文=松原孝臣 写真=積紫乃

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演技映像のアーカイブの困難さ

 莫大な費用、交渉に要するエネルギー……フィギュアスケートの演技映像のアーカイブの困難さは、町田樹が自身の作品の映像集を出す試みの中に、まざまざと示されている。それがために、演技映像のアーカイブの構築はなされずに来た。

「映像も音楽も、権利関係をクリアランスするためのハードルが高すぎると思っています」

 結果として、動画投稿サイトが実質的にアーカイブとして、利用されている。フィギュアスケートファンにとどまらず、スケートの世界にいる人々も参考としている。

「私も研究者としていろいろな映像を観られて便利です」

 町田もそう語る。

「でも、それらの映像は権利的に『グレー』なものなのですね。国際スケート連盟がオフィシャルにやっているようなものなどは別として、多くはファンの方々がアップロードして下さっているものですが、権利者に許諾をとっているわけではありません。それでもとりあえず観ることができるのは、『オプトアウト』という方式、とりあえずアップロードしてみて、もし権利者が差し止め請求すれば、即刻取り下げる、という通念で稼働しているものだからです。つまり今観られているものがいつ削除されるか分からない、とても不安定なアーカイブなわけです」

 だからこそ町田は、動画投稿サイトに頼らなくてもいいように、アーカイブを構築すべきだと言う。その壁になるのが映像と音楽双方の権利関係の処理にあることも指摘している。

「競技連盟を筆頭に、テレビ局、音楽業界と交渉して円滑に演技映像を二次利用できる制度を早急に考えてほしいと思います」

 町田は、映像の権利関係をクリアするために主催者とテレビ局の双方に莫大な費用を払う必要があったことを説明したが、ふと感じるのは、映像の主であるスケーターの存在が希薄なことだ。

 権利ということで言えば、曲の演奏者が実演家としての権利を有するように、スケーターも実演家として著作隣接権を、また振り付けにも権利があるのではないか。

 少なくとも、演技映像が生まれるのは、スケーターの演技があればこそである。

 でも、いざスケーターが利用したいとなると莫大な費用を求められることになる。そこに引っ掛かりを覚える。少なくとも映像の主であるスケーターと、それ以外の者の利用とでは、区別があってもよいのではないか。

 町田も言う。

「そもそも被写体がいなければ演技映像は生み出されていません。被写体による利用とそれ以外の第三者の利用は区別すべきで、被写体が使いたいという場合には自分の演技映像なのですから考慮があってもよいのではと思います。もちろん「タダで」とは言いません、映像制作に莫大なコストがかかっていますから。でも当事者であれば演技映像を二次利用できるような形の制度が必要なのではないかと思っています」

音楽業界へのリスペクトの欠落

 一方で音楽については、フィギュアスケート側の努力も欠かせないと語る。

フィギュアスケート業界に徹底的に欠けているのは音楽業界へのリスペクトです。例えばクレジットですね。誰が作曲したのか、だれが演奏したのか、ほとんど表記することがありません。そういうところにも音楽家へのリスペクトが足りないと感じます。「人のものをお借りしている」ということを意識しなければならないと思います」

 町田が危惧するのは、たいていの場合、プログラムに曲を使用するにあたって、権利者に許諾を得ていないし、ましてや演技時間に合わせてどのように編集するのかの承諾もとっていない現状を鑑みてのことだ。

 危惧を現実とする出来事があった。北京五輪に出場したアメリカのペア、アレクサ・クニエリム・ブランドン・フレージャーの使用した『朝日が当たる家』の制作者から無断使用について訴訟を起こされたことだ。

「この訴訟が『あ、気に入らない音楽利用をされたら差し止めていいんだ』という気づきになって、音楽家側からの類似の訴訟が、今後頻発する可能性があります。そうなると競技運営はままなりません。やはりこれは統括組織の仕事になってくると思います。そのためにも著作権とは何かといったことや、著作権を遵守した音楽利用を啓発しなければならないのです。知財法務の研究者として私も、呼ばれればどこにでも出向いてお話をする用意はあります」

 お互いに快い、心地よい曲の使用のあり方が大切だと考えるからこそ、リスペクトの必要性を訴える。

 それを広める役割を、プロの立場にあるスケーターに期待したいとして、こう語る。

フィギュアスケートは音楽とともに発展してきたわけですから、音楽にどう応えられるかが本質になっている文化です。そういう意味で音楽を深く理解し、音楽家への敬意を持って、責任を持って作品を創る。それを果たすのがプロスケーターであるべきだと思っています。競技者は未成年の選手が多かったりもしますし、なかなか難しい。でもプロは自立をしてプロフェッショナルとして演技をするわけですから、そこまでの責任が求められます。それを果たそうとすればおのずと良い作品は生まれると思います」

