいた加持祈祷とやらにすがって、本当に大丈夫なのか)と私は沸き上がる懐疑の念を押し下げながら様子を見守った。

 加持祈祷を修するのは、紺のスーツに身を包んだ恰幅の良い男で、自分は密教行者だと言った。

 彼は顔のパーツ、眼、鼻、口、眉、耳すべて一つひとつのつくりが大きく、見た者に威風堂々とした迫力を感じさせる強烈な存在感を放っていた。

 その暖かい包容力のある表情で「心配でしょうけど、もう大丈夫ですから。しっかり、やりますから」と怖せず臆せずに、自信に満ちた大きな声で言うと老婆を椅子に座らせた。

 医者が難しいと見立てた癌患者に、「もう大丈夫ですから」と憚ることなく言い切る行者。

 私は内心、「この侠客の男の母は末期癌ではないか。もう大丈夫ですなどと言って後々、厄介なことにならないか。もし、大丈夫ではなかった時には、どう始末をつけるつもりなのか」と、何やら息苦しい思いに苛まれていた。

 行者は、老婆の背中側に座ると、数珠を取り出し、ジャラジャラと音を立てて擦る。

 そして手を不思議な動作で、次々と何かを形づくりながら呪文を唱え始めた。私は印契というのを実際に見たのは、この時が初めてだった。その流麗で神秘的な所作に目を奪われた。

 刹那、なぜか部屋の空気が一瞬にして変わったように感じられた。

 人が深い森に足を踏み入れた瞬間、都会の日常の社会生活の空間とは明らかに異なる空気感を感じるように、動物的な感知による、理屈ではない空気感の変化があった。

 行者は老婆の頭、首、肩、背中、腰に順に両手をあてている。30分ほど経過しただろうか。

 突然、再び手で何かを連続して形づくると息を凝縮して吐き、素早く九字を斬った直後、気合いを発した。

 私は部屋の中に落雷したのかと錯覚するほど、その勢いに押されて身を仰け反らせながら卒倒した。

 雷鳴が鳴り響くような強烈な衝撃波を人間が発することなどできるものなのか・・・。

あの老婆はどうなったのか

 もし、医者から末期癌で「これは難しいですね」と宣告されれば、誰でも絶望の淵に立たされる思いになり、精神的にも不安定になるだろう。

 だが、慈愛に満ちた笑みを浮かべた、大柄で頼もしい佇まいを漂わせた行者に、一点の曇りもない透き通った瞳と力強い語勢で「もう大丈夫ですから」とハッキリ告げられたら・・・。

 これで自分も助かるかもしれないと思ってしまうのではないか。たとえ回復の見込みの薄い病人であっても、鎖が外され、生気が与えられたかのように、心が持ち上げられ、元気づけられる気がするのである。

 1か月後、ホテルの大きな喫茶店で、その老婆と義理の息子と行者が会うことになったというので、その後の経過が気になっていた私も、同席させてもらうことにした。

 あの侠客然とした男は、「喉頭癌がみるみる小さくなりました。不思議だ。こんなことは有り得ない、と医者も首を捻ってました」と言う。

 満悦の表情を浮かべながら、行者に恐縮そうに何度も何度も深々と頭を下げていた。

 私はその後、この不思議な行者のいくつかの著書の編纂にかかわることになり、以来、親交を重ねている。

 その行者は高野山真言宗の宿老・別格本山清浄心院住職・池口恵観師である。

霊験とはいつ発揮されるのか

 恵観師は500年続く修験道の家に生まれ、永田町の怪僧という渾名があり、政界、財界、スポーツ、芸術など幅広い分野で多くの人脈、支持者がおり、歴代首相の指南役、日本のドンなどとも評されている。

 科学が発達した現代において、「加持祈祷などまじないに過ぎない」という人も多い中、恵観師のもとには前述のように医者に匙を投げられた人たちが師を頼りに寺に足を運んでいる。

 不思議なことに祈念により「苦痛が軽減されて癒された」「不振が続いた事業が持ち直した」「不登校の息子が学校に行きだした」など、かねて問題となって解決がつかない懸案が良い流れに向かう人も少なくないという。

 さて、『秘密事相 その原理と実践』の内容だが、タイトルにある「事相」とは、真言密教には「事」と「理」があり、「事」は」呪術、「理」は教学、つまり学問を指す。

「事相」とは呪術の修法全般を意味する。

 京都教王護国寺(東寺)長者である飛鷹全隆師は「密教の事相を体解する それは真言秘密の心臓部に触れることにほかならない」と、事相が密教において特別なる核心であることを明示している。

