1970年に「生命科学」という分野の創出に関与し、早稲田大学、大阪大学で教鞭をとった理学博士の中村桂子氏。生物を知るには構造や機能を解明するだけでなく、その歴史と関係を調べる必要があるとして「生命誌」という新分野を創りました。そして、「歴史的文脈」「文明との相互関係」も見つめ、科学の枠に収まらない知見で生命を広く総合的に論じてきました。科学者である彼女が、年齢を重ねた今こそ正面から向き合える「人間はどういう生き物か」「人として生きるとは」への答えを、著書『老いを愛づる』(中公新書ラクレ)として発表。自身が敬愛する各界の著名人たちの名言を交えつつ、穏やかに語りかける本書から、現代人の明日へのヒントとなり得る言葉を紹介します。
母が自分の着物をほどいて仕立てたワンピースの思い出
太平洋戦争の末期、東京はアメリカの戦闘機B29による空襲で人の住める場所ではなくなりました。
愛知県に疎開しましたが、その時送れる荷物は柳行李(やなぎごうり)一個でしたから、身の周りのものだけしかありません。そんな苦労をして送った夏用の白いワンピースが、お洗濯をして干している間に盗まれてしまったのでした。
しばらくして、それを着てお父さんに連れられて歩いている女の子を見かけましたが、「私のよ」とはどうしても言えませんでした。お習字の時に墨を飛ばして裾近くにつくってしまった小さな黒いしみがありましたから、私の洋服に違いないとはわかったのですが。
その後、母が普段着の銘仙の着物をほどいて私と妹につくってくれた紫色のワンピースが気に入り、今度は盗まれないようにと大事にしました。
ホームスパン、つまり手織りのゴツゴツした布がやっと手に入って冬服ができ……という具合に、今もその頃着ていた洋服の一つ一つを思い出せます。母の苦労がわかっていますから、数少ない洋服を大事にしました。
私が子どもを育てた時は、幸い日本もかなり豊かになり、デパートへ行けば可愛らしい子ども服が並ぶようになっていました。
でも、心のどこかに母が自分の着物でつくってくれた洋服の思い出が残っていたのでしょう。自分のスカートをほどいて子どもたちの洋服をつくりました。娘には水玉や花柄の生地を選び、息子のズボンはしっかりした生地でと。
本格的に洋裁を勉強したわけではありませんが、当時は家庭用雑誌に型紙がついていましたので、それを使って幼稚園までの普段着は手づくりでした。楽しかったですね。こんな形で親から子へ何かが伝わっていくのが、暮らしというものなのではないでしょうか。
今は、欲しいものが何でも手に入ります。街を歩けば魅力的な洋服がたくさん並んでいますので、「どうしても欲しい」とまで行かず、「あらいいわね」程度で手を出し、クローゼットがいっぱいになってさあどうしようとなる時代です。
私は何もない時代を知っていますのでぜいたくは苦手ですが、それでもそろそろ整理をしなければいけないなあという程度の洋服は並んでいます。
戦争によってすべてを失い、子どもの洋服を手に入れるのにも苦労する時代がよいはずはありません。でも「工夫してつくろうよ、それが面倒くさかったら、それはたいして欲しくないんだよ」という言葉がよく理解できるのは悪くないと思いますね。
アフガニスタンの無医村は「医療」以前に「水」が不足
ちょうどよい加減の生活ができるとよいのですけれど、人間は自分をコントロールするのがあまり上手じゃないのかもしれません。自然を壊して、異常気象を起こしてまで、豊かさや便利さを求めてしまったことからもそれはわかります。でも、このままではいけません。
倉本さんは、次の世代である純と蛍が、五郎さんの思いをどう受け継いでくれるかと問いながら、ドラマを通して私たちの世代がやらなければならないことをきちんと示して下さっています。
老いの役割の一つに、自分の体験を次の世代に伝え、それを前向きに生かしてもらえるようにすることがある、ということですね。
富良野に暮らすようになって生きるために一番大切なものは水とわかった若者のことを書いている時、頭をよぎったのがアフガニスタンで凶弾に倒れたお医者様の中村哲さんのことです。
アフガニスタンの人々のために身を粉にして活動をしていらした方がなぜこのような形でいのちを失わなければならないのだろう。この報道に接した時は、人間って何なんだと思い、口惜しく、また悲しくなりました。
人間は困った存在で、誰しも清く正しくとだけ生きていけるものではないことはわかっています。でも、これほど実直な気持ちで皆の幸せを願い行動している人が、現在を生きる人々すべてにとってどれだけ大切な存在かということは、どんな立場の人にもわかるはずです。
それがわからない人を生み出す社会はどこか間違っています。みんなで直していかなければなりません。
中村哲医師への思いはいくら語っても語りきれないものがありますが、ここでの課題は水でした。中村医師は最初はアフガニスタン難民のための医療チームをつくり、山中の無医地区で診療をしようと思って現地に入ったのです。
1984年にペシャワールへ入り、1989年からアフガニスタン国内へ活動を広げられました。ところが、診療を続けている中で、アフガニスタン東部での大干ばつに出合い、医療も大事だけれど、もっと根っこのところに水があるとその重要性を実感されました。
生きるために不可欠なのは水であり、それが得られる状態をつくることが基本だと考えたのです。そこで、1,600本もの井戸を掘り、また大がかりな(25.5キロ)用水路づくりという医師にとっては専門外の知識や技術を必要とする難事業に挑戦なさいました。
詳細は是非御著書をお読み下さい。中村先生のお人柄と実行力に、こういう生き方ができたらすばらしいなと羨ましくもなってきます(著書例『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』NHK出版)。
いままで土埃の中で体を洗ったこともないという人々が暮らすところに水が出るようになった時、真っ先に来たのが牛と馬と子どもだったそうです。素直な気持ちで動く牛と馬と子どもが大喜び。なんとも楽しいですね。
それを見て大人たちももちろんやってきます。こうして体を水で洗うようになったら子どもたちの病気が目に見えて減ったとあり、なんてすばらしいことをなさったのだろうと改めて尊敬の念が湧いてきました。
「男も、女も、子どもも、動物も、昆虫も、鳥も、みんな喜んだと思いますね。やっぱり命というのはですね、水が元手なんだなあと、わたしはつくづく思いましたですね」
すてきですね、この言葉。長い長い御苦労の末にみんなが喜ぶ姿を見た時の喜びはどれほどのものだったでしょう。その後で「一つの奇跡を見るような思いがしました」ともおっしゃっています。
(中略)このように言えるお仕事をなさった、その基本に水への思い、すなわちいのちへの思いがあったのです。
私たちはあまりにも簡単に水が手に入る生活に慣れ切っていますが、時にこれほど大切なものはないのだということを思い出さなくてはいけませんね。
中村 桂子
JT生命誌研究館 名誉館長
理学博士
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