フィギュアから音楽業界への「ジャンル間転送」

 音楽へのリスペクト、著作権などの知識の習得など、誠実な使用を前提とした上で、町田は言う。

「一方でまた、フィギュアスケートが音楽に貢献していることもあります。2018年に発表した論文でも書きましたが、『ジャンル間転送』と名付けた現象です。つまり、フィギュアスケートを観たことがきっかけで、観客が演奏CDを買ってみるとか、オーケストラのコンサートに行ってみるといった副次的な消費行動がかなりある。フィギュアスケートもまた音楽業界に対して相当な経済効果をもたらしていることを研究で突き止めました。

 つまり、フィギュアスケートは音楽に依存しているだけでなく、音楽業界に対しても多少なりとも貢献していることもあるわけです。演技のアーカイブという点に関してもっと話し合いをしていくべきですし、私は切に音楽業界と話をしたいなと思っています。舞踊やアーティスティックスポーツの発展のための権利処理ということであれば、ご理解いただきたいという思いはあります」

 映像の権利関係においてはスケーターの存在の希薄さがどこかにあるように思える。そして音楽関係においては、決して一方向ではなく、互いに享受する関係にある面は否定できない。それらを思えば、スケーターが利用するにあたって、アーカイブするにあたって、あまりにも高い壁がそびえる現実を、それぞれの権利を侵すことなく変えていく道はあるはずだ。

 あらためて、アーカイブの重要性、何よりも演技映像が残される意味を語る。

「今はオンデマンドや動画投稿サイトなど、いろいろな方法で映像を発信するメディアがあります。その点では企業努力をされていて、例えば全日本選手権の場合は、出場するスケーターの映像を観られるようになっています。それは素晴らしいことですから続けてほしいです。

 私の時代は転換点で、地上波で上位グループだけが放送されている頃でしたから、私の演技映像が放送されたのは、競技生活の最後のほうだけです。アーカイブは残っていません。選手時代の私は、演技を観返すこともなく気にしていませんでしたが、今の選手は映像を観て、ジャンプをもっとうまく跳ぶ方策を考えたり、失敗の原因などを分析しています。演技映像は、鑑賞だけでなく、スケーター育成の観点からも大事ですから、的確に選手のもとに届けられるようになってほしい。

 すでにお話したことに関連しますが、過去の作品をいつでもどこでも誰もが観返せる、そういう環境が今よりよい作品を創造するうえで大事です。フィギュアスケートはスポーツという側面もあるので、どうしても過去より未来の方が素晴らしいという価値観、すなわち進歩史観でものを見る傾向にあります。

 ジャンプの回転数などの競技的側面はそうかもしれないけれども、演技の芸術性に関しては、そんなことはないのですね。70年代の作品を観て、こんな面白い動きを取り入れていたのかとか、今ではこの動き方をする人は誰もいないというような、斬新な振り付けが行われていたりします。

 そんなインスピレーションをもたらしてくれる作品が過去にたくさんあるので、本当にアーカイブが大事だなと思います。また、現在でも振付師の人数もものすごく少ないですよね。その人たちだけで数千人の演技の創作を担っている状況です。私だったら一瞬でクリエイティビティは枯渇します。そのクリエイティビティの泉を豊かなものにするには、やはりアーカイブをたどることが大事だと思うんですよね」

 数々の作品を埋もれたままにしない。それはそれらの作品を大切にすることでもある。そして数々の作品が、より豊かなフィギュアスケートの未来を形作る土壌となる。

「アーカイブ」の重要性を知らしめた町田の思いはきっと、ジャンルを超えて広がっていくはずだ。

 

町田樹(まちだたつき
スポーツ科学研究者、元フィギュアスケーター。2014年ソチ五輪5位、同年世界選手権銀メダル。同年12月に引退後、プロフィギュアスケーターとして活躍。2020年10月、國學院大學人間開発学部助教に。研究活動と並行して、解説、コラム執筆など幅広く活動する。スポーツを研究者の視点で捉えるJ SPORTS放送『町田樹のスポーツアカデミア』では企画・構成・出演を担う。著書に『アーティスティックスポーツ研究序説』(白水社)『若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学』(山と溪谷社)。

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