「許してくれ」と気味悪い寝言が…“日活元スター”女優一家殺しと“罪を自白”して獄死した男 から続く

 現在の東京都目黒区で起こった1925年の女優一家3人殺し事件。容疑者として起訴されたのは田宮頼太郎という男だったが、自白以外に確たる証拠もないまま、彼は病で獄死してしまう。

 いよいよ捜査が行き詰まったかに思われたが、一人の自動車運転手・五味銕雄が浮かび上がってきた。

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「怪事件の犯人遂に逮捕さる」

 その後、「運転手五味の 疑惑益々深まる」(8月27日発行28日付東日夕刊見出し)と捜査は進み、8月28日、ついに――。

〈 怪事件の犯人遂に逮捕さる 果然五味運転手が 同僚田中と共謀の犯行

 惨殺された五十男と16の少年の死体を取り違えて検視埋葬までさせたのみならず、犯人捜査についても何らの手がかりも得られず、あるいはこのまま迷宮に入るやとも疑われた府下千住町中組の醬油屋・山田角三郎(50)、同妻まつ(43)、同雇人・渡邊嘉一郎(16)の3人殺し怪死体事件は、事件突発後8日目の28日黎明に至って、別項掲記のごとく、本社記者の手から当局に提供した被害者山田の絶筆たる間宮新逸氏宛てはがきがきっかけとなって検挙となった。捜査本部のある千住署に留置して取り調べ中だった府下杉並町馬橋14、自動車運転手・五味銕雄(37)がついに包み切れず、同人及び同人の親友で府下本田町303自動車運転手・田中藤太(40)が協力。鬼畜も及ばぬこの惨行をあえてした旨自白した。刑事の一隊は直ちに田中方の寝込みを襲い、逮捕。午前4時以来、両人を突き合わせてさらに厳重な取り調べを続けている。〉

 8月28日発行29日付東日夕刊は1面トップでこう報じた。「はがき」とは、別項記事によれば、山田が事件当日に書いたはがきが、山田所有の貸家に住む自動車運転手に届いており、彼の口から五味の名前が浮上したという。

 同紙の別の記事では、犯行に至る経緯が書かれているが、その大筋は――。五味は以前、山田の借家に住み、かなり家賃をためていた。実父が死んだ際も葬式の費用100円(現在の約16万円)を借りたこともあった。

 山田からは金を返すよう催促されていたが、五味は最近失職して金に困っており、同じく失職していた田中を誘って山田から金を奪うことを計画。「金を返す」とうそをついて8月19日午後、山田を田中の家に呼び、田中の妻子を外出させている間に、五味が山田の首を締め、田中は山田の口をふさいで手助けした。

 その後、2人で山田方へ行き、まつと嘉一郎を次々絞殺。21日深夜、行李に詰めた山田の遺体を借りた船で運び、川に投げ込んだという。同じ日付の東朝も1面トップで、東日ともども五味、田中の顔写真と現場となった田中の自宅の写真を掲載している。

酒を飲み、うなぎを食べながらの自白

 五味は大酒飲みで、同じ日付の國民は「課長を呼べと 観念した五味 酒を呑みつゝ(飲みつつ)自白」の見出し。「中村(警視庁捜査)課長は、本部で五味を前にして、同人が酒好きなところから、特に白鷹1升(1.8リットル)を買わせ、うなぎを食べさせながら徹宵(夜通し)取り調べを続けて自白を聴いたものである」と書いた。これもいまなら考えられない取り調べだ。

 同じ日付の報知の記事には、五味と田中が山田を殺した後、山田方に2人の殺害に向かう前に、浅草田原町の料理屋で酒2~3升(3.6~5.4リットル)をあおったとある。驚いた神経だが、罪悪感や恐怖心をマヒさせる意味もあったのか。 

 関連ニュースが連日紙面をにぎわす中、8月29日付読売朝刊には犯人推理の懸賞募集の結果が載っている。1744通の応募があったが、容疑者逮捕の段階で募集を打ち切り、「犯行は物取り目的」「犯人は2人」「主犯は知人」などの点から9人を入賞と決定。うち3人をほぼ「的中者」としている。