 本書は「霊験に至らずにいる者には、その自分の中にある「無垢なる力」を感得できていない。よって「秘密」と呼ばれる」という下りから始まる。

 真言宗の祈りとは呪術であり、それは加持祈祷のことを指す。

 霊験を誘う加持祈祷。弘法大師が開いた真言宗は霊験の教えであり、霊験とは人為を超えた力を発揮し、神秘の力を操ることをいう。

 かつては霊験を自在に操るのが密教行者とされてきたが、現代の真言宗の僧侶に霊験を扱う密教行者は、聞かない。

 また、本家本元の真言宗の僧侶で「霊験は存在する」と信じて疑わない人も、そう多くはない。

 空海は、当時最先端だった仏教思想である密教を学ぶため唐に留学し、その奥義を修得して帰国。真言宗を開いた。

「真言」とは、大宇宙を司る大生命体を擬神化した大日如来の教えが「真実の言葉」という意がある。その大日如来の言葉を唱えることで自らが如来と一体となるというのがその本意だという。

 密教では事相(呪術)を極めようとする人が珍しくなった昨今、密教の呪術はすでに遠い昔の伝説になってしまったと感じている人は多い。

 だが、なぜ霊験が現代のものではなく、過去の伝説となってしまったのか。

 それは日々、闇の世界に科学の光があたり、霊験を実践すべき、肝心要の真言宗の僧侶らが、霊験の力を信じきることができず、その神秘の力を放棄してしまったからにほかならない。

 だが、現代においても常識や学問では解明しえないものはいくらでもある。

 昨今、特に米国では、実際に医療と祈りの関連性を臨床によって解明する研究は、多くの大学で散見されている。

 また、旧ソ連時代には軍事面でテレパシーや透視など、霊的な作用が実際に使えないか、そうした特殊能力を持つ人たちを集めて実験していたとの話もある。

「物理こそが現実であり、科学が真実」

 こうした価値観が世界中に定着し150年あまりが経過したが、いかに科学が発達して人工知能量子コンピューターが開発され、実用化されようとしている時代になっても、霊験による現象と考えられる事象が、私たちの生きるこの世の中の日常に数多く生じている。

 真言宗の核心は大日如来をその発露としている。それは神秘の力であり、煩雑な事相の作法や型ではない。

 作法や型は霊験を誘うための方法のプロセスに過ぎず、肝心なのは印契を結び、真言を唱え、神仏の慈悲を観じながら、深く禅譲に入る。

 つまり、神仏の心と溶け込んで一体となる秘密瑜伽の観法にある。密教の真髄は、この一点に尽くされるもので、そこに至らなければ何も起きることはないという。

 真言宗の祈りは、祈りといわず、お加持という。

 お加持は霊験、そのものである。祈願者と行者と神仏が一体となって神秘の力が発揮されることを加持感応という。

 恵観師のところには医者に見放された祈願者の方が数多く脚を運ばれるが、加持祈祷により、病に苦しむ人に癒しを与えることは、患者が服用する薬と同じか、それ以上に効果を生む場合も、現実に数多くあるという。

 加持祈祷の原理は、人間の心の力を活用することにある。

 それは人の心には、自身の病気や障害を乗り越える「力」があり、人の心、つまり人を癒し、治したいという意思には、癒しの力が具わっていて、その心を活用することで、病を癒し、病に苦しむ人に具わる治癒力を引き出されるというのである。

 そうした病気や障害を乗り越えるために、人の心の「力」を活用する行為は、昔から世界中の各地で行われ実証されてきた。

 加持祈祷で、最も肝腎なのは印と真言と観想が一体となって共鳴することで、全身全霊、力と精神の融合がはかられることだという。

 印契を組むというのは神仏の前で、神仏と一体となって溶け合う印だ。印に魂・精神の籠らないものは、じゃんけんと同じで指先の遊び事にすぎない。

 真言もまたしかりで、心のこもらない言葉は、ただの戯言である。

 本来、真言とは真の言葉であり、大宇宙生命体が擬神化した大日如来の言葉であり、真言を唱えるには、口先だけで唱えるのではなく、腹の底から唱えなければ、その威力が生かされにくいという。

 密教の奥義、それは広大無辺の宇宙と溶け合うことで一体になる。密教では私たちの天空に広がる大宇宙と、自身の内部に宿る小宇宙が一体化して連動することを瑜伽の境地と明示している。

 小宇宙と大宇宙が連動することで「個」から「全」へと移行する。人間が本来備わる心の揺らぎが仏の慈悲へと溶解する。それが大宇宙大生命体と一体となる入我我入の境地と恵観師は明示する。

 では、そのカギとなるものとは何か・・・、それについては、本書をご一読いただきたい。

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祈祷する者の手には不思議な力が備わっている