◆「保守層」の数的小ささが露呈

 岸田総理が安倍晋三の国葬を記者会見で発表したのは7月14日のことだった。

 その翌日の7月15日時事通信が配信した「異例の対応、保守層へ配慮 国民の理解カギ――故安倍元首相の国葬」と題された記事を今読み返してみると、実に興味深い。

 記事は総理記者会見後の永田町各方面の動きをひとさらいする内容で、与野党各党の反応がこう記されている。

「(自民)党内は歓迎している。安倍派西村康稔事務総長は記者団に『内閣としての判断はうれしい。国を挙げて功績を評価するということだ』と指摘し、保守派の閣僚も『首相が決断してくれて良かった』と語った。一方、『保守層をつなぎ留める狙いもある』(幹部)と打ち明ける声や、『妙な神格化が怖い。これを利用する政治家が出てこないことを願う』と懸念を口にする向きもある」

立憲民主党の関係者は『簡単に決めていいのか。安倍氏を賛美することにならないか』と指摘。同党幹部は『死去直後で表立っていなかった批判が今後、顕在化する可能性がある』と述べた」

公明党関係者は『安倍氏への批判もある中、うちとしてはやりたくない。静かに送れる雰囲気ではなくなるかもしれない』と語った。党内には閣議決定ではなく新法制定を求める意見もある。山口那津男代表ら幹部はコメントを出さなかった」

 最も興味深いのは記事の締めくくりにあるこの証言だろう。

自民党関係者は『国葬への支持は7割は必要だ。政府が国会でしっかり説明しないといけない』と述べ、国民の理解が重要だとの認識を示した」

◆あまりにも浅慮だった岸田総理の判断

 この記事から2か月たって、事態はどうなったか。

「政府が国会でしっかりと説明」する気配などさらさらない。確かに岸田首相は閉会中審査で与野党からの質問に応じたが、所詮は閉会中審査。その答弁内容も7月14日記者会見内容と大差なく、とてもではないが「しっかりと説明」したとは言い難い。

 報道各社の世論調査を見てみると、ひとつの例外もなく国葬への反対意見が賛成意見を上回っている。「7割は必要」とされた「国葬への支持」など望むべくもないどころか、むしろ不支持が7割に迫る勢いだ。反対意見の内容を見てみると、安倍晋三への評価もさることながら、国葬実施の法的根拠の脆弱さを懸念する声が多いようだ。公明党党内の「閣議決定ではなく新法制定を求める意見」が正しかったわけだ。

 事態は総じて、前出の記事にある立憲民主党幹部の「死去直後で表立っていなかった批判が今後、顕在化する可能性がある」との懸念が的中した格好となっていると言っていいだろう。

 全ての懸念が的中する中、案の定、内閣支持率は急落。岸田総理はいまごろ頭を抱えているに違いない。

 もしこうした懸念材料を全て放擲し、岸田総理が国葬を決断した理由が、前出の記事のように「保守層をつなぎ留める」ところにあったとするならば、あまりにも浅慮だろう。

 岸田内閣のみならず近年の自民党政権が頼みの綱とする「保守層」とやらは、さほど数的に大きいわけではない。安倍晋三存命時にあたかも「保守層」が大きな塊に見えていたのは、安倍とそれを取り巻く一群の人々が、保守系メディアで奏でる一種の〝エコーチェンバー〟が機能していたからだ。

 皮肉なことに、「保守層」とやらが数的には小さいことを今回の国葬騒動が定量的に浮き彫りにしてしまった。もし「保守層」が「つなぎ留める」必要あるほど大きな存在ならば、国葬反対意見がこれほど大きくなることも、統一教会との接点如きでこれほどの騒ぎになることもないはずではないか。岸田総理はまさにプラトンの「洞窟の比喩」の「洞窟の住人」のごとく、幻影を実体だと勘違いする浅はかさを露呈したわけだ。

 浅はかといえば、こうして岸田内閣に「つなぎ留め」る配慮をされた「保守層」も浅はかである。世論の大勢にあらがい必死に国葬擁護論を展開しているようであるが、そのことごとくが現実によって反駁されている。

 一時期猖獗を極めた「弔問外交が展開されるから国葬すべきである」という愚論などその最たるものだろう。弔問外交がそれほど大事ならば安倍晋三の葬儀だけでなく、もとより全ての内閣総理大臣経験者を国葬にしておかなければ理屈に合わないではないか。

 現実はさらに冷酷だ。なんと安倍晋三の国葬の10日前にイギリスエリザベス女王の国葬が行われるという。あちらはまがりなりにも在位中の元首の薨去だ。当然のことながら、東京に集まるであろう各国代表の顔ぶれは、ロンドンに集まる各国代表の顔ぶれより見劣りするものになるに違いない。