 当時の新聞は記者の思い込みが強かったせいか、ニュアンスが全く異なる場合が多い。収監された2人について同じ8月29日付朝刊で、報知は「同夜の2人は、鉄窓の中で転々、悶々、犯した罪と罰の前に一眠もできぬ様子であった」と記述。一方、國民は「2人は取り調べに対して大して悪びれる様子もなく、凶行を自白し、刑事部屋でもタバコなどをのんでいた」と書いた。

誤認起訴の責任も浮上

「女優歌子一家三人殺しは 意外、五味田中が眞犯人 適確なる證據が三つも擧つて 警視廰喜び且(か)つ驚愕す」。3カ月余りたった1928年12月5日発行6日付報知夕刊は社会面トップで見出しを立てた。大岡山3人殺しの経緯を述べ、こう続けた。

〈 意外にも真犯人と目されていた田宮頼太郎は全然大岡山事件に関係なく、3人殺しの真犯人こそ、千住行李詰め事件の犯人として目下市ヶ谷刑務所に収容中の五味銕雄、田中藤太両人であるという驚くべき事実が暴露された。さる9月11日、千住事件の取り調べも終わったので、いよいよあす両人の身柄を検事局に送ることになり、中村捜査課長、出口捜査係長は五味を署長室に引き出して最後の余罪調べを行った。その夜、五味は大岡山3人殺しの一切を自白したのである。〉

 これは報知の特ダネだったようだ。別項で「獄中に病死を遂ぐ 死人に口なき田宮頼太郎」の見出しで田宮の逮捕から獄死に至る経緯を説明した。

 同紙は12月6日発行7日付夕刊に「検事局聲(声)明書を發して 公正な態度を釋(釈)明する 大岡山事件の誤認起訴に關(関)して 前例もあり三警官引責か」という記事を載せた。田宮に対する誤認起訴について、当時の日暮里署幹部の責任問題が起きてきた、として署長、司法主任、担当刑事の名前を挙げ、「当然その責任は免れ難い」と指摘した。3人の写真も載せている。

 同じ紙面には、そのうちの当時の五味田署長の「世間では田宮を拷問して自白させたように伝えているが、決して不法なことをしたのではない」「いまでも田宮が真犯人であるとは固く信じている」という談話も載っている。

 森長英三郎「史談裁判第三集」によれば、東京地裁の担当検事は大岡山の事件を五味と田中の犯行と認めることに難色を示し、予審判事は千住の事件のみ公判に付した。

 結局、中山歌子の家から奪われた指輪と時計が2人の家で見つかるなどしたため、1929年9月になって大岡山の事件も追起訴したが、弁護士から詰問された担当検事は「田宮も事件に関係しているに違いない」と答えた。

 弁護士は「一度思い詰めたら、別の真犯人が出てきても、なお変えない根性を見て恐れをなした」と著者に語ったという。

「多くの人を殺して責任を感じないか」「感じませんね。私は人を殺すために生まれてきたものと考えています」

 2つの事件を併合した初公判は1931年3月6日。大岡山の事件からは約5年半がたっていた。「大岡山、千住両事件とも当時満都を慄然たらしめた事件だけに、陪審2部の大法廷もたちまち200余名の傍聴者で目白押しの満員となった」と3月6日発行7日付東朝夕刊。

 審理では、風邪気味の田中を裁判長が気遣う一幕もあったが、「酒巻検事の公訴事実の陳述に入るや、一転して、ものすごい強盗殺人の状況が次々と読み上げられ、傍聴席からは、いまさらながらにため息や戦慄の言葉が漏れてくる」(東朝)という状態だった。

 公訴事実について、共犯の田中は「だいぶ違います」と述べたが、五味は「全部間違いありません」とはっきり答えた。さらに「大体、両事件とも私一人でやるつもりで、田中に手伝わせる気はなかった」と陳述。「あくまで田中を かばふ五味」(東朝見出し)の態度が目立った。

