高齢化社会で老人で溢れているはずなのに、「おばあちゃん子」がいません。高齢化社会にほど遠かった時代のほうが、人間の老いや死が身近な出来事だったようです。老人医療に詳しい精神科医の和田秀樹氏が著書『老人入門 いまさら聞けない必須知識20講』(ワニブックスPLUS新書)で解説します。

超高齢化社会なのにジジババがいない?

■老人の影が薄くなっていないだろうか

いまの時代は超高齢社会だの長寿の時代だのと言われていますが、その割に私たちは老人を身近な存在と感じなくなってはいないでしょうか?

たとえばかつては「おばあちゃん子」という言い方がありました。

忙しい母親にあまり可愛がってもらえない子どもが、おばあちゃんに甘えます。

おばあちゃんは孫をとにかく可愛がります。欲しがるものはできる限り与えようとするし、あまり叱ることもありません。だから子どももおばあちゃんが大好きですし、ときには母親よりおばあちゃんの言うことを聞くようになってしまいます。

おじいちゃん子」という言葉もあったはずです。それくらい子どもたちにとっておばあちゃんとかおじいちゃんというのは身近で親しい存在でした。

でも年齢を思い浮かべてみると、孫を可愛がるおじいちゃんおばあちゃんはまだまだ若かったはずです。たとえば子どもが5歳なら両親はせいぜい30代ということになります。昔は若くして子どもを産みましたからおじいちゃんおばあちゃんもまだ50代か60代です。いまの時代に当てはめれば全然、老人ではありません。

しかし子どもはその家の中で少しずつ成長してやがて成人して家を出るときが来ます。それが20歳だとすればおじいちゃんおばあちゃんも60代後半から70代になっています。

日本人の平均寿命は戦後になって一気に伸びましたが、じつは1970年代でしたら男性がやっと70歳、女性でも70代後半でしたから、孫が20歳になるころは亡くなるおじいちゃん、おばあちゃんがふつうにいたはずです。たとえ20歳が近づいても、孫にとっておじいちゃんおばあちゃんはやさしくて愛すべき存在のままでした。幼いころは甘えてばかりでも、だんだんいたわるようになってきます。

何を言いたいのかというと、まだ超高齢社会や長寿の時代には程遠かったころのほうが、家庭の中で老人を間近に見つめる時間が長かったし、それだけ人間の老いとか死が身近な出来事だったということです。

いまはどうでしょうか?

おじいちゃんおばあちゃんのお葬式に出ることはあっても、ほとんどの場合、一緒に暮らした時間がないのですから、老いて死んでいくという当たり前のプロセスに身近に接することがありません。

高齢者がどんなに増えても、その高齢者と接する機会が減ってきたという不思議な現象が起きているのです。

「老いること」は本当に不幸なのか?

■老いることへのマイナスイメージに振り回されていないだろうか

家庭の中で老人と接する機会が減ったかわりに、高齢者を取り囲む厳しい状況だけはどんどんテレビやマスコミで報道されます。

認知症が原因で起こったとされる交通事故、介護離職のように高齢者が家族に負担や犠牲を強いているような現実、高齢者の感情的な振る舞いや居丈高な言動などですが、高齢者を抱えている家族の不安を煽るような報道もしばしば見られます。

とくに離れて暮らしている親がいれば、子どもは「一人にさせて大丈夫だろうか」と心配します。「少しボケてきたみたいだから、火の始末やガスの消し忘れも心配だ」「転んでケガでもされたら寝たきりになってしまう」と気が休まりません。

そして年老いた親のほとんどは、施設の世話になるのを嫌がります。子どもがどんなに勧めても、「まだ大丈夫だ」と言い張ります。

たしかに介護サービスはかつてに比べれば充実してきたかもしれません。かつてはどんなに高齢になっても、病気にならない限り自宅で世話をするしかなかったのですから家族にはそれなりの負担がかかってきました。