◆「靖国神社擁護論」の崩壊

 しかも安倍晋三の国葬を希求する「保守層」は知らず知らずのうちに、思想的隘路に陥り始めてもいる。

 安倍政権を支えた「保守層」の中心にして最大の勢力であった日本会議は、なぜか9月6日になって、公式WEBサイトに「安倍晋三元総理への追悼の言葉」と題する文書をおそまきながら公開した。この文書は安倍晋三が如何に偉大な指導者であったかを褒め称えるもので、彼らが安倍晋三の功績とする項目を列挙するくだりに、こんな一言がある。

「さらに「国立追悼施設構想」の白紙化靖国神社参拝、硫黄島訪問など英霊顕彰にも尽力されました」

 なるほど確かにそうだろう。日本会議及びその周辺の「保守層」は、安倍晋三に「英霊顕彰」こそを期待していた。彼らが毎年敗戦記念日に靖国神社の参道で行う「戦歿者追悼国民集会」なる奇妙奇天烈なイベントが、安倍晋三内閣誕生以来、突如熱を帯び出したのは、彼らが「安倍なら首相の靖国公式参拝をしてくれるだろう」と期待を寄せていればこそだし、安倍の方でも「公式参拝をしたいのだが妨害が多い」とまるで吉原の花魁が客の気を引く手管のようなことを言い続けることで「保守層」の気を引き続けていた。

 注目すべきは、「保守層」にとって「英霊顕彰」は靖国神社でなされなければならないというこだわりがあるという点だ。彼らが先の文書で「国立追悼施設構想の白紙化」を安倍晋三の「功績」だと規定するのはその証左の一つ。「国立追悼施設構想」とは、戦歿者慰霊のために特定の宗教によらない無宗教の追悼施設を国家として保有すべきだという議論で、2000年代初頭には盛んに議論された。

 しかし「保守層」はそれでは慰霊にならないというのだ。戦歿者の慰霊は従前通り、靖国神社で神式で行われるべきであり、国家としての慰霊なのだから内閣総理大臣はそれに公式参拝、つまり、職務として参拝すべきであるというのである。

 少し考えればこの主張が政教分離原則に違反することぐらいわかりそうなものだが、とにかく彼らはこの主張にこだわり続けている。そして苦し紛れに「そもそも慰霊行為はどう取り繕おうとも宗教的行為なのだから、神式でも問題ないはずだ」という牽強付会な論理で自分達の珍奇な主張を取り繕っている。

 しかしどうだろう。その「保守層」が一方で希求する「安倍晋三の国葬」は「国葬」である以上、憲法の規定する政教分離原則に従い、完全なる無宗教形式で行われる。彼ら「保守層」が国家に大功あったという政治家の「国家としての慰霊」が「無宗教」で執行されるわけだ。国家に大功あった政治家の慰霊が無宗教で執行可能であるのならば、同じく国家に大功あった、あるいは国家のために殉じた「英霊」の「国家としての慰霊」も無宗教で実施可能ではないか。

 だとすると、もうこれ以上、靖国神社にこだわる必要などあろうはずもない。国立慰霊施設でも作り、安倍晋三の国葬と同じように無宗教で、戦歿者や国事殉難者を国家として慰霊すればよいだけのこととなってしまう。

 この矛盾を解消するためには、あるいは反対に「安倍晋三の国葬が無宗教であることはまかりならん。慰霊はどのみち宗教行為だ。選挙演説中に凶弾に倒れたことからも国事殉難者として靖国神社の英霊と同様、神式で慰霊すべきである」とでも主張するしかなかろう。しかしそんな主張が通るはずもない。

 もはやこれは理論の行き止まりである。安倍晋三の国葬などという軽挙妄動がなければ「保守層」は元来の「靖国神社擁護論」を堅持しえたはずだった。だがもうそれも叶うまい。これから彼らがどれだけ靖国神社靖国神社と騒ごうとも、この思想的隘路に陥った彼らの声が説得力を持つことはもはやあるまい。

 本稿執筆時点では国葬が中止になる気配は一向にない。岸田内閣も岸田内閣に配慮された「保守層」もこのまま突き進むのだろう。その結果、岸田内閣も致命的な傷を負い「保守層」は抜け出せない思想的隘路に陥る。

 と、考えれば国葬を強行するのも一興かもしれない。おそらくこの国葬は、安倍晋三を弔うだけでなく、この10年の日本の政治を歪めてきた、愚かでいかがわしい勢力もろとも弔う国葬になるのだろうから。

<文/菅野完 初出:月刊日本10月号>)

―[月刊日本]―