 五味独自の異様な“殺人哲学”があらわになったのは同年3月18日の公判。19日付東朝朝刊には小野賢次弁護士、小林四郎裁判長とのやりとりが載っている。

弁護士 多くの人を殺して責任を感じないか

五味 感じませんね

弁護士 妻の肉親を殺して、妻に対して何と思っているか

五味 自責の念に堪えず、離縁しようと思ったが、金がなく、離婚後の生活の補償をしてやることができず、離婚もできなかった

弁護士 大岡山事件に田中を引き入れ、その後、田中に対してどう考えたか

五味 気の毒したと思い、何とかして金もうけをさせてやろうと思っていた

裁判長 実際責任を感じないなら、何と思ってこの大罪を犯したのか

五味 人の生死は絶対のもので、殺された人は、私でなくとも誰かに殺される運命にあるのだと信じています

裁判長 それで殺したのか

五味 人殺しは私の終生の仕事で、私は人を殺すために生まれてきたものと考えています〉

逮捕され獄死した田宮を「何とヘマな馬鹿野郎だろうと…」

 「豪語し平然としている態度には、裁判長はじめ満廷ただ呆然として驚きの目を見はるのみであった」と東朝は書いている。見出しは「人殺しは私の仕事 五味が法廷で豪語」。

 五味が一審判決後、小野弁護士に送った「死刑になるまで」という手記には、彼の「宿命論」がさらに明確に表れている。高田義一郎「犯罪研究 大正の疑獄事件」(「犯罪学雑誌」1940年5月号所収)から抜き出す。

〈 自分の意思によってその生まれ場所を選む(選ぶ)ことができないように、われわれ人間は死に場所をも死にざまをもえり好みすることはできません。病に死するも、自殺するも、また悪人の凶手に非業の死を遂げるも、みな運命であり、その人々が一人一人に負うて生まれた因縁なのです。私の手によって殺された中山一家の人々も、山田一家の人々も、そしてその罪ゆえに絞首台の露と消ゆる私も、みな等しく運命に操られて、たどるべき道をたどった自然の法則なのです。

 かく考えると、私が犯した罪悪も、ただこの自然の法則の役目を果たしたのであって、別段これを悔ゆることも謝罪することもないと思うのです。どう考えても、私は人々のように悔悟する気はありません。〉

 五味は「死刑を恐れない」とし、その理由に「私の経験によりますと」と次のように書いた。「瞬間に生から死へと落ちていく者は、意外にも眠るがごとく死ぬるものです。大岡山の人々も千住の人々も、いずれも私の目の前で、私の手によって実に安らかに何の苦しみもなく、死出の旅路へ旅立ちました」。

 自分勝手な理屈だといえるが、本人は、田宮が逮捕されて獄死したことについても、「私はそれを気の毒と思うよりも、何とヘマな馬鹿野郎だろうと思い、また、つらつら考えてこれも運命だと考えましたから、別段自分の心を痛めることもありませんでした。いまももちろんそう思っています」と手記で述べている。

“品行が悪く、評判は最悪”だった五味

 千住の事件で逮捕された際の1928年8月28日発行29日付東朝夕刊によれば、五味は現在の台東区浅草橋に当たる浅草区新福井町に生まれ、3歳の時、母を失い、貧困のうちに成長した。

 1915年に小学校を卒業して市電運転手に。バスの運転手を経て1919年、東京市自動車(のち東京乗合自動車)の運転手となった。同社のバスは車体をダークグリーンに塗っていたので「青バス」と呼ばれていた。

 しかし長続きせず、その後運輸会社を転々。千住事件の約2カ月前、トラック運転手をしていた会社を飛び出して以降はブラブラしていた。妹と父は1925年に死亡。兄も外国語学校在学中に死亡し、当時は妻子と7人暮らしだった。品行が悪く、評判は最悪だった。

