(河崎 環:コラムニスト)

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丸の内で世紀の土下座を見せた大和田常務は、六本木では土下座未遂

 ドラマ「半沢直樹」で語り草となった、大和田常務、いや俳優・香川照之の世紀の土下座。憤怒を剥き出しにした表情で、怒りと抵抗感に手足を震えさせながら、恥と悔しさを叩きつけるがごとく床の上で身体を丸めてみせた、あれは確かにドラマ史に残る名演技だった。

 取締役会なる“御前会議”で行う土下座というものが、いかに昭和平成のビジネスマンにとって尊厳と引き換えレベルの重大事であるか、そして会社組織のヒエラルキーがいかに揺るがしがたく絶対であるか、前提となる価値観が日本社会で共有されていたからこそ、あの土下座はドラマティックになったといえる。

 あの東京中央銀行本店(作者・池井戸潤氏が小説のモデルにしたのが東京三菱UFJであるという説をとるならば、あの取締役会が行われた本店会議室は丸の内のはず)で土下座を見せて名優との評価を恣(ほしいまま)にした香川照之。だが彼はこの夏、酒癖の悪さによる強烈な性加害とパワハラの数々を糾弾されて有名企業CMや情報番組レギュラーを追われ、話題のドラマ「六本木クラス」では原作上、最終回で土下座するはずのシーンで土下座を「させてもらえなかった」。

 このことには、「仕事をする男の土下座」の意味の変質、時代の流れを感じるのである。

香川照之があの状況下で続投した意義は十分にあった、と言えるのかもしれない

 2022年夏ドラマの目玉として7月7日に放送開始した「六本木クラス」(テレビ朝日系)が9月29日に最終回を迎えた。

 JBpressの読者には世代的にいまひとつピンとこないかもしれないが、Netflix制作の韓国ドラマとして大ヒットした「梨泰院クラス(イテウォンクラス)」の日韓共同リメイクプロジェクトとして制作されたドラマである。

 主演は竹内涼真新木優子平手友梨奈ダブルヒロインとなり、香川は竹内演じる六本木の居酒屋「二代目みやべ」の店長・宮部新の宿敵で、外食産業トップ企業「長屋ホールディングス」会長の長屋茂という、ドラマのいわば「ラスボス」となる人物を演じた。

 放送開始直後から視聴率は好調だったが、連ドラとしては異例の全13回の放送予定が7回まで進んだところで、「週刊新潮」の報道によって香川の性加害が明るみに出、ドラマ降板も取り沙汰された。

 しかしどうやら日韓の制作契約上の違約金問題などもあり、香川は最終回まで続投することとなった。もちろん、テレ朝には「あんな下劣な性加害をする役者を続投させるのか」との批判も寄せられたという。だが、香川が長屋茂役を継続し、最終回まで走り抜けたことは、ドラマにとっても、香川本人にとっても、意義深い決断だったように思う。

「土下座阻止」が意味するものとは

 最終回で、竹内演じる宮部新は、香川演じる長屋茂が会長を務める「長屋ホールディングス」の買収を発表する。茂は新の店に赴き、新に向かって「本当にひどいことをした。だから許してくれないか。この通りだ。長屋(会社)を私から奪わないでくれ」とジャケットを脱ぎ、床に膝をついて、視聴者が期待するかつての「満身の土下座芸」の幻影を再現せんとする。

 韓国版では、新にあたるパク・セロイが茂にあたるチャン・デヒ会長の土下座を見て「夢みていた光景なのに心の底から喜べない」と悲しみ、「これはビジネスです」と冷静に突き放す。ところが日本版では、新は茂に向かって「僕を舐めてるんですか?」「土下座ですか・・・」とその顔に下からぐっと近づいて見上げ、「いまのあなたが土下座をしたところで何の価値もありませんよ」と、その土下座を冷たく制したのだ。

 ドラマを見ながらツイートする、いわゆる「中継ツイート」勢によって、「新、土下座阻止!」「香川照之土下座させてもらえなかった!!」「大和田常務土下座ならずーーー!!!」とTwitterのタイムラインは大騒ぎになった。

 私は感嘆のため息を漏らし、「やるなぁ」「そういうことかぁ」「そうかぁ」と何度も呟いた。

 8月末、香川の性加害が報道された時点で、脚本家・徳尾浩司による9月29日予定の最終回台本はおそらく書き上がっていただろう。それに、テレ朝側は要所要所で韓国版とは異なるアレンジを行うことで、日本版を単なる翻訳ドラマにはしないことも企図していたから、この「土下座阻止」演出は香川の件に関係なく、あらかじめ制作で決まっていた路線だったかもしれない。

 だがこの夏、一般視聴者・読者に断罪されるだけでなく、トヨタをはじめとする大企業テレビ局、芸能界、日本中から「それは一発アウト」「許されない」「言い訳のしようがない」とある種見放された名優にとって、この土下座阻止は「いまのあなたが土下座をしたところで何の価値もありませんよ」との鋭い名セリフと共に人々の溜飲を下げる、社会的制裁の役割を果たした。

 すると、一流の役者の家に生まれ、頭脳明晰と名演技と人たらしで知られ、それでなくともプライドの高さがうかがえる香川が、世間からの冷たい視線と恥にまみれた事後の渦中でなお演じ続けたこと、そしてかつて自分が全国的な称賛、いや絶賛を手にした「土下座」を封じられるという屈辱的な場面を演り遂げられたことは、役者として僥倖だったのではないか、と私は感じたのだ。

2022年の働くZ世代にとって、権威主義はもうシンプルにダサい

 もうひとつ、2013年の「半沢直樹」から2022年の「六本木クラス」への時間の流れで、土下座なるものの意味がすっかり色褪せてしまったとも感じられた。ビジネスシーンで期待される振る舞いが変質した、ともいえるだろう。

 冒頭でも書いたように、大和田常務土下座がドラマティックになり得たのは、そもそも会社組織のヒエラルキーが絶対であり、上のポジションの者は下のポジションの者に給与権力その他あらゆる面で優越し、仕事の成功失敗はそのまま人生の成功失敗、みたいな「社畜的価値観」が社会にある程度共有されていたからだ。

 土下座が最上級の謝罪の形であり、同時に自尊心を傷つけられる屈辱でもあったのは、武士や軍隊の感覚が生きている時代だったから。上下関係が厳しく、年長者の権威は絶対で、仕事が文字通り命、仕事をする人格と本人の人格がまるっきり一致しているカルチャーだったからこそ、人々は自分のさまざまな記憶や感情を大和田常務土下座にのせて味わったのである。

 よくよく考えれば、香川照之の性加害やパワハラの件は、若い世代から見れば「怖くて権力を持ったおじさんが、自分の力で相手をねじ伏せるいじめ」。そうやって「俺は偉いんだぞ、だから黙って大人しく言うことを聞いていればいいんだ」と威嚇するおじさんたちのやり方を、若者は「僕を舐めてるんですか?」「何の意味もありませんよ」とクールにやり過ごし、おじさんたちの命たる「仕事」を軽やかに買収し、乗り越えていく。「六本木クラス」というドラマが見せた復讐とは、そういうことではなかったか。

 私たち世代がずっと否定できず上の世代から継承してしまい、真正面から受け止めてしまい、囚われ続け、苦しんだ権威主義は、彼ら新世代の若者たちが、あざやかに否定してくれたのだ。

◎連載~河崎環「令和の人」観察日記
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写真はイメージです(出所:ぱくたそ)