その点だけを考えると、いまはデイサービスや訪問介護を受けることができて、介護度が高くなれば施設(特別養護老人ホームなど)に入ることもできるのですから家族は高齢者の世話をしなくて済むようになっています。

これは高齢者が気を遣ったり遠慮したり、あるいは家族が苦労しなくて済むという点ではとてもいいことだと思います。でもそのかわり、人間が老いて弱っていくことのありのままの姿に触れる機会も減っていきます。

すると、自分が老いることに対してもマスコミが植え付けているような不安イメージしか持てなくなります。

高齢になるということは認知症や寝たきりになって介護を受け、家族や社会とのつながりも断たれてしまい、これといって楽しいこともなく弱って死んでいく。たとえばそんなイメージです。これでは老いることについて悲観的な受け止め方しかできなくなるのも当然のような気がします。

多くの高齢者は70代80代を元気に過ごす

■どんな人にも幸せな老いの時期がある

でもいま挙げたような老いのイメージには根本的に抜けているものがあります。

認知症で何もできなくなるとか寝たきりになるとか、介護施設に入って家族と暮らせなくなるというのは、老いの最終段階でしょう。いまの時代でしたら80代後半から90代にかけてのことで、病気にでもならない限り大半の高齢者は70代80代を元気に過ごしています。

ご夫婦で助け合っている80代もいれば、夫や妻に先立たれても身のまわりのことは一人でやり遂げたり、できないことはヘルパーさんの助けを借りながらきちんと暮らしている90代だって珍しくはないのです。

ところがそういう老いの現実を、子どもたちはふだん目にすることがありません。

ふだんは「大丈夫かな」と心配し、たまに実家に帰れば「やっぱりボケてきたな」とか「歩くのも危なっかしいな」と進んできた老いだけに目が行きます。たまにしか会わなければ余計に目につくのです。「そろそろ施設を探しておかないと」と考えてしまいます。

これがもし、身近なところで老いを見つめていればどうなるでしょうか。

独り暮らしのおばあちゃんおじいちゃんだって、手を休めてのんびりお茶を飲んだり菓子を食べたり、近所の仲良しと集まっておしゃべりしたり、飼い猫日向ぼっこしているときがあります。家事といっても夫婦だけとか独り暮らしになればそれほどやることはないのですから、一日はのんびりしています。お酒の好きなおじいちゃんは、早めに晩酌の時間をつくって少しのお酒を美味しそうに飲んでいるときもあるでしょう。

地方に暮らす老人でしたら、小さな畑を作って自分たちが食べるぶんの野菜を育てているかもしれません。公民館のような施設で料理教室とか手芸講習とか、敬老会のような集まりもちょくちょくあります。何の予定もないお年寄りにとって、そういう集まりは楽しみのひとつで、ときどき顔を合わせる幼馴染みとおしゃべりに熱中します。

都会暮らしや街暮らしでも同じです。

自分が長く暮らしてきた地域には、贔屓の食べ物屋さんや顔馴染みの商店があるものです。散歩がてらゆっくり歩いて買い物に行ったりお昼ご飯を食べたり、仲良しの老人同士で小さな旅行に出かけたり趣味の習い事を始めてみたり、誘い合ってスポーツクラブで軽い体操を始めてみたり、とにかく気が向いたことを気の合う人と楽しんでみることができます。

お互いに夫婦だけとか独り暮らしなら、訪ねるのも遠慮が要りませんから、ときには得意な料理を持ち寄って一緒に楽しむことだってあるかもしれません。

そういった暮らしは、いまの80代でしたらどこに住んでいても特別な光景ではありませんね。誰にも気を遣わなくて済むし、気兼ねも要らない、見栄だの体裁だのを取り繕う必要もありません。ゆったりして、気持ちのいい時間が一日の中にたっぷり用意されています。「ああ、歳を取るっていいなあ」と目を細めている老人が案外、多いかもしれないのです。

和田 秀樹 和田秀樹こころと体のクリニック 院長

(※写真はイメージです/PIXTA)