「それ以来、私はこの社会のからくりについて考えるようになったのです」

 五味自身は手記で心情を吐露している。青バスの運転手だったとき、給料値上げを要求してストライキを決行したが、争議は収拾され、五味は首謀者の1人として解雇された。

「それ以来、私はこの社会のからくりについて考えるようになったのです。考えれば考えるほど私の胸には反逆の血が燃え立ってきました」。「××の闘士として一身をささげようとしたのです」というのは「アカ(共産主義)」ということか。だが、それもできず「次第次第に今日かかる運命に逢着すべき道順をたどりきたったのです」。

 逮捕時の1928年8月29日付読売朝刊は、五味の自供として、大岡山事件で有力な嫌疑者とされた後、「嫌疑が晴れて後も、世間から相手にされぬようになってしまった。そのため五味は世間を呪詛して性格一変し、自暴自棄の結果、身の破滅を招いたものであることが分かった」と書いている。

 いずれも身勝手な理屈で、大量殺人を繰り返したことの言い訳には毛頭ならないが、彼なりの挫折があったことは想像できる。

「私の死刑はむしろ安いと思う。田中は手伝いだから、私と同じにしないでくれ」

 3月25日には早くも論告があり、2人に死刑が求刑された。この公判でも五味は「刑務所は居心地が悪くて嫌だから、早く死刑を執行してくれ」と発言。さらに裁判長に求められてこう述べた。

「私の死刑はむしろ安いと思う。田中は手伝いだから、私と同じにしないでくれ。なお、これは大罪を犯した私には言う資格がないかもしれないが、現代の社会には懐手をして大泥棒をやってる者が、裁判所では無罪や執行猶予になってる。こんな法律に裁かれるのは実に残念だと思う」(3月25日発行26日付東朝夕刊)

 当時、疑獄事件で無罪判決が出ていたことを皮肉ったわけだが、ジャーナリスト岸田菊伴は「引かれ者の小唄というのはこういうものであろう??」と評した(「引かれ者の小唄」1931年)。

 判決は同年4月20日。2人とも求刑通りだった。「五味は突然立ち上がって『私は即時死刑執行を願います』と述べ……」と4月20日発行21日付東朝夕刊。

 同紙によれば、五味はさらに「大体日本の裁判所は悠長すぎる。私のこんな事件が足かけ4年もかかるなんて国家的損害である。裁判官の悠長にはあきれる」と毒づいたという。その言葉通り、五味は控訴しなかった。

「大正の疑獄事件」は「死刑判決を第一審で甘受した者は、この五味銕雄が最初だとか聞く」と書いている。

 田中は控訴したが、控訴審でも判決は変わらず、1932年4月5日の上告審判決も死刑だった。

 死刑執行は1933年3月7日。同日発行8日付東朝夕刊は「斷(断)末魔まで異る 死刑囚二人の性格 生に未練たつぷりの田中 五味は總(総=すべ)てを観念」の4段見出しを立てた。

「執行前、まず阿弥陀堂に導かれて教誨師から引導を渡されても、無宗教の彼は遺言一つせず、いかにも来るべき時が来たという姿で絞首台に立ったといわれている」(同紙)

 一方、田中は「小石川白山で芸妓をしている妹が心を込めて送った経帷子(きょうかたびら=経が書かれた白い着物)を着て死刑を受けた」と同じ日付の東日は伝えている。

獄死した田宮頼太郎をめぐる謎

 こうして、大岡山女優一家3人殺しと千住醤油屋3人殺しという2つの大量殺人事件には決着がついた。が、残る謎は獄死した田宮頼太郎だ。

 大岡山事件での五味と田中の追起訴を報じた1929年9月26日付朝刊で、東朝は「怪奇をきは(極)める 田宮頼太郎の自白」、読売は「冤罪に泣いて獄死した 田宮の自白こそ奇怪」と書いたが、それ以上の追及はされず、警察官の処分もなかった。

