
(水野 亮:米Teruko Weinberg エグゼクティブリサーチャー)
大統領→刑務所→再び大統領
ブラジルが歓喜に包まれる映像が世界に流れた。いつぶりだろうか。
2014年開催のブラジルFIFAワールドカップや2016年のリオデジャネイロ五輪・パラリンピック以来、ブラジルでは歴史的な景気後退やコロナ感染の拡大など暗い日々が続いた。しかし10月30日、沸き返るサンパウロやリオデジャネイロなど大都市の路上がニュースで放映された。ブラジル大統領選の決選投票で、左派労働党のルーラ・ダ・シルバ候補が2023年1月に次期大統領に就任することが決まったのだ。
ルーラ氏は2003~2010年に大統領を務めた人物。任期の前半、資源や穀物などの商品相場がいっせいに上昇する「コモディティ・スーパーサイクル」に支えられてブラジルは歴史的な高度成長を遂げた。退任後は政治汚職で刑務所に入っていたが、好景気を先導し、貧困層対策にも尽力したルーラ氏を「救世主」と見る向きが、「犯罪者」のイメージを上回ったことが今回の大統領選の勝因となった。
無論、コロナを起因とする景気後退で貧困層が拡大する中、度重なる過激な発言で物議を醸した現職のジャイール・ボルソナーロ大統領(右派自由党)に対する国民のアレルギー反応がルーラ勝利を後押ししたことも大きい。
ポピュリストのルーラ氏は貧困層や労働者層を主な支持基盤とする。前の大統領時代には貧困層に対する現金給付拡充策の「ボルサ・ファミリア」といった、いわばばら撒き政策も展開した。今回の選挙戦でも最低賃金の引き上げや貧困地域支援、貧困層の所得税免除などを公約に掲げていた。
ただ、決選投票は史上まれに見る大接戦となり、政権運営はたやすくはなさそうだ。ルーラ氏の得票率は50.9%で、相手となったボルソナーロ氏との差はわずか2%弱しかない。
ボルソナーロ支持者は高速道路を封鎖
ボルソナーロ大統領もルーラ氏に人気では引けを取らない。支持層である保守派のキリスト教福音派の人口は急増している。大統領として国営企業の民営化や年金改革などブラジル経済の構造的問題にメスを入れてきた。米国が利上げ局面に入ると、従来は外国資金の流出に悩まされることが多かったが、米連邦準備制度理事会(FRB)の利上げへの対応も早く、2022年には経済回復やインフレの沈静化の兆候も見られ始めた。
選挙結果に納得がいかないボルソナーロ支持者は高速道路の封鎖といったデモ行動を起こしている。決選投票の2日後にそれまでの沈黙を破って会見したボルソナーロ大統領は、デモ参加者に平和的に行動するよう呼びかけ、次期政権への移行を受け入れる旨表明する一方、「我々の夢はかつてなく生きている(Our dream is more alive than ever)」と述べ、次期政権への政治的な挑戦を仄めかした。
ブラジルでは二極化が進んでいる。ルーラ氏は勝利演説で「私が統治するのは2億1500万人のブラジル国民だ。投票してくれた人だけではない。『二つのブラジル』はない」と統合の重要性を強調した。
保守派の台頭は、大統領選と同時に行われた連邦議会選挙の結果にも表れている。
ボルソナーロ大統領の自由党は、下院議会の議席数をそれまでの76議席から99議席に増やし、同氏に近い政党を合わせると240議席となった。一方、ルーラ氏の労働党は連立を表明しているブラジル共産党および緑の党と合わせてそれまでの68議席から80議席としたが、労働党に近いとされる政党を合わせても122議席となり、自由党陣営には大きく差をつけられている。上院議会でも自由党が議席を増やし、影響力を強めた。
前回と違い低成長下での就任
政権党と議会の多数派が異なる、いわゆる「ねじれ」に対し、ルーラ氏は右傾化した連邦議会と上手く調整しつつ、同時に支持層の中間層や貧困層の要望に応えていく政治的手腕が求められることになる。
もっともその点は織り込み済みのようだ。ルーラ氏は、過去の政敵であり、中道ブラジル社会党のジェラウド・アルキミン元サンパウロ州知事を副大統領候補に立てるなど、すでに中道派と手を取る方向で動いている。前回の大統領時代にも議会との調整を求められる機会は少なくなかった。選挙戦での過激なレトリックとは異なり、財政規律の尊重や経済の自由化の流れを止めることなく、一方で貧困層対策も軽んじない姿勢で国民の人気を集めたという実績がある。
だが、新政権を取り巻く環境は以下のとおり決して良好とはいえない。