 実は報知は、五味と田中が大岡山事件の真犯人という特ダネを報じた直後の1928年12月6日付朝刊にある疑惑についての記事を載せている。見出しは「獄死した田宮は 桐ケ谷六人殺し犯人か 警視廰刑事部の見込」。

 桐ケ谷6人殺しとは、大岡山の事件から3年前の1922年12月30日未明、府下大崎町(現東京都品川区)桐ケ谷の洋品店に賊が押し入り、手おののような凶器で主人夫婦と長男、長女、妻の妹、そして主人のいとこの男性計6人を殺害した事件。遺留品はなく、奪われた物もないとみられ、物取りか痴情・怨恨かもはっきりしないまま迷宮入りしていた。

 報知の記事は、「五味、田中を大岡山事件の真犯人と断定した警視庁刑事部内に、田宮は桐ケ谷6人殺しの犯人ではないか、彼の素行、来歴は事件に1つの光明を与える有力なる人物ではないか、との説が有力に伝えられてきた」とした。

 その大きな根拠として同記事は次のように書いた。

「田宮が日暮里署に検挙された当時、良心の呵責に耐えかねて大岡山事件を自白したといわれるが、その陰に、心ひそかに桐ケ谷事件の被害者6人を祭ってある桐ケ谷六地蔵に前後30余回参詣して仏の冥福を祈った事実があった」

 うなされて「すまない。許してくれ」と大声を出したころのことだ。さらに田宮は大森に住んでいた時期があり、現場付近に土地勘があったことも疑いを強めたという。

 驚いたことに、「警視庁史 大正編」もこう書いている。

「当時、次のような観測も流布された。すなわち、彼は桐ケ谷事件の真犯人だったのではあるまいか。そして自分の犯行が、あまりにも無残極まるものであったことを思うと、良心の呵責に耐えかねたが、さりとて自首して自分の口から犯行の事実を述べることの恐ろしさに、思い悩んだすえ、たまたま発生した大岡山事件を桐ケ谷事件の替え玉に使って良心の呵責から逃れようとしたのではなかろうかというのである」

 警察の正史がこうしたことを書くのは無責任といわれても仕方がないだろう。だが、「昭和犯罪史正談」も田宮のことを「この男は結局、大岡山の犯人でこそないが、何か大きい事件の犯人に相違ないと、いまも検事の間で伝説になっている」と書いている。

「史談裁判第三集」は「田宮のように、うなされたりすることは今日では珍しくない。被害妄想患者であったと見てよいだろう」と片づけているが……。

現代の“大量殺人”は「殺人・致死事件全体の0.5%程度」

「新版誠信心理学辞典」(2014年)は、大量殺人は被害者が3人以上と定義されることが多いという。同書によれば、その発生は日本では殺人・致死事件全体の0.5%程度。

 それが、大正の終わりから昭和の初めにかけては、今回登場しただけで桐ケ谷6人殺し、大岡山3人殺し、千住3人殺しと3件も。いずれも残虐で悲惨な犯罪であり、それだけ野蛮で荒廃した時代だったともいえそうだ。

 ただ、金銭目的の強盗で、千住の事件のように9歳の女児まで殺す必要があったのか。そう考えると、五味の「運命論」に基づく“殺人哲学”が特異だったように思える。

 いずれにしろ、約100年後の現在の無機質な無差別大量殺傷事件とは明らかに性格が異なる。不穏当かもしれないが、善悪を棚上げして言うなら、犯罪に人間臭さが濃厚に漂っている気もする。懐古的すぎるだろうか。

参考文献

▽「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽小泉輝三朗「昭和犯罪史正談」 大学書房 1956年
▽田中良人「強力犯捜査要領」 東洋書館 1948年
▽森長英三郎「史談裁判第三集」 日本評論社 1971年
▽岸田菊伴「引かれ者の小唄」 新東京社 1931年
▽「警視庁史 大正編」 1960年
▽「新版誠信心理学辞典」 誠信書房 2014年

(小池 新)

2人の護送と捜査本部の打ち上げを伝える読売。捜査員はトンカツと枝豆とうな丼で乾杯したという