国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(ECLAC)によると、ブラジルは2023年には実質GDP1.0%増の低成長が見込まれている。 現政権下でのコロナ対策や景気対策費用の増加により財政状況は悪化している。 保守派の台頭により議会はより右傾化している。厳しい状況の中でルーラ氏がどのような経済政策運営をするのか。
過去に独裁擁護を思わせる発言も
米FRBの利上げによる米国内需要の減退や中国経済の失速、欧州地域の問題が、ブラジルの鉄鉱石など鉱物資源価格の低下や輸出の減少につながりそうだ。ブラジル政府の公的債務残高は同国GDPの8割以上に上昇している。議会で右派や極右派の勢力が強まる中、過剰な公共支出や増税はコンセンサスを得られそうもなく、貧困層支援などのポピュリスト的な政策は大きな制約を受けそうだ。
副大統領に就く予定のアルキミン氏は、ルーラ氏や労働党が発言していた歳出上限の変更を含む財政ルールの見直しについて「交渉の余地なし」(non-negotiable)と自身のツイッターでその可能性を否定している。ルーラ氏が主張している国営企業の民営化の見直しに関しても同様だ。電力公社エレトロブラスはすでに民営化に向けたプロセスに入っており、この流れを議会で覆すのは極めて難しいであろう。
経済環境や議会に縛られているルーラ氏は、少なくとも当面のあいだは好き勝手ができず、ポピュリスト的な政策もほどほどになりそうだ。こうなればブラジルでビジネスを展開する日系含む外国企業や投資家にとっては朗報といえる。
外交面はどうか。
ルーラ氏の勝利により中南米地域で進む左傾化の流れがいっそう強まる可能性がある。外交経験豊富なルーラ氏がメキシコ、アルゼンチン、チリ、コロンビアなど左派政権の国を中心に中南米地域を先導する展開も予想される。
こうなると米国との関係が気になるところだ。過去にニカラグアやキューバの独裁政権を擁護するような発言を残しており、この点でも米国と対峙するリスクが高い。
中国に近づけば米国は警戒
現在のボルソナーロ大統領はブラジルのOECD加盟を重視し、欧米諸国との貿易協定締結に向けて協議を進めてきた。一方、中国との関係では、実態としてはブラジル国内で進む中国の貿易・投資のプレゼンスの拡大は見られたものの、政治的にはそれほど緊密な関係を築いたとはいえない。
これとは対照的にルーラ氏は中南米地域に加えてBRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ共和国)との関係強化を外交の柱としている。
まずは中南米諸国やBRICS諸国との貿易協定締結など経済関係強化、そして多くの中南米諸国が参加する中国の一帯一路イニシアチブに加わるかどうかが注目を集めそうだ。
米国は中南米諸国の一帯一路への参加の動きを警戒している。ルーラ氏が中国に近づく動きを見せれば米国との関係にとってネガティブに働くであろう。
これとは逆に環境カードはバイデン政権との外交の切り札となりそうである。
バイデン大統領は決選投票の結果発表後、すぐにルーラ氏に祝辞を送った。ルーラ氏もバイデン氏とのあいだで「民主主義、環境、そしてブラジル・米国間協力の強化」について電話で話し合ったとツイッターで発表した。
日本政府・企業にとって好機に
ルーラ氏は気候変動対策を重要な政策の一つに挙げている。環境への取り組みを通じてブラジルの信頼度を高めることを目指している。環境外交を展開するバイデン政権とのあいだでは環境カードは極めて重要な切り札となりえよう。
経験豊富なルーラ氏が中南米諸国を取りまとめる力があると仮定するならば、中南米地域で影響力を失いつつある米国が再び地位を取り戻すためにカギを握る人物ということになる。ブラジルを巡る中国の動きに目配りしつつ、ルーラ新政権に協力していく姿勢が求められよう。
これは米国だけでなく日本にもいえることである。
ブラジルは世界最大の日系人コミュニティーを有するだけでなく、かつては経済協力を通じて日本のプレゼンスが極めて高い国であった。国民の日本人や製品に対する信頼度も高い。ルーラ氏が重視している環境対策などを通じたブラジルの信頼度の向上は外国投資を呼び込むためでもある。日本政府や企業には新政権で好機となりうる面があることも強調したい。
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